現在整理中の四部の学における歴史・地理・類書に関わる史部について、目次で収まりきれないものを整理マップとして抽出してまいります。
ちなみに、東洋思想全体の分類の仕方ですが、東洋には「四部の学」(四庫分類)という分け方があるため、その分類に準じながら整理を進めています。
■経部 (儒教の経典および注釈等。訓詁学(文字解釈)を含む)
■史部 (歴史・地理・類書等)
■子部 (諸子百家等。天文学・暦学・医学・薬学等をも含む)
■集部 (文学作品、文芸評論)
内容は順次更新していきますので、全体を把握する際の目安としてください。
サイト全体の目次は以下となります。
・東洋思想の目次
・文化・芸術の目次
・音楽・映画・娯楽の目次
■史部 – 歴史・地理・伝記
[正史・二十四史]
二十四史の整理マップ!伝説上の帝王黄帝から明滅亡の1644年までの歴史!
・『史記』 – 司馬遷(漢)130巻12本紀10表8書30世家70列伝 526,500字
・『漢書』 – 班固(後漢)・班昭(後漢)100巻12本紀8表10志70列伝
・『後漢書』 – 范曄(劉宋)120巻10本紀80列伝30志
・『三国志』 – 陳寿(西晋)65巻30魏志20呉志15蜀志
・『晋書』 – 房玄齢(唐)・李延寿(唐)ほか130巻10帝紀20志70列伝30載記
・『宋書』 - 沈約(南斉) 100巻
・『南斉書』 - 蕭子顕(梁) 59巻
・『梁書』 - 姚思廉(唐) 56巻
・『陳書』 - 姚思廉(唐) 36巻
・『魏書』 - 魏収(北斉) 114巻
・『北斉書』 - 李百薬(唐) 50巻
・『周書』 - 令狐徳棻他(唐) 50巻
・『隋書』 - 魏徴、長孫無忌(唐) 85巻
・『南史』 - 李延寿(唐) 80巻
・『北史』 - 李延寿(唐) 100巻
・『旧唐書』 - 劉昫他(後晋) 200巻
・『新唐書』 - 欧陽脩、宋祁(北宋) 225巻
・『旧五代史』 - 薛居正他(北宋) 150巻
・『新五代史』 - 欧陽脩(北宋) 74巻
・『宋史』 - トクト(脱脱)他(元) 496巻
・『遼史』 - トクト(脱脱)他(元) 116巻
・『金史』 - トクト(脱脱)他(元) 135巻
・『元史』 - 宋濂他(明) 210巻
・『明史』 - 張廷玉等(清) 332巻
[日本史]
・古事記 -
・日本書紀 -
・太平記 -
・平家物語 -
・神皇正統記 -
・日本外史 -
・日本政記 -
[史部 その他]
・『国語(春秋外伝)』 – 左丘明(春秋)21巻 約92,500字
周語3巻・魯語2巻・斉語1巻・晋語9巻・鄭語1巻・楚語2巻・呉語1巻・越語2巻の全21巻
作者は不明で、『左伝春秋』の補遺として左丘明が著したとする説が古くから根強く、『漢書』では『左伝』を“春秋内伝”、『国語』を“春秋外伝”と呼んでいる。
記述に統一性が欠ける点や戦国初期に言及していることから、漢代に現行の体裁に編纂されたとする見解が妥当とされる。
文学的価値は『左伝』に遠く及ばないが、孔子が否定的だった占いや予言、謀略なども採録され、儒教が普及する以前の春秋時代を知る歴史書として重んじられ、古くは“左・国・史・漢”と併称されていた。
周の穆王35年の犬戎討伐~貞定王16年の知伯滅亡を扱う。
・『戦国策』 – 劉向(漢)33篇 約120,000字
戦国諸国の国史や遊説家の言説・逸話などの記録を、国別に編纂したもの。
人口に膾炙した逸話が多いことも特徴で、底本となった国策・国事・短長・事語・長書・修書などは戦国末~西漢初に作られ、司馬遷が『史記』編纂にあたって多くの史料を仰いだことはよく知られる。
一度散佚し、宋代に姚本と鮑本の二種の版が生じ、従来は姚本が原典の体裁を保っているとして尊重されたが、1976年には長沙の馬王堆から佚文『戦国縦横家書』などが発見されたことで、鮑本の信頼性が再評価された。
・『通典』 – 杜佑(唐)200巻
801年頃に成立した、古代から玄宗の天宝年間に至る制度史。
