呂氏春秋より学ぶ!人倫実践の規範を悟らしめる書!

呂氏春秋(呂覧)とは、中国の戦国時代末期、秦の呂不韋が食客を集めて共同編纂させた十二紀・八覧・六論、26巻160篇から成る書物です。
「十二紀」(内篇):孟春、仲春、季春、孟夏、仲夏、季夏、孟秋、仲秋、季秋、孟冬、仲冬、季冬の各紀五篇と序意の計61篇
「八覧」(外篇) :有始、孝行、慎大、先識、審分、審応、離俗、恃君の各覧八篇(有始のみ七篇)の計63篇
「六論」(雑編) :開春、慎行、貴直、不苟、似順、士容の各論六篇の計36篇
その思想は儒家・道家を中心に、名家・法家・墨家・農家・陰陽家など諸学派の説が幅広く採用され、雑家の代表的書物であり、秦代思想史研究の唯一の資料とされています。
書名の由来は1年12ヶ月を春夏秋冬に分けた十二紀から『呂氏春秋』、八覧から『呂覧』とされています。
呂不韋は食客3000人を従えていた戦国時代の最後を代表する宰相で、あの始皇帝の宰相を務めていました。(商人出身である呂不韋ですが、一説には秦の始皇帝の父であるという話しもあります)

それまでは、人間の正しい生き方として「道」や「天」に従うべきであるといわれていましたが、実際にどのように生きればいいのか漠然としていたため、呂不韋は儒家・道家・法家などの思想を取りまとめ、それを統一づけるものとして新しく「時令」という考え方を作り出しました。
要は『呂氏春秋』という書物からもわかるように1年を春夏秋冬の四季に分け、更にそれを孟・仲・季の三節に分けて(1ヶ月単位)、各々の天文気候に沿って 人間の日常生活を規定し、それに従うようにすればよいとした訳です。
『呂氏春秋』はその多彩さゆえに「雑家」として分類されていますが、実は人々をして自然の大道を知り、人倫実践の規範を悟らしめることを目的とした書です。

非常にすぐれている文章や筆跡のことを一字千金といいますが、これも「呂氏春秋」を著した時にそれを呂不韋が咸陽の城門に置き「1字でも添削できた者には千金を与えよう」と言ったということを起源としているようです。

様々な思想家の意見を取り入れて政治を行うことが理想的な姿であるとするのが「雑家」の立場ですが、整然とした体系を持っていて、強力な編纂意図が感じられる『呂氏春秋』からは、多くの思想を集約して政治に活かそうと考えたことが伺われます。
呂不韋は秦の宰相という立場上、信賞必罰を主張する現実的な法家思想として君臣の在り方を説く八覧を『呂氏春秋』に取り入れながらも、戦国時代末期にあって人々が戦乱に疲弊し理想主義的な儒家思想を支持するようになっていたことから、徳治・礼治による理想主義的な儒家思想の影響が色濃く表れた内容となっています。
そういった意味では、『呂氏春秋』はいくつかの立場の思想を広く取り入れて折衷しているため、統一されたひとつの立場だけにとらわれていないというのも特徴のひとつといえるでしょう。

十二紀は、人の営みは天地の運行に従い行うべきという陰陽五行説の五要素(木火土金水)の考え方に基づいています。
また、四書五経の『礼記』の月令篇は、十二紀の孟春紀から季冬紀にいたる十二篇を集めて一篇にしたものといわれています。
更に十二紀の「仲夏紀」に含まれる四篇(大楽篇、侈楽篇、適音篇、古楽篇)と「季夏紀」に収められている三篇(音律篇、音初篇、制楽篇)については、音楽について論じられています。
音楽といえば、儒家孔子が詩とともに音楽を礼の体現のために重視した、四書六経の『楽経』が著名ですね。
十二紀を通して見られるのは、儒家思想であるということです。

一方、八覧を通して統一した主題となっているのは君臣統御の方法、君臣の心構えといった法家思想です。
君主の人臣統御術、統治における勢の要件、国是の統一といった法家思想を説く審分覧
弁論と受け答えについて説く審応覧
賢者優遇の尚賢思想を説く下賢覧を含んだ慎大覧
法は時代・状況の推移に応じて変わるべきであるという典型的な法家思想を「刻舟求剣の故事」から説いている察今篇

六論は、当初から編纂を意図したものではなく、八覧を編纂する過程において生まれた残りの論説の集約と整理を目的として生まれたものであり、内容的には君臣の統御法といった八覧と同様の論説がまとめられていますが、各篇相互のまとまりがほとんどないことが特徴です。

ちなみに『呂氏春秋』においては人を観る方法として、六験八観というものが定義されています。
人間を観る方法とは、自らに対して言えば反省することであり、他に対して言えば吟味することです。

