古代中国の春秋時代の思想家である老子(B.C.5世紀頃)の唱えた『道(タオ)』の思想は、戦国時代の荘子の無為の思想と並んで老荘思想と言われます。
老荘思想が最上の物とするのは「道」です。
「道」はこの世界のありとあらゆるものを生み出す根本原理であり、また天よりも上位にある物として使われています。
道教では、世俗的な欲望や物質的な価値を否定的に見て、人為的な計らいについてはただ何もせずに自然のままに生きる『無為自然』を重視します。
老子や荘子は、世俗的な問題(地位・財産・権力・名誉・性欲)と関わらず『無為自然』を実践することが、人間の理想的な生き方(倫理)につながると考えました。
この世俗的な欲望(=煩悩)を否定して無為自然を勧める老荘思想は、釈迦の仏教でいう「諸行無常・涅槃寂静」にも共通する部分があり、古代中国では「老荘の無為」と「仏教の涅槃」は同一のものと解釈される傾向にありました。
『老子』『荘子』『周易』は三玄と呼ばれ、これをもとにした学問は玄学と呼ばれています。
『荘子』については、こちらを参照ください。
・荘子より学ぶ!何ものにも束縛されない絶対的な自由を求めて!
また『周易』は易経に記された爻辞、卦辞、卦画に基づいた占術ですので、以下を参考にしてみてください。
・当たるも八卦、当たらぬも八卦 易経って何?
・易経 実際に占う方法です
・易経 実際に易を占ってみましょう。
・易経 本来の在り方を知ることが大事です。
今回はそのうちの『老子』について、整理してみたいと思います。
老子は周王室の書庫の記録官だったとされますが実際には定かではありません。
東周の衰退を見て立ち去り、関所の役人の尹喜の依頼を受けて『老子(上下巻5000余字)』を書き残したと言われています。
『老子』は、上下巻の最初の一字である『道』と『徳』から『老子道徳経』と呼ばれることもあります。
『老子』は、人間の心のありようだけでなく、天地自然のなりたちや万物の根源についてなど、いわば自然科学的な視点から言及している点に特徴があり、知識や欲望はできるだけ捨て去り、人と争わず、ありのままに生きよ、という生き方が提唱されています。
『老子』に見られるポイントは、時代の流れに取り残され、とまどっている人々に向けて、生きていくための処世術を教えたり、あるいは支配階層に向けて、不安定な時代に国をいかに治めていくかを提示する統治論として書かれている点にあります。
『老子』には「頑張らなくていい」「ありのままのあなたでいい」といったメッセージが数多く含まれていますが、これは単なる「癒やしの書」としてだけでなく、乱世をいかに生き抜くかの「権謀術数の書」としての内容になっています。
『老子』の思想は、常識に凝り固まった人々の考え方を打破し、煩雑な日常のしがらみから人々の心を解放する役割も持っていますので、これまでとは違った視点からの「もうひとつの価値観、生き方」の書として触れてみてはどうでしょうか。
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以下参考までに、現代語訳にて一部抜粋です。
こちらも参考にしてみてください。
老子のすべて(道・徳)全81章
【道経(上篇)】
【體道1】
道というのは、これまで言われてきた道ではない。名も従来の名ではない。天地の始まりには何も無かった。だから無名である。天地に万物が生まれ、それぞれに名が付けられた。有名である。したがって有名は万物の母である。
故に無は常にその奥深き妙を見せ、有は常に無との境を見せる。此の両者は同じ所から出て名を異にしているだけだ。どちらも玄妙で、玄のまた玄は見通せないほど深遠なものである。
【養身2】
天下の人たちは皆、美が何であるか知っているが、それだけではいけない。美の裏には醜があるのだ。皆は善がどういうものか知っているが、それだけではいけない。裏には不善があるのだ。このように有無はともにあり、長短、高下、音声、前後といった具合に、すべてに相対的なものがある。だから道の教えを体得した聖人は、事を為すに当たって何もせず、何も言わない。道は万物を生むが、それを誇りに言わず、それが育ってもそれを自分のものとしない。それを頼りにすることもなく、成功すれば、いつまでもその場にいない。