開元末期に劉秩が『周礼』に倣って撰した『政典』35巻の不備を補うもので、著述に30年を要した。
『漢書』以来の断代史偏重に対し、『史記』に倣って食貨・選挙・職官・礼・楽・兵・刑・州郡・辺防の九部門について、制度の沿革・変遷の詳細を論述し、殊に唐代の社会経済・制度を知るうえで欠くことのできない資料となっている。
・『資治通鑑』 – 司馬光(北宋)ほか294巻
1084年に完成した、戦国時代の三晋封建~五代末年の編年史。
1064年に英宗に奉上した『通志』8巻が基となり、勅撰に準じたものとして編纂には当代一流の史学者が参画し、また思想の一貫性や文体の格調も高く、神宗から『資治通鑑』との書名を下賜された。
『春秋』の体裁に倣うなど宋代の正統思想の影響が強く、司馬光が失脚した後に本格的に著述が進められた為に客観性には欠ける点があったが、完成後は『史記』と並ぶ中国史書の双璧と讃えられ、徽宗代の党禁でも英宗の序文があった為に禁書措置を免れ、以後の多くの野史が編年体を踏襲するなど史学界に多大な影響を遺した。
注釈書としては宋末元初の胡三省のものが最も重要とされ、本書未収録の記事も附加されて『資治通鑑』を読む上での必読書とされる。
・『十八史略』 – 曾先之(元)全7巻
太古~宋末の簡略な編年史。
王朝史観で著述され、以って漢民族の自覚と矜持を鼓舞することを目的としたとされる。
史書より小説に近く、史料的価値のない俗書とも評されるが、最も簡便な中国史の入門書として、むしろ中国よりも日本で愛好されてきた。
多くの加筆増訂が施され、明の陳殷らによって現行の体裁となり、その際に三国時代の正統が蜀に改められた。
・『山海経』 – 伯益(夏)18巻
・『列女伝』 – 劉向(漢)8巻
女性の伝記集。
母儀・賢明・仁知・貞順・節義・弁通・孼嬖など7部門を立て、それぞれに該当する女性15人前後の伝記を載せ、顧愷之の作と伝えられる挿絵が付されている。
後世に増補が行なわれた結果、劉向の批評である“頌”のない伝記や新朝以降の伝記が混じって15巻となったが、宋代に劉向作の『古列女伝』7巻と増補分『続列女伝』1巻に再編されて現行の8巻本となった。
・『竹書紀年』 –
先秦時代の晋・魏の国史を記した編年体史。
晋の咸寧・太康年間(275~289)に、戦国魏の襄王の陵墓が盗掘された際に発見され、荀勗が整理した“汲冢書”の1つ。
伝説時代から魏の襄王までが竹簡に記され、『春秋』『史記』とは異なる記事も多かった為に野史・偽書として長らく放置され、北宋代に再び散佚した。
革命後に諸書の引用文からの復元が進められており、現在では先秦史の欠を埋め、『史記』の年表を再構成する上で不可欠な資料となっている。
・『十六国春秋』 – 北魏の崔鴻の作 全100巻。
十六国時代の歴史書。
原本は宋代には散佚して『十六国春秋纂録』が崔鴻本の抄訳として伝えられ、清代に湯球が諸書にある崔鴻本からの引用文と思われる箇所を『纂録』に輔綴して『十六国春秋輯補』を完成させた。
また明代には屠喬孫・項琳が『北史』『晋書』などの諸書から輯佚した偽作本もあったが、現今ではより信頼度が高い明代本が『十六国春秋』と呼ばれている。
・『文献通考』 – 宋末元初の馬端臨の著 全384巻。
政治史主体の『資治通鑑』に対抗し、上古から南宋嘉定末年(1224)にいたる諸制度の沿革・変遷を論述している。
『通典』の注・増補として成立したが、宋代の記述については既に散佚している一級資料が基礎になっており、宋代史を研究する上で不可欠のものとなっている。
またこの時代には本書の他、古代以来の通史である『通志』などの各種通史が編纂されている。
[地理]
・『山海経』 – 著者・成立時期ともに不明、中国古代の地理書。
禹と、その治水を輔けた伯益の共著と伝えられ、多くの神話を含んでいる。
先秦時代に南山経・西山経・北山経・東山経・中山経の“五蔵山経”ができ、増補を累ねつつ劉歆が“海外四経”“海内四経”各4巻を加えて校訂し、郭璞が“大荒四経”4巻と“海内経”1巻を加えると共に注を施してほぼ現行の体裁(5部18巻)となった。