【六験】
1.之を喜ばしめて、もってその守を験(ため)す→喜ばせて、節操の有無をはかる
 喜ぶ感情は人を高揚させ、良い気持ちで調子に乗り、ハメを外してしまいがちです。
 一方、人には守らねばならない節度というものがあります。
 それをちょっと喜ばされたくらいで外してしまわないよう、節操を持つことが肝要だということです。
2.之を楽しましめて、もってその僻を験す→楽しませて、偏った性癖をはかる
 喜ぶことと楽しむこととの違いが、”喜ぶ”は本能的感情、”楽しむ”は理性の加わった場合と定義しています。
 人は楽しむと、どうしても偏ってしまいます。
 その偏りがどういったものかをきちんと把握することは肝要だということです。
3.之を怒らしめて、もってその節を験す→怒らせて、節度の有無をはかる
 怒りは感情の爆発でありますから、人間の節度を越えてしまう力を持っています。
 要は、人はどんなに怒っても、締めるところは締め、抑えるところは抑えるという節操を持つことが肝要だということです。
4.之を懼(おそ)れしめて、もってその特(独)を験す→恐れさせて、自主性の有無をはかる
 人は恐れると何かに頼ったり依存度が高まり、独立性・自主性を失いがちです。
 そうした状況で、如何に毅然と立ち振る舞えるかが肝要だということです。
5.之を哀しましめて、もってその人を験す→悲しませて、人格をはかる
 人は悲しいときにその人の全ての人格、人柄が現れるがちです。
 だからこそ、普段から人格、人柄を修養精錬することが肝要だということです。
6.之を苦しましめて、もってその志を験す→苦しませて、志を放棄するかどうかをはかる
 人間は困難に陥った場合に、その信念や志が問われます。
 千辛万苦に耐えて自分の理想を遂行していくだけの心構えがあるかが肝要だということです。

【八観】
1.貴(たか)ければ、その進むる所を観る→出世したら、どんな人間と交わるかを観る
 出世したり地位、身分が上がった際に、どういう人と関わるか、どういう人を敬い尊ぶかということを観ることで、その人物の人格が分かるということです。
2.富めば、その養う所を観る→豊かになったら、どんな人間を養うかを観る
 金ができると何を養うか。女を養ったり、子分を養ったり、犬を養ったり、いろいろと養うものを観ることで、その人物の素養が分かるということです。
3.聴けば、その行なう所を観る→善いことを聞いたら、それを実行するかを観る
 善いことを見聞きしたらそれを実行に移せるかを観ることで、その人物の行動力が分かるということです。
4.習えば、その言う所を観る→習熟したら、発言を観る
 話を聴けばその人の人物が観えるということです。
5.止(いた)れば、その好む所を観る→一人前になったら、何を好むかを観る
 一人前になったときに何を好むかを観ることで、その人物の教養が分かるということです。
6.窮すれば、その受けざる所を観る→貧乏になったら、何を受け取らないかを観る
 人間は窮すると何でも受けがちなので、困窮した際に何を受けないかを観ることで、その人物の節度が分かるということです。
7.賤(せん)なれば、その為さざる所を観る→落ちぶれたら、何をしないかを観る
 人間は落ちぶれると何をしでかすか分からない生き物なので、そうした場合でも何をしないのかを観ることで、その人物の節操が分かるということです。
8.通ずれば、その礼する所を観る→昇進したら、お礼を仕事で返すかどうかを観る
 偉くなった際にどうお礼をするのか、お金や地位、名誉かそれ以外なのかかを観ることで、その人物の品格が分かるということです。