【安民3】
賢を尊ばなければ、民の競争はなくなる。財貨を重んじなければ,盗みはなくなる。欲望をかきたてる物をみせなければ、民は心を乱さなくなる。これによって道を体得した聖人の治世は,民の心を単純にし、食料を十分に与え、反逆の意思を弱くし、体を頑強にしてやる。常に民を無知無欲にし、智者には口出しさせない。無為の政策をとれば治まらない事はないのだ。
【無源4】
道は無であり、見ることは出来ないが、その働きは無限である。淵のように深く、まさに万物の宗主である。鋭い切っ先を表すことなく、世の複雑なもつれを解き、光を和らげて塵の中に混じりこんでいる。湛々とした水のような静かな姿だ。道がどこから生まれたのか知らないが,天帝より前からあったようだ。
【虚用5】
天地には仁慈というものはない。万物を祭壇に供える飾り犬と同じに見ている。祭礼が済めば捨てられるのを黙って見みているだけだ。聖人にも仁慈はない。民が飾り犬のように死ぬのを見ているだけだ。天地の間は鍛冶屋のふいごのようなものだ。中は空なのに動くと際限なく風を噴き出す。
【成象6】
神は不滅で、玄牝(女性)と呼ばれる。玄牝の門は天地の根源と呼ばれ,永遠に存在し続け、これをどれだけ使っても疲れをしらず、尽きる事がない。
【韜光7】
天地は長久であるが,長久であるゆえんは、自己のために生きようとしないからで,それで長生きするのだ。 それゆえ聖人も自分のことを度外視して、かえって身の安全を保つのだ。これはまさに無私無欲のためでなかろうか。そして結局は自分の目的を果たすことになるのだ。
【易性8】
最高の善は水のようなものだ。水はよく万物を助けて争わず、みなが嫌がるような低地にとどまる。この点は「道」に近いといえる。住居は低地に設け、心は淵のように深く、人との交流は水のように親しく、言葉は誠実で、政治は筋道を大切に、ものごとの処理は流水のように滑らかに、行動は時にかなう。そして争わず,これだからこそ災難は起きないのだ。
【運夷9】
手にもつ器に水を満たし,零すまいと心配するくらいなら,はじめから満杯にすることはないのだ。刃物は刃を鋭くすれば、刃こぼれがして長持ちしない。金や玉が部屋一杯になれば,どうしてそれを守るのだ。富貴で高慢になれば、自ら災難を招く。成功すれば,速やかに身を引く。これこそが天の定めた道なのだ。
【能爲10】
心と身体が一体となり、道から離れないようにしたいものだ。気を一杯にして無心な幼児のようになりたいものだ。雑念を払い、過ちなしに済ませるようになりたいものだ。民を愛し、国をおさめるに無為の精神でやりたいものだ。 自然が変化する中で、女のような柔軟さを保ちたいものだ。 四方のすべてを知りながら、何も知らないとするようになりたいものだ。 道は万物を生み、これを繁殖させ、成長してもそれを自分のものとせず、万物を動かしながら、それを頼りにせず、頭になって万物を支配することもしない。これこそ玄徳という。
【無用11】
車の輪、三十本のスポークが車軸から出て輪を作る。このスポークの間に空間があってこそ、車輪としての働きが出来る。泥土をこねて器を作り、器の中に空間があってこそ器としての働きをする。戸口や窓をうがって部屋を作り、その中の空間こそが部屋としての働きをなす。
【檢欲12】
色とりどりの美しい色彩は人の目を盲にする。耳に快い音楽は人の耳を聾にする。豪勢な食事は人の味覚を損なう。馬で狩をすることは、その楽しみが人を熱狂させ、珍しい物は人を盗みに走らせる。 そこで聖人は民の腹を満たすことだけを求め、民の目をくらますようなことをしない。
【猒恥13】