“五蔵山経”は儒教に影響される以前の山岳崇拝に則して洛陽一帯を中心とした概念上の地理を解説したもので、山岳を主体に河川や産物・鳥獣・神霊などを紹介し、後代の成立になるほど神話伝説や怪異の比率が増して、後代には伝わらなかった神話伝説なども含んでいる。
・『穆天子伝』 – 著者・成立時期ともに不明 全6巻。
『竹書紀年』と共に発見された“汲冢書”の1つで、束皙・荀勗・杜預・郭璞らの校訂・注をへて現行の体裁となった。
周の穆王の外征や西巡を中心とした歴史書の体裁を採り、穆王と西王母との会見は古代西方地域の地理・文化の起源や、西王母伝説や崑崙伝説と中原文化の関わりを研究する上で重視される。
・『風土記』(陽羨風土記) – 晋の周処が著した郷土志。
各地で編集された『先賢伝』『耆旧伝』同様に、東漢後期以来の郷党意識の昂揚の中で編纂された代表的な地方志で、後の『歳時記』群にも大きな影響を与えた。
・『西京雑記』 – 著者・成立時期ともに不明 全6巻。
長安の逸話小説集。
劉歆の著作を東晋の葛洪が蒐集編纂したという説と、葛洪の許にあった劉歆の集めた資料のうち、『漢書』に漏れたものや異同のある箇所を抜粋して編纂したとする説がある。
西漢の長安の様子を伝える貴重な資料であり、文人が詩作の際にも大いに重用したという。
・『華陽国志』 – 東晋の常璩の作 全12巻。
華陽は『尚書』禹貢篇の梁州を指し、漢の益州にあたる。
北宋の元豊年間(1251~58)に成都で刻されたものは誤脱が多く、南宋で1204年に正史によって補訂された。
神話時代~成漢の巴蜀地方の地理・物産・人物伝などが述べられた地方志で、『三国志』裴注や『後漢書』章懐注にも多く引用されるなど正史の欠を補う点が多く、又た三星堆文化の出現によって古代の記述についても正当性が再評価されつつある。
・『仏国記』 – 東晋の法顕の取経記 1巻。
西域経由でインドに入り、セイロンから南海経由で帰国するまでの30余ヶ国についての見聞録。
仏教史のみならず中央アジア・インド・東南アジアの歴史を知る上でも貴重な資料で、現存する中国人仏僧の内陸アジア記録中最古のものであり、欧文訳もされている。
・『荊楚歳時記』 – 南梁の宗懍が著した中国最古の歳時記 原名は『荊楚記』。
漢末以来行なわれていた各地の風土記や人物伝が発展したもので、6世紀中頃に完成し、荊楚地方の年中行事や風俗習慣を記録している。
後に隋の杜公瞻が南北の風俗の差や年中行事の沿革などにまで言及する注釈を施したため、すぐれた民俗学的資料となった。
・『水経注』 – 北魏の酈道元の著 全40巻。
3世紀頃に著された『水経』に対する注となっているが、『水経』137河川に対して1252河川について解説し、漢以来の地理知識の集大成と見做される。
著者自ら華北各地を歴遊した体験と諸書から得た知識によって黄淮水系のみならず、やや正確性を欠くものの長江水系についても記述され、全流域の都城・古跡・山川について古書を多数引用して説明している。
10世紀に5巻が失われ、その後改訂を重ねると伴に経文と注文との混雑を生じたが、清の戴震らの尽力でほぼ原本が復元された。
・『洛陽伽藍記』 – 北魏の楊衒之が547年頃に完成 全5巻。
永煕の乱(孝武帝の出奔と高歓による洛陽劫掠:534)で荒廃した洛陽の、往時の繁栄を追憶した著者が後世に伝えるために撰したもの。
城内各寺院の建立者や由来、貴族の信仰や思想のみならず都城の様子や風俗、政界の事件や西域との交流にまで言及し、第5巻には宋雲・恵生の西域紀行文も載せられている。
粉飾の少ない文章と簡潔な表現は、史料として有用なだけでなく文学的価値も認められている。
洛陽の寺院は西晋では42寺にすぎなかったが、北魏孝文帝の洛陽遷都と漢化政策や霊太后の傾倒によって増加の一途を辿り、貴族が死後に邸宅を寄進して寺院とすることも一般的で、その盛時には1千寺を超えたと伝えられる。