こうした『呂氏春秋』は雑家の代表的書物であり、秦代思想史研究の唯一の資料ですので、一度触読んでみる機会を持ってみてはいかがでしょうか。

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以下参考までに、現代語訳にて「十二紀」の一部抜粋です。

【孟春紀】
立春の3日前、太史は「某日が立春です。天の生育の徳は、木の位にあります」と天子に告げる。天子は3日間、斎戒する。
立春の当日、天子は三公、九卿、諸侯、大夫を引き連れて、東の郊外に出て迎春の儀式を行い、王城に帰って彼らに賞を与える。三公に命じて徳政を行い、 禁令を和らげ、功労者には賞を与え、困窮者には恩恵を施し、万民に及ぼす、賞賜は公平に行う。
天子は、万物の天すなわち本性を全うすることをその職務とする。
官吏を配置して万民の生命を保全し、軍を設置して外敵に備える。
物の本性(軽重)がわからない者が君主となれば道理に背いた行為をし、臣下となれば秩序を乱し、子となれば狂気の行動をとる。
聖人の色、音、味に対する態度は、生命に利益があればそれを取り、生命に害があれば捨てる。
聖人が万物を統率するやり方は、それぞれの天性に従い全うすることである。これを全徳の人という。
いにしえの人の中には、富貴になることを嫌がる者がいた。それは生命を重んずるからであり、名誉のためにしたのではない。
世界中の富を一身に集めてもわが生命に比ぶべくもない。
正しい道を求める者は、行動の結果を考えるのではなく、その原因となる惑いや慎重さということをはっきりさせるのである。
諸侯や貴族は誰でも長寿を欲しない者はいない。しかし毎日本来の生に逆らうような行為をしている。
聖王が苑囿や宮殿、車馬や衣服をつくったのは心をなぐさめ、風雨に備え、身体を休ませるためであった。しかしこれらを無理に倹約し質素にしたのではない。 すべては本性、もちまえの心に合うようにさせたのである。
天下を得た王者は数多いが、興隆するときには必ず公正で、滅亡するときには偏って公正を欠く。
天下は一人の天下ではなく、万人の天下である。天地は偉大であり、物を生み出しながら私物化せず、つくり出しながら所有しない。古の三皇、五帝の治世がそうであった。
上に立つ者は細やかな見通しや、こざかしい智慧はいらない。
人は若い時は単純で愚かだが、年とともに賢くなる。
キ傒は仇敵である解狐を推挙し、自分の子であるキ午を推挙した。 人々はその公平さを称賛した。
墨家の鉅子腹トンの子が人を殺した。秦恵文君はこれを許してやろうとしたが、 腹トンは墨者の法によってこれを殺した。
君主が暴乱の国に誅罰を与えて、しかもその国を自分のものにしたならば、王覇の君と言われることはない。

【仲春紀】
聖人は耳目鼻口の四官が欲したいと願っても、それらが生に害があるならば受け容れない。逆に四官が欲しなくても、生に有益であればそれらを受け容れる。
天子になっても自らの生命をそこないたくないとする者こそ、実は天下を委ねてよい者である。
国君になっても自らの生命をそこないたくないと言った王子捜のような人物こそ、越の民が君主にしたいと願う者である。
顔闔は魯の君に登用されようとしたが、生を重んずるために、いつわって逃げ出した。
道の真髄はその身を全うすることであり、その余りの力で国家を治め、さらにその塵あくたで天下を治めることだ。
聖人の行動は目的と手段が明確である。
子華子は言った「全生(六欲が調和している)が最高で、虧生(六欲が半ば調和している)がこれに次ぎ、死はそれに次ぎ、迫生(六欲が調和していない)が最低である」
天は人に貪る心と欲望を与えたが、聖人は節度を修めて欲望に歯止めをかけた。
凡庸な君主は欲望に節度を欠いているので、何かを行うたびに失敗する。
古の道を体得した者が長生きをするのはものごとの決定が素早いからである。決定が素早いと思慮することが少なくて済むので精神の浪費が少なくて済むのである。
孫叔敖は楚荘王に仕えたことを幸運だと世間では言うが、そうではない。 孫叔敖は日夜休まず、自分の生命によいことをする余裕がなかった。だから、楚が幸運であったと言うのだ。
墨子は白い絹糸を染める者を見て言った「青に染めれば青くなり、黄に染めれば黄色になる。入れる染料が変われば色の色も変わる」
だから国も染まること(感化)には慎重でなければならない。
国家にだけ感化があるのではなく、士にもやはり感化はある。
正しい道によって行えば、功名手柄を失うことはない。だから聖王は人を集めることに努めないで、集まるゆえんの物に努力を集中する。
民は利益のあるところに集まり、無ければ去る。それでも民が逃げ出さないのは、どこへ行っても状況が同じだからである。それは暴君にとっては都合のよいことであるが、 仁義をわきまえた君主は、仁の実践に努めなければならない。
賢不肖の評価は、必ず明確な理由が根底にあってつけられるものだ。