人が 寵愛と恥辱に心を騒がせるのは驚くほどだ。また病気、災難が身に降りかかるのを死ぬほどに恐れる。 寵愛と恥辱への関心が驚くほどというのは何ゆえか。寵愛は上で、恥辱は下という意識があり、寵愛を与えられると人は歓喜して喜ぶが、失うと驚愕して恐れののく。後に恥辱が待っているからだ。 身に及ぶ災難を死ぬほどに恐れるのは、どういうことか。私に大病など災難があるのは私に身体があるからだ。もし私に身体がなければ、いかなる災難が降りかかろうと構わない。 故に自分の身を天下より大切にする人には天下を与えるべし。天下より自分の身を愛する人には天下を託してよい。
【賛玄14】
見ようとしても見えない。これを『夷』」と呼ぶ。 聞こうとしても聞こえない、これを『希』と呼ぶ。 触ろうとしても触れない、これを『微』」と呼ぶ。 この三つのものは追求の仕様がない。なぜならそれは全く同じものだからだ。 茫漠としているが、上の方は明るくなく、下の方も暗くはない。ただぼんやりとして形容の仕様がなく、形のない状態に戻っている。この姿なき形を『恍惚』という。迎えてもその前が見えず、従ってもその後ろが見えない。 これが昔から続く『道』の姿で、今の『有』を支配し、これによって万物の始まりを知ることが出来る。これを『道の法則』という。
【顯徳15】
古のよき『士』たる人は神妙にして、すべてのものに奥深く通じ、理解しがたいほど慎重だ。それゆえ、ここはどうしてもその姿を描かねばならない。 彼はことをするに先立って、冬に川を渡るように慎重だ。 周囲を囲む隣国の包囲攻撃を防ぐように、防衛に熟慮を重ねる。 身を引き締め、常に客人のように厳粛で、春に氷が溶けるようにこだわりがない。まだ刻まれていない材木のように純朴で、奥深い山の谷のごとく広大だ。 水は濁って不透明だが、この水を徐々に平静に戻すことが誰に出来るのか。 これを久しく安定に保つためには、水を絶えず動かし、徐々に流さなければならないが、誰がそれを行えるのか。 それが出来るのは『道』をわきまえた人だけである。 『道』をわきまえた人は完全を求めない。それを求めないからこそ古きを守りつつ、新しい成功を得るのだ。
【歸根16】
出来るだけ心を虚にして、静寂を守る。万物は成長しているが、私はその循環を見守っている。万物は成長の過程でさまざまに姿を変えるが、最後にはそれぞれの元の出発点に戻って行く。 出発点に戻るのを『静』といい、また『平常』とも言う。『平常』を認識することを『明晰』と呼ぶ。 『平常』を意識せず、妄動すれば結果は凶と出る。『平常』を意識してこそ、すべてを包容できるのだ。すべてが包容されてこそ公平無私で、公平無私であれば、人は王となり人々は服従する。王は天理にかなう。天理にかなえば、それは『道』にかなったことを意味し、『道』にかなえば永遠で、終生危険に陥らない。
【猒淳17】
もっとも善い支配者は、民はその存在を知るだけである。 次に善い支配者は、民は彼に親しみ、これを賞賛する。 更に次の支配者は、民はこれを恐れる。 最低の支配者は民は彼を軽蔑する。信任するに値しないからだ。 もっともよい支配者は、ゆったりと、ほとんど命令せず、事がうまく行くと、民たちは『これは誰のおかげでもなく、自然にこうなったのだ』という。
【俗薄18】
大いなる『道』が廃れて『仁義』が生まれた。聡明な知恵者が出てはなはだしい虚偽が生まれた。 肉親が和せず、家庭が乱れてはじめて『孝慈』なるものが生まれた。 国家が混乱して、初めて『忠臣』なるものが生まれた。
【還淳19】
学者たちが言う小賢しい『聖智』を捨てれば、民の利益は百倍になる。『仁義』を捨てれば、民は『孝慈』を取り戻し、『巧利』を捨てれば盗賊は姿を消す。 この三条では筆足らずだ。そこで人が従うように補筆しよう。それは『表面は単純、中も素朴で,私心をなくして欲望を抑えることが大切だ』ということである。
【異俗20】