・『大唐西域記』 – 唐の玄奘の取経旅行記 全12巻。
取経旅行中の見聞を勅命で著して長安僧の弁機が編集したもので、歴訪した110ヶ国と伝聞した28ヶ国について記述されている。
記述の中心は諸国の仏教事情や仏趾の状況になっているが、気候・風土・習俗・地理・歴史にも言及し、さらに諸国の言語や地名の翻訳・漢語化にあたっては非常に慎重に配慮しており、旅行記というよりむしろ当時の内陸アジア・インドについての百科全書的な書になっている。
そのため仏教史・歴史地理のみならず、言語学・考古学・民俗学の研究の上でも貴重な資料を提供し、法顕の『仏国記』と双璧とされる。
・『太平寰宇記』 – 宋の楽史が太平興国年間に完成させた地理書 全200巻、目録2巻。
現存最古の総志でもあり、中国および隣接諸国の地理・文化・歴史的沿革が記されている。
燕雲十六州については名称のみの列記で記事は無いが、本土地域については統属関係や戸数・産物のほか形勢官戸や山水湖沼・橋梁・寺観・古跡、陵墓の個人の略伝も併記している。
唐代に作成された地理書の補欠・修正を目的としたが、前代までの地理書が地理的現状の報告を主体としたのに対し、文化・風土誌的な面を付加し、後世の地理書に多大な影響を与えた。
現在の通行本では8巻が欠けているが、うち5巻が日本宮内庁図書寮所蔵の宋刊本中に残存しているという。
・『東京夢華録』 – 宋の孟元老が1147年ごろ完成させた、東京開封府の回想録 全10巻。
紹興11年の和議によって開封回復が放棄されたことに対する抗議の一面がある。
都城内外の地理案内と風俗描写、様々な年中行事を紹介し、当時の風俗文化を知るうえで貴重な史料となっている。
・『大明一統志』 – 明の英宗の勅撰により李賢らが編修した、中国および属国の総合地理書 90巻。
同趣旨の書として洪武年間に成っていた『大明志』が早くに散佚していた為、永楽年間から全国的地誌の作成事業が進められ、景泰年間に陳循らによって『寰宇通志』119巻が完成したが、奪門の変に伴う一連の前代否定作業の一環として『一統志』編纂が進められた。
内容的には全く『寰宇通志』の抄略本にすぎず、正確さに欠ける点も少なくないとされる。
[類書]
類書とは百科事典に類せられている、既存の書物からの抜粋・引用によって成立している点は“叢書”に近い。
・『北堂書鈔』 – 隋の虞世南の編 全160巻。
大業年間(605~617)に完成した、現存する最古の類書。
北堂とは、編纂を行なった秘書省の後堂の俗称。
秘書郎として、公文書作成に際しての参考書として諸書から語句を抽出・類別したもので、帝王・后妃・政術・刑法など19部に分かれ、各部はさらに細分されている。
次代の『芸文類聚』『初学記』の先蹤でもあり、現存しない古籍が多く引用されるなど、古典研究の上で不可欠の資料となっている。
・『芸文類聚』 – 唐高祖の勅撰 全100巻。
欧陽詢が中心となり、十数人の学士が3年がかりで編纂して624年に完成した。
天部から災異部まで64部727目に分類されている。
事実の列記とは別に、関係する古今の詩文を文体別に記録してあることが特徴で、そのため詩文の作者に愛用され続けてきた。
又た亡佚した唐以前の文献資料も豊富に収録されており、『北堂書鈔』『初学記』とともに古典研究の上でも貴重な資料となっている。
・『初学記』 – 唐玄宗の勅撰 全30巻。
集賢院学士徐堅らが編纂し、開元15年(727)に完成した。
諸皇子の作文の際の参考書として作成されたもので、23部313類より構成され、語句を用例・出典と共に記載して、唐の類書中では「博の『芸文類聚』、精の『初学記』」と並称された。
佚書からの引用も多く、史料的価値も高い。
・『太平御覧』 – 宋太宗の勅撰 全1000巻。
李昉ら13人の学者が編纂し、984年に完成した。
類書の代表的なものとされ、『古今図書集成』を除けば『冊府元亀』と並ぶ大部。
『易経』の示す森羅万象の数に応じて55部門を立て、それぞれに小項目を設けて5426項に細分されている。