【季春紀】
陰陽の気をほどよく調和させ、万物の有益なところを選りすぐれば、精神は肉体の中で安定し、寿命を長くすることができる。
精気が集まれば、鳥を飛ばせ、獣を走らせ、珠玉を輝かせ、樹木を繁茂させ、聖人を明らかにさせる。
肉体や精気が活動しなければ病気となる。
食事に濃厚なものをとってはいけない。
卜筮が流行しているが、それだから病気がいよいよ流行るのである。祈祷やお祓いは本質からそれた末のことだからである。
伊尹は言った「天下を治めようとして、天下を治めることはできません。治めるべき対象は、まず自分自身にあるのですから」
古の聖王たちは、まず自身の完成を目指し、そののちに天下を考え、自身をきちんと修めたうえで天下を治めた。
夏の啓は有扈氏と甘沢の地で戦ったが勝てなかった。そこで啓は生活を質素にし、目上を尊敬し、賢者を尊び、 能者を優遇した。こうして一年、有扈氏は戦わずして服従してきた。
孔子は言った「戸外に少しも出ないで、なおかつ天下が治まるというのは、 たぶん自分自身に振り返ってものを見ることができてはじめてできることでしょう」
三代の興国たちは、すべての罪は己にあるとした。そこで毎日為すべきことにつとめて怠らず、ついに天下の王となった。
他人を判断する時には、八観と六験で行う。
八観とは、通達した人であれば彼が礼遇する相手を見、貴顕の人であれば彼が推薦する人を見、金持ちであれば彼が養っている者を見、意見を聞いた時には彼の行動を見、 無事の時には彼の好む物を見、慣れ親しんだ時には彼の言動を見、窮迫したときには彼の潔癖さを見、身分が低い時には彼のできないものが何かを見て、 彼の賢さを判断することができる。
六験とは、喜ばせて彼が守るところを見、楽しませて彼の性癖を見、怒らせて彼の節操さを見、恐れさせて彼の自恃の心を見、哀しませて彼の愛情を見、 苦しませて彼の志操を見ることである。
天のはたらきは円、地のはたらきは方形である。聖人はこれを手本として上下の秩序を立てた。君子は天のはたらきに合わせ、臣下は地のはたらきに合わせて行動し、 君臣のはたらきが入り乱れることがなければ、その国は隆盛する。
一とは最高の存在で、その源流は分からず、その端緒も分からず、その始めも分からず、終わりも分からない。しかも万物はこれを本家と仰いでいる。 聖人はこの一、すなわち天に則って、その天性を全うし、天下に号令を発する。官僚たちはこれを行政にうつして、日夜やむことなく下達につとめる。 これも天のめぐるはたらきである。
古の聖王が高官を採用する際には、方正な人物を求めた。近頃の君主はみな代々国を失うまいとして自分の子孫に後を継がせ、官吏を採用しても公正を守らせることが出来ない。

【孟夏紀】
立夏の日に先立つこと3日、太史はその旨を天子に告げて「某日が立夏です。徳は火の位の南方にあります」と言う。天子は3日間斎戒する。
立夏の当日、天子は三公、九卿、大夫を引き連れて夏の気を南の郊外に出迎える。王城へ帰って朝臣を賞し、諸侯には土地を与える。賞賜は公平なので喜ばない者はいない。
君主や親、臣下や子が欲するものが得られないのは、道理をわきまえないからである。道理をわきまえないことは、学問をしないことから生じる。学問をする者が師につき、 その師が通達した学者で、学生もすぐれた才能を持っていたならば、やがては聖人にならないはずがない。
説教するということは、説いて導くことであって、相手の歓心を得ることではない。師は必ず道理を通し正義を主張し、それによって尊敬されることを求めるべきである。
師に仕えることは父に仕えることと同じことである。だから師も知識の限り道義を尽くして教え導くのである。
地位は帝王にも至らず、知識も聖人に及ばないのに、人々は師について学ぼうとしない。どうしてそれで道理を体得できようか。
天は人に能力を与えた。学問とは何かを足し増やすということではなく、人間のもちまえの天性を遂げさせることである。
暗記暗誦に努め、師のごきげんを伺い、質問してお尋ねする。師の顔色や表情を読み取って気持ちに逆らうことはしない。部屋に戻ってよく考え、意味するところを求める。 時に仲間と議論し合い道理を論じ合う。
師が存命中は生活のお世話をし、気持ちを楽しませることを第一とする。亡くなられたら、敬しんで供養する。
君子の学問とは、ある学派の学問を祖述する際には必ず師の名を挙げたたえて道理を明らかにし、学派の発展のために力をつくし、伝統をより立派にするものである。
すぐれた師の教育は、弟子達に安心して学問させ、気分も解放させ、時に休息を与え、遊びも交え、態度はきちんとして、仕事はまじめにさせる。 この6つのことを通じて学べば、邪悪な心が芽生えることはなく、道理が常に勝つ。
下手な師は気持ちにむらがあって落ち着かず、取捨も一定せず、安定した心がない。
駄目な弟子は先生について学ぶことを嫌がりながら、学問は完成することを望み、先生について学ぶ日は短いのに、学問は精深でありたいと願う。
戎人が戎の言語を話し、楚人が楚の言語を話すのは、とくに誰から習ったというのではなく、その地で生長したからである。 こう考えると、亡国の君主でも賢主になり得ないとは考えられない。ただ生長する環境が悪かったのだ。
だから環境には十分配慮しなければならない。
およそ君主が成功する基礎は、大衆の支持する力にある。だから創業がひとまず安定すると大衆を見捨てるのは、その末を手に入れて大本を手放すようなものである。

【仲夏紀】
天下が太平で万物もそれぞれ落ち着き、万人が君主の教化に従うとき、音楽は生まれる。
音楽は天地自然の調和であり、陰陽の気の調和である。
音楽がはげしくなればなるほど民衆はいよいよ怨み、国家はいよいよ混乱し、君主の地位はいよいよ低下する。
古の聖王が音楽を重視したのは、音楽が人の心を楽しませるからである。その音楽の本質をわきまえないで、規模を大きくすれば、人を楽しませることがなくなる。
音楽の務めは人の心を和やかにすることにあり、人の心を和やかにするのは、何事もほどよく行うことにある。