学問を捨てれば、憂いはなくなる。返答の『はい』と『おう』ではどれほどの違いがあると言うのだ。『善』と『悪』ではどれほどの違いがあるというのだ。 人の恐れることを恐れないわけには行かないが、この荒れた状況はいまだに終わっていないのだ。 多くの人は憂いもなく、盛大な宴席でご馳走を食べている、また高楼に登って眺めを楽しんでいるのに、私だけはひっそりと何の兆しもなく、まだ笑うことの出来ない幼児のような惨めな顔で,帰る家もないかのようだ。 他の人は有り余るものを持っているのに、私だけは乏しい。 私は全くの愚か者のようだ。のろまで,他の人は明晰なのに、私は悶々としているだけだ。他の人は広々とした海にように、吹きぬける風のような才能を持っているというのに、私はかたくなで,幼くつたない。 だが,私一人がそうである訳は、私は他の人と違って,母である『道』に抱かれているからだ。
【虚心21】
大いなる『徳』の中身は『道』に一致している。『道』というものは目に見えず、漠然としている。だがその漠然とした中に実体がある。暗く深い、その中に微かな精気がある。この精気は具体性があり、真実がある。 古より今に至るまで,その名は消えず、それにより万物の始めを知ることが出来るのだ。 私がどうして万物の始まりの有様を知るのか、その根拠はここにある。
【益謙22】
木は曲がっていると、材木にならないため伐採されずに完全さが保たれる。 身をかがめていると、かえって真っ直ぐと身を起こすことが出来る。 土地が人の嫌がる低い窪地であれば、かえって水が満ち、物は古ぼけていると,作り直され新しくなることが出来るのだ。 物が少ないと逆に得ることが出来、多いとかえって迷ってしまう。 これをもって,聖人は『道』を天下を占う道具の『式』とする。自分の目で見ないため、逆にはっきりと分かり、自分を正しいとしないために,物の是非がはっきりとする。 自ら誇らない、だから成功する。うぬぼれない、だからこそ導くことが出来る。人と争わない、だからこそ天下に争うものがいないのだ。 『木は曲がっていると、かえって完全さが保たれる』という古言はまさに虚言でない。真にこうして証明できるのだ。
【虚無23】
言を少なくすることは自然なことである。疾風も朝の間にはやみ、にわか雨は一日中、降り続けることはない。誰がそうさせているのか、天と地である。天地の力をもってしても続けられないものをどうして人間に出来ようか。 道を得た人は、他の『道を持つ人』と同じくし、『徳』ある人があれば同じく『徳』を求め、どちらも持たない人があれば、それと同じくする。 『道』を同じくすれば、彼の人も『道の人』を得たいと願う。 『徳』を同じくすれば、彼の人も『徳の人』を求める。 何も持たない人は、同じような仲間を求めようとする。 人と協調して生きるには、自分を空しくしなければならぬ。信頼されなければ、信任されないということはこういうことだ。
【苦恩24】
背伸びしてつま立ちすれば,しっかりと立つことが出来ない。 早く行こうと大股で歩けば、かえって早く行けない。 自分の目だけで見ようとすれば、かえってはっきりと見えない。 自分を正しいと固執すれば、かえって是非が分からない。 自ら誇るものは成功しない。 自惚れるものは導くことができない。 これらのことは「道」の原則を知る人には役立たずの余計なものだ。 余計者は嫌われるが、「道」を得た人は原則を知るから、こうしたことになら ない。
【象元25】
天地に先立つ前から,混然となったものがあった。 音もなく形もないが,どこまでも独立した,誰にも頼らない存在で,とどまることなくぐるぐる巡る。それは天地万物の母とみなして良い。 私はその名前を知らないが、それを『道』と呼び、しいて名をつけて『大』と呼んだ。『大』は成長すれば去っていき、宇宙のはるか遠くに行って再び元に戻ってくる。 『道は大、天は大、地は大、人も大』という。宇宙に四つの『大』があり、人もそのひとつを占める。 『人』は地の法にのり、『地』は天の法にのり、『天』は道の法にのる。『道』はそれ自身、すなわち『自然』の法にのる。
【重徳26】
重いものは軽いものの基礎であり,静かなものが騒がしいものを抑える。 聖人は終日行軍しても、部隊の中央にある糧秣を運ぶ輸送部隊を離れることがない。道中に華やかなものが有っても,目を奪われることがなく,悠然としている。 万を越える兵の部隊を動かす君主であるのに、どうして身を天下より軽んじるのか。(身を軽んじてはいけない)身を軽くすれば本元を失い,騒げば落ち着きを失うのだ。
