平田篤胤より学ぶ!彼の人並みはずれた学問的情熱と間口の膨大さ、先進性を知っているか!

平田篤胤は、荷田春満、賀茂真淵、本居宣長に連なる国学の四大人に数えられ、浅見絅斎の流れを汲む中山青我に漢籍を学び、国学を修めて古道研究の端を開いた江戸後期の国学者にして復古神道(古道学)の大成者ですが、そのその幅広い仕事は神道・国学に始まり、古伝、神代文字、文学、民俗学、仏教、儒教、道教、キリスト教、神仙道、暦学、地理学、医学、蘭学、物理学、兵学、易学など、千巻に近い膨大な書物を残しています。
篤胤の夢は、歪んだ江戸末期の世を改めることだっといわれていますが、そのアプローチは日本の言葉、神についての考え方、暦、度量衡、そして科学を正す、いわば人々の考え方を変えるように教化する手法を採っていました。
篤胤は、本居宣長没後の門人を称し、儒教を批判して尊王思想を唱えて幕末の尊攘運動に影響を与えていることもあり、どうも国粋主義者という一面のみがクローズアップされてきていますが、人並みはずれた学問的情熱をもった一人の思索者にして、民俗学者としての草分け的存在だったのです。
そうはいっても篤胤が行き着いた先には、古今東西の広範な知識を咀嚼し、日本人のアルカディアを提示しえた奇跡的な業績であったが故に、幕末から明治、昭和の敗戦にいたる日本の激動期において民衆と国家権力双方に多大な影響を与えたことは事実でもあるのです。

そんな篤胤が宣長学の立場から太宰春台の『弁道書』を批判した『呵妄書』を著したのが著述のはじめで、『新鬼神論』を著して神、鬼神の普遍的存在を証明し、やがて『古道大意』『俗神道大意』『西籍慨論』『出定笑語』として、のちに刊行されるものの基となる講説を次々に行っています。
また、インド、中国さらには西洋の神話・伝説をも用いて世界の成り立ちを解明しようとして、『印度蔵志』『赤県太古伝』などを著し、また幽界に往来したと称する少年や別人に生まれ変わったという者の言をも信じ、そこから直接幽界の事情を研究して『仙境異聞』『勝五郎再生記聞』などを著しました。
また『霊能真柱』においては、天・地・泉からなる世界の始まりを説明して、人は死後、宣長のいうように夜見に行くのではなく、大国主神の支配する幽冥に行くことを証明するために古伝説によって宇宙の生成と死後の安心を説きました。
更に、その際『古事記』の本文を改竄し『霊能真柱』の主張を推し進めて、「此世は吾人の善悪きを試み定め賜はむ為に、しばらく生しめ給へる寓世にて、幽世ぞ吾人の本世」であるとの考えを核心とし、天主教書の影響を受けた『古史伝』(未完)を著述します。
篤胤の思想はむしろ在来の神道思想の系譜を引くもので、垂加神道に対抗するものでもあったが、その実践的な学問は多くの人の支持を受けました。
このような篤胤の学問は、養嗣子の銕胤をはじめ大国隆正、矢野玄道らに受け継がれ、明治初期には新設の神祇官の主流となっていきますが、死後の安心を中心とする純粋に宗教的な部分は次第に消えていき、天皇中心の国粋主義的部分が著しく政治化されて国家神道を支える柱となっていきました。

松陰は、当初君子の秩序として天皇が大事だと説く水戸学(水戸徳川家が儒教的秩序論に基づき編纂した『大日本史』を中心とする尊皇論)の影響を受け、その後は神道の根源として天皇が尊いと説く国学へと関心が移っていきました。
幕末の尊皇攘夷思想は、思想的な系譜としては儒教的秩序論、儒教的歴史観に基づいていますが、こうした平田国学の国粋主義的部分は尊皇攘夷とも結びつきやすく、そのため吉田松陰を始めとする幕末の勤王の志士たちは、皆平田国学の影響を受けていたといえるでしょう。
また、奈良時代以来神仏習合されてきた日本において、神道が外国の宗教に穢されていると主張し、神道を仏教伝来以前の姿に戻すべきだと主張した篤胤の「復古神道」平田国学は、特に神社の神官に強く支持され、明治維新後に政府に登用された神官達が、平田の復古神道に基づいて「神仏分離令」を出し、廃仏毀釈運動という日本史上最悪の文化破壊を行ったといわれています。

本居宣長は、ひたすら「もののあわれ」の中に自己と世界のとの関りを見ようとし、古史を明快に解釈することはあっても、自分なりに古史を創り出した訳ではなく、『古事記伝』は古史注釈史の中の金字塔というに相応しいものの、それは新しき神代史の創造ではありません。
それに対し、篤胤が生涯で執筆した著作は驚くべき多岐に亘り、平田国学は日本の文化から最も先鋭的な材質を抜き取って構築した宇宙秩序を統べる壮大な伽藍を作り上げていったのです。
そうした先進性と間口の広さから来る危険性をかぎ取っていた徳川幕府や尾張藩は、宣長を上回る門弟553人を抱えていた篤胤の三人扶持を召し上げ、著述を禁止し江戸を追放したそうです。

生涯貧困の極にありながら、神々の織り成す世界を古史をたよりに精密に大胆に仮構し続けた篤胤は、その生涯を太古からもつれにもつれた神々と天皇の系列を実に理性的に編み、近くは山河草木から虫や花にいたるまで、遠くははるか数億年の星辰の世界に至る途方もない大系図を作成することに費やしたのです。
良し悪し含めて後世に渡って数多の影響を与え続けただけに、その評価は現代ではほとんど為されていませんが、篤胤が非常な読書家であり、大学者であり、しかも出来るだけ新しい知識を採り入れようと集慮しそれを成果として残し続けていたことは確かなことです。

辞世の句は「思ふこと一つも神につとめ終えず今日やまかるかあたらこの世を」。

改めて、この現代に平田篤胤に類する人物を求めるのは、時代の必然なのかもしれません。

平田篤胤の人となりを知るのに、以下も参考にしてみてください。
『霊能真柱』
『仙境異聞』
『七生の舞』
『古道大意』

第一回:『第一章「苦労人国学者・平田篤胤」(一)&(二)』
第二回:『第一章「苦労人国学者・平田篤胤」(三)&(四)』
第三回:『第一章「苦労人国学者・平田篤胤」(五)&(六)』
第四回:『第一章「苦労人国学者・平田篤胤」(七)&(八)』
第五回:『第一章「苦労人国学者・平田篤胤」(九)&(十)』

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