引用書物1689種とあり、その多くが当時既に原書が失われて他の類書から引用したものと考えられているが、古代中国の学術研究の上で貴重な資料を提供していることで尊重されている。
太宗が1日3巻を閲覧したことから賜名されたという。
・『冊府元亀』 – 宋真宗の勅撰 全1000巻。
王欽若・楊億らが編纂し、1013年に完成した。
天子執政の為の指南書が本来の目的であり、古代~五代の君臣の事績を31部1104門に分類して『君臣事迹』を原名とした。
歴朝の制度史的な側面があり、殊に唐・五代の詔勅・上奏文資料が豊富で、史料的価値はきわめて高く評価されている。
宋刊本は553巻が現存し、明代に行なわれた復刻と鈔本は誤謬が多いとされる。
・『永楽大典』 – 明の永楽帝の勅撰 全22,877巻、目録60巻。
解縉を主編として2169人が編集に携わり、年余の編纂で永楽2年(1404)に『文献大成』として奉呈したものを、随所の不備を修正して『永楽大典』として同5年に完成した。
百般の書から抜粋した記事を『洪武正韻』の文字の順序に従って配列し(‘送’巻には送韻の字が列記され、その中の‘夢’字の項には夢に関する記事が列記されている等)、韻で配列した類書としては中国最大。
建文帝の事跡を抹消し、永楽帝の正統性を証明する目的で編纂されたため、体裁面での完成度が低いなどの急造の弊害はあるが、佚書の文章を多く収録していることから貴重な資料となっている。
嘉靖41年(1562)に副本が作られて隆慶(1567~72)の初めに完成し、明末の混乱で正本(北京/文淵閣)が失われて副本(北京/皇城内)のみが不完全ながらも清朝に伝わり、『四庫全書』編纂にも大いに資ししたが、義和団事件で大部分が消失・散佚した。
世界各地の『永楽大典』の断片をすべて収集しても797巻にしかならず、うち714巻は北京図書館に収蔵されている。
・『三才図会』 – 明の王圻の作 全106巻。
1607年に完成した。
天地人の三才にわたる事物を14部門に分けて解説した類書。
研究資料としては特に傑出してはいないものの図像が豊富に用いられていることが特徴で、現代では歴史人物の図像が転載される事も多いが、人物像は歴史的根拠に基づいたものではなく、又た荒唐無稽の記事が含まれいる事と併せて『四庫全書総目提要』でも批判されている。
日本では医師の寺島良安が体裁を踏襲し、一部を流用して1712年に『和漢三才図会』105巻を出版した。
・『古今図書集成』 – 清の康煕帝の勅撰 全10,000巻。
陳夢雷らが編纂した後、雍正帝の勅命で蒋廷錫らが『永楽大典』に倣って再編・増補して雍正3年(1725)に完成した、現存する中国最大の類書。
古今の図書から抜粋して事項別に列記し、それぞれ原典名が記されている。
全体は暦象・方輿・明倫・博物・理学・経済の6篇に大分類され、以下32典6109部に分類され、各部はほぼ彙考・総論・図表・列伝・芸文・選句・紀事・雑録・外編の順に記述されている。
・『四庫全書』 – 清の乾隆帝が欽定した、78,731巻より成る中国最大の叢書。
経史子集の4部から成る事が名称の由来。
乾隆6年(1741)より書籍の蒐集が始められ、紀昀が総纂官とされてより10年後の47年(1782)に完成した。
その間の検閲で3千点程が禁書とされ、内容を改竄された例もあり、又た37年(1772)より厳罰を以て民間からの献本を強制した為、文教興隆よりも言論・思想統制に主眼が置かれたとされる。
初め4セットが作られて宮中の文淵閣、円明園離宮の文源閣、奉天行宮の文溯閣、熱河避暑山荘の文津閣に収蔵され、同55年(1790)に揚州大観堂に文匯閣、鎮江金山寺に文宗閣、西湖孤山に文瀾閣を建てて各1部が収められた。
文源閣本は1860年の英仏連合による攻撃で、文匯閣本・文宗閣本は太平天国の乱で焼失し、現在、文淵閣本は台湾の故宮博物院に、文溯閣本は甘粛省図書館に、文津閣本は北京図書館に、文瀾閣本は浙江省図書館に収蔵されている。