【巧用27】
行進の進め方がうまいと車のわだちを残さない。 言い方がうまい人は,失言もなく欠点を見せない。 計算がうまい人は、計算棒を使わずに計算できる。 門を閉めることのうまい人は、かんぬきを使わず開けることが出来ないように出来る。 結び方のうまい人は,縄を使っていないのに、ほどけなくする。 聖人は何時もうまく人を使うため、初めから無用の人はいない。 聖人は何時もうまくものを使うため、初めから無用なものはない。 これを内なる聡明さという。 善人は悪人の師であり、悪人もまた善人の反省の手本になる。 自分の師を尊ばず、手本を大切にしなければ、自分は智者と思っていても,本当は愚かなのだ。 こういうことを「奥深き原理」という。
【反朴28】
何が雄々しきか知っていても、柔和な牝の姿勢を守れば、天下の谷(古代の尊敬の対象)として人々の尊敬を得る。 天下の谷となれば、常に「徳」と離れることなく、乳児のような単純さに帰る。 白い輝きを持つことを知っていても、暗い位置に安んじて居れば,天下の『式』(古代の占いの道具)となる。天下の『式』となれば、『常徳』と違うことなく究極の真理に至る。 何が栄誉であるかをわきまえ、甘んじて屈辱の位置に身を置けば、周囲の信望を集める『谷』となる。周囲の信望を集めれば、『常徳』が身について,素朴な材木の状態に帰る。 材木は小さく削られると器になるが、聖人がこの材木を用いると人を統率する官長となる。とかく木を切ったり、削ったりの無理をしないのだ。
【無爲29】
誰かが天下を手に入れ、治めようと画策しても、私はそれが実現するのを見たことがない。天下は治めることが難しいものだ。何とか治めようとしても逆に壊してしまい、何とか掌握しようとしても逆に失ってしまう。 物事は有るものは先に進み、あるものは後ろに付き添い、あるものはそっと吹き、あるものは強く吹く。あるものは少し傷つき,あるものはすっかり壊れるなど,すべてのものは相対的で,片方だけに荷担することは出来ない。だから聖人は極端なもの、贅沢なもの、度を過ぎたものだけを取り入れず捨て去り、後は何もせず自然に任せるのだ。
【儉武30】
『道』を用いて君主を援けようとする人は,武力によって天下に覇を唱えようとしない。武力を用いれば必ず報復を招くからだ。 軍隊が駐留した場所は,撤収した後の田畑に茨が茂り,大きな戦いの後には必ず凶作がやってくる。 勝利すればそれだけで良く、その後は武力による強さを見せ付けないことだ。勝利しても,うぬぼれず、誇ることなく、高慢になってはいけない。武力で勝利すれば,やむを得ずこうなったと考えるべきで、強がってはいけないのだ。 ものごとは盛んになれば、必ず衰退に向かう。これは『道』にかなっていないからだ。『道』にかなっていなければ、必ず速やかに滅亡する。
【偃武31】
『軍隊』、この不吉なものは誰もがその存在を憎む。だから『道』を備えた人は,それに近ずかない。 君子は普段のときは『左側』を尊び、武力を用いるときは『右側』を尊ぶ。 『軍隊』という不吉なものは君子が用いるものでなく、やむを得ずそれを用いても,利欲にかられず、あっさりと使うのが一番だ。 たとえ勝利しても、それを良としない。もし良とするならば、それは殺人を楽しんでいることになる。殺人を楽しみにする人は,天下に志を遂げることは出来ない。 吉事には『左側』を尊び、凶事には『右側』を尊ぶが、軍隊では副将が左に座席し、大将は『右側』に座席する。 つまり戦争は常に葬儀の作法によって行われるのだ。戦争では大勢の人が死ぬため、その哀悼の意味で、軍では戦いに勝利しても常に葬儀の作法がとられるのだ。
【聖徳32】
『道』は永遠に『無名』である。手が加えられていない素材のようなものだ。 名もない素材は小さいけれど、誰もそれを支配することは出来ない。 王侯がそれを持ち、守ることができるなら、万物はひとりでに王侯に従うことになるだろう。 天と地は相合し甘露を降らせるが、誰かが甘露に命じて広くまんべんに降らせているのでなく、ひとりでにまんべんに降っているのだ。 管理が始まると名前が出来る。名前が出来ると適当なところでとどめる事を知らねばならぬ。『限度』である。限度を知るならば、危険を免れることが出来るのだ。 『道』は天下に有るすべてのものが行き着く所だ。すべての谷川が大河、海に流れ込むのと同じである。