【季夏紀】
聖人たちの世では、天地の気が交流して風を生じ、風は夏至や冬至の節季ごとに変わった。聖人は月ごとにその風に併せて12の音調をつくった。
黄鐘の月(11月)には土木事業を起こさず、慎重にして大地の貯蔵を開くことなく、天地の気を密封せよ。
大呂の月(12月)には農民の心を農業ひとつにして徭役などに使ってはならない。
太蔟の月(1月)には立春で陽気がはめて生じ、草木が芽生える。農民に耕種の準備をさせ、時を失わないように指導する。
夾鐘の月(2月)には気候は穏やかだから、仁徳の政治を行って刑罰を去り、軍事行動を起こして民生を損なわないようにする。
姑洗の月(3月)には道路を補修し、小川や溝を修理する。
仲呂の月(4月)には軍事・徭役をすることなく、役人は巡回して農事を勧める。
蕤賓の月(5月)には陽気の真っ盛りであるから、若者たちの指導に十分配慮する。朝政がうまくいかないと若い草木も立ち枯れになる。
林鐘の月(6月)には草木が繁茂するが、立春にあたって陰気が生じるので、大事を発動することなく、陽気をいっそう保護するよう努める。
夷則の月(7月)には法律や刑罰を整備し、士卒を洗練し、武器を整え、不義の徒を誅罰して遠方の国々をなつかせる。
南呂の月(8月)には秋も深まり、虫も冬ごもりの準備に入る。農民を督促して収穫に精出させて怠けさせず、増収に心がけさせる。
無射の月(9月)には裁判を迅速に、法に従って罪を断じて手心は加えない。裁判は遅滞させず、早い結審に努力する。
応鐘の月(10月)には陰陽が上下に分かれて交わらず、天地の気は閉ざされて冬となる。この時期は喪服の親疏や順序を考え、送葬の儀典を整え正す。
孔甲が東陽の萯山で狩をして道に迷った。とある民家に入ったがちょうど出産の最中であった。ある者が、 この子は不運に見舞われると言ったので、孔甲はこの子をひきとって育てた。しかしあるとき天幕がゆれて支柱が倒れて、この子の足を斧で切ったように切断してしまい、 ついに彼は門番にまで身を落とした。孔甲は哀しんで破斧の歌をつくった。これが東方の国風の音楽の創始である。
禹は塗山氏の娘に出会って結婚したが、正式な礼を行わないで再び南方巡視に出かけた。塗山氏の娘は歌を作って悲しい気持ちを示した。 これが南方の国風の音楽の創始である。
河亶甲は都を囂から西河に遷したが、故都が忘れられず、そこではじめて西方の国風の音楽をつくった。 長公(辛余靡)はこの音楽を継承して西翟(狄)の地に住み着き、 秦繆公はその歌の調子を取ってはじめて秦国の音楽を創出した。
有娀氏にふたりの美女がおり、九重の高閣で飲食した。天帝が燕に命じてそのようすを探らせたが、ふたりの女はこの燕の鳴き声を気に入って捕えてしまった。 しかし燕は脱出して北へ飛び去った。女たちは燕を思って一曲作った。これが北方の国風の音楽の創始である。
周文王が病に臥したとき、地震があった。文王は「わたしに罪があり、だから天はこうした地震でわたしを罰したのだ」と言い、 それから諸侯に礼をもって交わり、賢士を礼遇し、群臣に賞賜した。これが文王の災害に対応する仕方であった。
宋景公の時代に熒惑(煋)が心の宿(宋の分野)に止まっていたので景公は恐れた。 子韋が災禍を宰相や民や収穫に移そうと進言したが、景公は「宰相や民や収穫に災禍をうつして、だれが自分達の君主として仰ごうか。 もう何も言うな」と言った。子韋はお祝いを述べ、熒惑は移動した。
五帝三王は人生の悦楽を極め尽くした。乱国の君主が、楽しみを極められないのは彼が凡庸だからである。
多くのものの協調が積み重なってできあがったものへの恵みは、あらゆるものが到来する。これに対して多くの邪悪が積み重なってできあがったものへの災いは、 あらゆるものが降りかかる。

