呂布の前に夏侯惇が立ちはだかり、その隙に曹操は逃げ帰った。
今度は劉邕の策で、呂布の城を三手に分けて攻撃したが破れてしまう。
しかも逃げる曹操と呂布はばったり出くわし、曹操はとっさに顔を手で隠した。
呂布は「曹操はどこだ」
と言うと、「あの黄馬に乗って行くのがそうでございます」
と曹操は答え、呂布はそれを追って行った。
難を逃れた曹操は典韋に助けられて陣へ戻った。
曹操は、自分が火傷を負って死んだことにし、呂布をおびき出して打ち破った。
呂布は逃げ戻って城を固めた。
以後、睨み合ったままで動かず、曹操軍は兵糧がつきてやむなく撤退し、戦いは自然に休戦となった。
除州では陶謙が病に倒れて病死した。
その後、除州は劉備に任せられることになった。
小沛の兵を入城させ、劉備は陶謙の葬儀を行った。
劉備が除州を乗っ取ったと曹操は大いに怒った。
しかし、荀昱は大を棄てて小につくと諌め、先に黄巾の残党を討って兵糧を得るべきだと進言した。
そして、曹操は黄巾の砦を攻めた。
そこで、典韋は許拠と戦い、許拠は曹操に降った。
その後、曹操は黄巾を平定した。
兵糧を得た曹操に、程昱は呂布を攻める事を進言した。
そして、兵を進めた。
呂布は陳矯の言葉を聞かずに進撃してきた。
許拠が呂布に挑んだが、曹操は「呂布はとても一人では討ち取れまい」
と言って典韋を加勢に向かわせた。
さらに夏侯惇、夏侯淵、李典、楽進が向かった。
しかし、六人がかりでも討ち取ることができなかった。
さしもの呂布も六人がかりではたまらずに逃げ去った。
しかし、呂布が逃げ帰って来ると城門が閉められ、しかたなく呂布は陳矯のいる城へと逃げていった。
しかし、陳矯達も曹操に打ち破られ城から逃れていた。
曹操は呂布をさんざんに打ち破って大勝した。
呂布は落ち延び、途中で陳矯達と合流した。
陳矯はまだ曹操くらいは破れるといい、呂布は兵をとって返そうとする。