【辯徳33】
他人を理解できるものを『智』といい、自己を知るものを『明』 という。聡明である。 他人に勝つ者を『力』が有るといい、自己を克服できるものを『強』という。真の強者である。満足を知る者は富み、努力する者を『志』が有るという。よりどころを失わない者が永続し、死んでも『道』の精神を保っている人は滅びず、これを真の長寿者という。
【任成34】
『道』は水が氾濫するように、左右に広がり流れる。万物はこれを頼りに生まれて出てくるが、『道』はこれを拒まず、その功を名乗ろうともしない。 『道』は万物を慈しみ育てながら、それを支配しようともしない。 常に無欲なので、とりあえず『小』と名付くが、万物はすべて『道』に帰服して、しかも『道』は主とならないのだから、これは『大』と名付くべきなのだ。 これゆえ聖人は常に謙虚で『大』として振る舞わない。ゆえに人々は聖人に帰服し、『偉大なる存在』として尊敬するのだ。
【仁徳35】
『道』を守って天下を行けば、どこへ行こうと害はなく、平穏無事である。 宴席の音楽と豪華な料理は旅人の足を止めさせるが、『道』の話はそれを説いても味わいがなく、見えず、聞いても聞こえない。だが用いれば、効用は無限で使い切れないのだ。
【微明36】
ものを縮めたければ、逆にしばらく伸ばしてやる。 弱めたければ、しばらくこれを援けて強くしてやる。 廃止しようと思えば、しばらくこれを放置しておく。 こういうやり方は奥深き叡智という。こうして柔軟なものが剛強なものに勝つのである。 魚は深い淵から出て行けないのと同じく、こうした国の戦略は他国に見せてはいけない。
【爲政37】
『道』はその基本原則の『無為』により何もなさないように見えるが、実はあらゆるものを成し遂げているのである。 王侯がもし『道』による『無為自然』の原則を守っていれば、万物は自から伸び伸びと成長する。 だが成長の途中で、王侯が欲を出し作為的なことをしようとすれば、私は『材木のような素朴な心に帰れ』と諌めるだろう。 王侯が材木のように素朴で、無欲な状態になれば、すべての者が無欲無心になり、そうすれば天下は安定する。
【徳経(下篇)】
【論徳38】
最も高い有徳者は『徳』を行っても、それを『徳』として意識しないため、ここに本当の『徳』がある。低い有徳者は『徳』を意識して、それを見せびらかそうとするので『徳』はない。 高い有徳者は作為的でなく、それを施したという意識がない。低い有徳者は作為的で、しかも『徳』を施したと意識している。 本当に『仁』のある人は、それを行動しても『仁』を為したとは意識しない。 『義』を守る人は、それを行動で表わすが、常に『義にもとずいた行動をとった』と意識している。 『礼』を守る人は、それをはっきりと行動に表わし、相手がその『礼』に応じないと、ひざをつついて返礼を要求する。 これゆえ『道』が失われて『徳』が現れ、『徳』が失われて『仁』が現れ、『仁』が失われて『義』が現れる。こうして『義』が失われた最後に『礼』が現れるのだ。 そもそも『礼』というものは忠信が薄れた結果生まれるものなので、争乱の元になるものだ。 また人より前に知るという前識者の『智』は、偉大なる『道』を飾る造花のようなもので愚の始まりだ。 これをもって男丈夫は、このような『仁』『義』『礼』『智』という薄っぺらなモラルに執着せず、華を捨て実を取るのである。
【法本39】