【孟秋紀】
この日は立秋に入る。立秋の日に先立つこと3日、太史はその旨を天子に告げて「某日が立秋です。徳は金の位にあります」と言う。天子は3日間斎戒する。 立秋の当日には天子はみずから三公、九卿、諸侯、大夫を引き連れて秋の気を西の郊外に出迎える。帰って将軍や武人を表彰する。
軍とは威厳を誇示するものであり、威厳とは威力の表示であり、民がこれをもちたがるのは本性である。本性とは天から授与されたもので、人力ではどうにもならない。 だから古の聖王たちは正義の兵を興すことはあっても軍を廃止することはなかったのである。
怒りや叱責は家庭教育にはなくてはならず、刑罰は国家を治める上でなくすわけにはいかず、誅伐は天下の平和のために止めるわけにはいかない。 だから古の聖王は正義の兵を興すことはあっても軍を廃止することはなかったのである。
軍も水や火と同じように、上手に用いれば福をもたらし、下手に使えば禍を呼ぶのである。正義の軍が天下に良薬の働きをすること、まことに大である。
今の世は乱れているので、正義の軍が興ったならば、凡庸な君主はその民を保有し続けてはならないし、親も子がそれに従うのを禁じてはならない。
君主の思うべきことは有道を助けて無道を倒し、正義をたたえて不正を処罰することである。今、多くの学者は攻伐に反対している。 しかしそれでは専守論になり、有道を助けて無道を倒し、正義をたたえて不正を処罰することができない。
救守の説を主張する者は、無道を守り不義を援けようとはしていないが、結果はそうなっている。
軍を起こして攻伐するとき、よい場合と悪い場合があり、救守でもよいときと悪いときがある。ただ正義の兵の場合だけが必ずよいのである。 軍が正義にもとづいて動く時は、攻伐でもよく救守でもよい。
正義の軍が相手国の国境を越えて中に入ったならば、そこの官吏たちは頼れるものを得、民衆は死なずにすんだと安心する。
もしだれかが人の生死を司ることができたら、天下の者は先を争ってその人物に仕えるだろう。正義の軍が救出する人も実に多数である。 どうして歓迎しない者があろう。

【仲秋紀】
およそ兵は天下の凶器であり、凶器を使用すれば必ず人を殺すことになる。しかしこの殺人は多くの人を生かすためのものである。
用兵は、すばやく行動して勝利を得るのがよい。
鋭利な剣があっても素人であれば人を斬ることができない。だからといって闘争に悪剣を使うのはよくない。
武器は鋭利で兵は訓練されているが、用兵は時宜に適さず、指示も的を得ない。これでは悪兵を動かしているのと変わりはない。だからといって戦争に悪兵を使うのはよくない。
訓練された兵を選び、武器は鋭利にし、優れた将軍に軍を率いさせる。昔はこうして王者となり、覇者となる者がいた。
民衆は常に勇敢でもなく、常に臆病でもない。気力があれば精神は充実し、充実すれば勇敢になる。気力が失せれば精神は空虚となり、空虚となれば臆病になる。 勇敢と臆病の原因はいたって微妙で、ただ聖人だけがその真因を見抜いている。
用兵はその場の大勢に因循即応することを貴ぶ。因循即応とは、敵の険阻に応じて自己の防衛線をつくり、敵の謀略に応じて自己の計画を立てることである。
秦繆公が出遊したとき、馬車が壊れて馬が走り去ってしまった。土地の者がそれを捕まえて料理してしまった。 繆公は怒らずに「駿馬を食べて酒を飲まないと身体を悪くするぞ」と言って、その者たちに酒を与えて立ち去った。
それから1年、繆公は晋との戦いで窮地に立たされた。そのときあの土地の者300人が駆けつけて繆公の周辺で懸命に戦った。
趙簡子は二匹の白いラバを可愛がっていた。陽城胥渠が面会を求めて「私は病んでおり、ラバんも肝を薬にすれば治ると言われました」 と言った。董安于は怒ってこの者を殺すよう進言したが、趙簡子は「いったい人を殺して畜生を活かすというのは何とも不仁ではないか」 と言って、ラバを差し出した。
それからまもなく、趙は中山の狄を攻めた。そのとき陽城胥渠ら700人が先を争って城に攻め上り、敵の精兵を倒した。

【季秋紀】
商湯王は天下の君となったが、旱魃がおこって5年間収穫がなかった。湯王はみずから雨乞いを桑山の林で行い「わたしに罪があるのなら民にその責任を押しつけないで下さい。 民に罪があるのならわたしが責めを負いましょう」と祈願した。民は感動し、それが天にも伝わって雨が大いに降った。
周文王は民のために炮烙の刑を止めることを願ったのではない。実はこれによって民の心をつかみたいと思ったのである。 民心を得ることは千里四方の土地を得るよりもすばらしいことだからである。だから文王は智者と言われるのである。
国家の存在も滅亡も自身の賢明な行為も愚行も、すべて理由が根底に存在している。だから聖人はうわべの存亡や賢不肖を問題としないで、 真の理由を知ろうと努めるのである。
斉は魯を攻め、和平の条件に魯の国宝である岑鼎を要求した。魯君は偽物の鼎を柳下恵に持って行かそうとした。柳下恵は「君が偽物を出すのは岑鼎を守るためですか。 魯を守るためですか。わたしは国を破って君の国を保全しろと言われても、それは至難なことです」と言った。そこで魯君は本物の岑鼎を斉に贈った。
斉湣王は国を逐われて衛に出奔した。湣王は公玉丹に「どうしてわしは亡命してしまったのだろうか」と言った。 公玉丹は「王はまだご存じなかったのですか。その理由はあなたの賢さにあります。天下の者はみな愚かで、あなたの賢さを憎み、王を攻めたのです」と答えた。 湣王は溜息をついて「賢いことはかくも苦痛なものなのか」と言った。
これは湣王が道理をわかっていないことを示し、また公玉丹の不忠さを示すものである。
周の申喜という者は母と生き別れていた。あるとき乞食が歌うのを聞いて、それは悲しみがあふれていた。申喜は乞食にその理由を聞くと、なんとそれは実の母であった。
感情はおのずと外に表れる。どうしてことばによる説明が必要であろうか。

【孟冬紀】
この月は立冬に入る。立冬の日に先立つこと3日、太史はその旨を天子に告げて「某日が立冬です。徳は水の位にあります」と言う。天子は3日間斎戒する。 立冬の当日には、天子はみずから三公、九卿、大夫を引き連れて冬の気を北の郊外に出て迎える。王城へ帰って国事に死んだ者を賞し、 その遺族の妻子を憐れみ、ものを恵与する。
はっきりと生の意義を知ることは、聖人の要務である。はっきりと死の意義を知ることは聖人の究極目的である。
愛する者や尊敬する者を葬るのに、生きている者つまりあとに残された家族が強く望んでいる方法で行おうとするが、それでは死者の安息は得られない。
墓をつくるとき、高大さは山のよう、樹は林のよう、御殿は都のように美しい。しかい永遠の死者の立場で考えると、ぴったりしないものである。
各国の大墓で盗掘されないものはなかった。しかし世間では争って大墓をつくろうとする。何と悲しいことではないか。
季孫氏の葬儀の時、喪主が君主の美玉を死者につけて入棺しようとした。孔子はそれを見て庭を走って横切り、階段を急ぎ足で上って諌めた。 孔子の行動は非礼であったが、そこまでして季孫氏の過失を止めようとしたのである。
孫叔敖は没するとき子を戒めて、王から封地をもらうときは、必ず肥えてなく名も悪い、寝という地を欲しがるように言った。
子はよい土地を辞退して寝の地を請うたので、今に至るまでその地を保有し続けている。
宋の民が宝玉を見つけたので子罕に献上した。子罕は「お前は玉を宝としているが、わたしはそれを受け取らないことを宝としているのだ」 と言ってこれを断った。
百金と団子を子どもに見せたら、子どもは団子を取るだろう。和氏の璧と百金を田舎者に見せたら、田舎者は百金を取るだろう。 和氏の璧と道徳の至言を賢人に示せば、賢人は道徳の至言を取るだろう。
商の湯王はその三方の網を去り、ただ一面だけを残したのに、40もの国を引き入れることができた。これはただ鳥を捕えることだけにいえるのではない。
周文王が池を掘らせると死者の骨が出てきた。文王はこれを葬ってやったので天下の者は「王の恩沢は死人にまで行き届いている。どうして生きている人をないがしろにしよう」 と喜んだ。だから聖人はどんなものでも有効に用いるのである。

【仲冬紀】
楚荘王は狩で随兕を射止めたが、子培がこれを奪い取ってしまった。荘王はこれを誅殺しようとしたが左右の者が 「子培は賢く、忠義の臣です。きっと理由があるはずです」と諌めた。3ヶ月もたたないうちに子培は病気で死んだ。 子培は随兕を殺す者は3ヶ月もたたないうちに必ず死ぬということを古い記録から知っていたのである。荘王はのちにこのことを知り、子培の弟に手厚く褒賞を与えた。
宋の名医文摯は、斉王の病気を治すために斉王を激怒させたが、そのために殺されてしまった。文摯は殺されることを知っていたが太子のために難事を行って、 約束を全うしたのである。
闔閭は慶忌を殺そうとしたができなかった。要離が慶忌を殺すことを進み出た。その翌日、要離は罪を着せられ妻子は焼き殺された。 要離は脱走して、衛に亡命している慶忌のもとに行き、いつわって彼の部下となった。
慶忌が呉を討つと、要離は慶忌を殺した。しかし要離は、妻子を殺して主人(慶忌)を殺したことは不義として自殺した。
衛懿公は狄に攻められて殺され、肉を食われて肝だけになった。懿公の臣の弘演は他国に使者となっていたが、 帰国すると使命を懿公の肝に報告し、天を呼んで号泣して「どうかわたしの身体を外表として下さい」と言って自分の内臓を外に出して、懿公の肝をおさめて死んだ。
桓公はこれを聞いて「衛の滅亡は無道によるものだが、このような烈士もいるのだから、その社稷を存続させないわけにはいかない」 と言い、衛を再建した。
盗跖は泥棒にも道があると言い、倪説は6人の王者や五覇を批難し、金属製のつちを持って葬られて「あの世で彼らの頭をたたいてやるのだ」と言ったという。 このような弁論ならいっそないほうがましだ。
楚の直躬は自分の父が羊を盗んだことを告発した。役人が父を誅殺しようとすると直躬は自分が身代りになると申し出た。楚王はこれを聞くと直躬を赦して殺さなかった。
孔子はこれを評して「おかしな話だ、直躬の信というのは。父を利用して二度も評判を取っている」と言った。
斉のある村の東と西に勇者気取りの者がいた。ふたりは偶然道で出会って一緒に飲んだ。ひとりが「肉を食いたいな」と言うと、もうひとりが「お前も肉の塊だし、 俺もそうだ。肉をさがす必要もなかろう。ただ醤油があればいい」と言って、たがいに相手の肉を切り食らいあって死ぬまでそうした。このような勇気であれば、 ないほうがましである。
晋平公が大きな鐘を鋳造したとき、師曠だけが音階が正しくないと言った。 師曠は「のちに真に音楽を理解する者が現れたとき、この鐘の音階が合っていないことを見抜くでしょう。わたしはひそかにそれはわが君の恥になると思うのです」と言った。 はたしてのちに師涓が現れて、この鐘の不調が明白になった。
太公望は「賢人を尊重し実績を評価する」と言い、周公旦は「身内を大切にし、 恩愛を大事にする」と言った。太公望は「魯は弱体化するぞ」と言ったが、周公旦は「斉の呂氏はのっとられるぞ」と言った。
斉は強大化して覇者となったが、24代で田氏に政権を奪われた。魯は弱体化したが34代まで続いた。
呉起は西河を治めていたが、王錯の讒言によって召喚されることになった。呉起ははらはらと涙を流して 「君がわたしの能力を知り、それを存分に発揮させてくれたなら、西河を基盤にして天下に号令することができただろう。しかし君はわたしを理解しようとしない。 西河が秦に吸収されるのも間のないことだ」と言った。
呉起は魏を去って楚に行くと、西河はすべて秦に編入された。
魏の公叔座は病気で死ぬ前に魏恵王に 「わたしの御庶子の公孫鞅に国事をお任せください。さもなくば彼を殺して国外に出さないようにして下さい」と言ったが、 恵王はこれを信じなかった。
公叔座が死ぬと公孫鞅は秦へ赴き、重用されて秦は強大化し、一方の魏は弱体化した。

【季冬紀】
斉の北郭騒は晏嬰に母の面倒を見る分の援助を請うた。晏嬰は北郭騒が賢人であると聞いたので、これに金と食糧を与えた。 しばらくして晏嬰は斉君に疑われたため出奔し、北郭騒に別れを告げたが北郭騒は「どうぞお大事に」と言っただけであった。晏嬰は溜息をついて 「わたしの亡命も当然だ。人を見る目がないのだから」と言って去った。
一方、北郭騒は友人を呼んでともに斉君のところに行き、晏嬰の潔白を訴えて自殺した。その友人も北郭騒の首を役人に渡して自殺した。斉君は驚いて晏嬰を呼び戻した。
晏嬰は北郭騒が生命を賭して自分の潔白を明らかにしてくれたことを知り、溜息をついて「わたしの亡命も当然だ。人を見る目がないのだから」と言った。
晋文公は難しい時に人を得ることができ、容易なときにそれができなかった。これが文公が覇者にはなれて、王者になれなかった理由である。 介子推は利益を手にすることができながら、それを棄てた。世俗と遠くかけ離れた人物である。
爰旌且という者が旅の途中で飢えて倒れた。狐父の盗賊の丘という者がこれに飯を食べさせた。爰旌且は目が見え、話ができるようになって、 それが盗賊であると知ると「ああ、どうしてわたしに食べさせたのか。わたしは正義を重んじるから、盗賊のものを食べるわけにはいかない」と言い、 むりやり吐き出して倒れて息絶えた。
伯夷と叔斉は周文王をしたって周に行ったが、 文王は没して武王が位についていた。彼らは武王の政治を見て自分たちが思う道ではないとして首陽山で餓死した。
予譲の友人が予譲の復讐が誤っていると言った。予譲は「范氏・中行氏はわたしを並みの人間として待遇しました。 だからわたしも並みの人間としてお仕えした。智氏はわたしを一国の賢士として待遇してくれました。だからわたしも一国の賢士としてお仕えするのです」と言った。
始皇6年(B.C.241)、7月1日、秦王はわたくし(呂不韋)に十二紀の意義を問われた。わたくしは「十二紀とは、治乱興亡の由来を記述し、寿夭吉凶の法則を解明するものです」 とお答えした。