最初に『道』から生まれた一つの生気のようなものが有った。 『天』はこれを得て清く、『地』はこれを得て安定し、『神』はこれを得て霊妙 になり、『谷』はこれを得て充実し、『万物』はこれを得て生き、『王侯』はこれを得て天下の頭になった。 天が清くなければ、恐らく避けてしまう。 地が安定してなければ、やがて崩れてしまう。 神が霊妙でなければ、恐らく力を失う。 谷が水で満たされなければ、すべてが枯渇してしまう。 万物が生育できなければ、あらゆるものが死滅する。 王侯が最高の地位を保てなければ、国は滅びてしまう。 身分の高い人、地位の高い人、つまり貴族や高官にとって身分の低い、卑しい庶民は彼らの根本であり、高さは低きをもって基礎とする。 これゆえ、王侯は古代から自分の事を『孤』(孤児)、『寡』(独り者)、『不穀』 (不幸)と自虐的に賞したが、これは貴さは卑しさをもって根本となすという考えからではなかろうか。 ゆえに多くの栄誉を求めると、かえって栄誉はなくなる。高貴な美玉になろうとは望まない。つまらない普通の石でよいのだ。
【去用40】
元に戻そうとするのが道の運動法則なのだ.。 柔弱なのは道の作用である。 天下の万物は有より生じ、有は無より生じる。
【同異41】
上士は道を聞けば、勤めてこれを行う。 中士は道を聞けば、半信半疑と成る。 下士が道を聞けば、話は大きいが中身がないと笑う。 だが、彼らに笑われなければ、本当の道でないのだ。 古の人はこう言っている。 『明るい道は暗く見え、前に進んでいる道は後ろに退いているように見える。平らの道は凸凹と険しく見える。 高い徳は俗っぽく見え、輝いている白は汚れて見え、広大な徳は何か欠けているように見え、健全な徳は悪賢く見え、純真な性格は移りやすく見えるものだ。 大きな四角は角がなく、大きく貴重な器物はなかなか完成しない。 とてつもなく大きい音は耳に聞こえず、限りなく大きいものは、その姿が見えない』と。 道は無名であるが、この道だけが万物を援け、よく育成しているのだ。
【道化42】
『道』は統一した『一』を生み出し、これが分裂して『二』が生まれる。対立する『二』は新しい『三』を生み出し、この第三者が万物を生み出す。 万物には『陰』と『陽』の対立する二つの局面があり、『陰』と『陽』はその中に生まれた『気』によって調和されている。 人が嫌う言葉は『孤』(孤児)、『寡』(独り者)、『不穀』(不幸)だが、王侯たちはそれを自称として使っている。 物事は常に、損は益に、あるいは益は損にと絶えず変化しているが、これが変化の法則である。私も人々が教えあっていることを教えよう。 『強固なものはろくな死に方をしない』と。これを教えの始まりとする。
【偏用43】
世の中で最も柔らかいもの(水)が、最も堅いものを制圧している。形の無い物は(岩盤のような)隙間のないもの所にも入っていけるからだ。 私はこれをもって『無為』の益を知る。『不言』の教え、『無為』の益は、天下でこれに及ぶものはない。
【立戒44】
名声と生命とでは、どちらが身近か。 生命と財産では、どちらが重要か。 得ることと、失うことではどちらが有害か。 こうしてみると、自分の体の健康を守ることが最も大切あることが分かる。 名誉や財産への愛着も度が過ぎ、惜しめば逆に多くを費やすことになる。蓄えすぎると帰って大きな損失を受ける。 満足することを知れば、辱めに合わずに済み、適当にとどめる事を知れば、危険に会わずに何時までも安全でいられる。
【洪徳45】
真に完成したものは、何か欠けているように見えるが、その働きは損なわれていない。 真に充実しているものは、中が虚ろのように見えるが、その働きはきわまる事がない。 最も真っ直ぐなものはゆがんで見え、最も器用なものは不器用に見える。最も優れた弁舌は、口下手に見える。 激しい運動をすれば冬の寒さに勝て、安静にしておれば夏の暑さに勝てる。無為で静かであれば、天下の模範になる。
【儉欲46】
天下に『道』が行われれば平和に成り、軍馬は耕作に使われる。 天下に『道』が行われず、戦乱が続けば、身ごもった母馬も狩り出され、国境の戦場で子を産むことになる。 罪は満足を知らない為政者の欲望より大きいものはなく、災は飽く事のない欲望より大きいものはない。 ゆえに、足るを知る事によって永遠に満足するのだ。
【鑒遠47】
聖人は門を出ないで、天下の事を知ることができる。窓の外を見ないで天の動きを知ることができる。 普通には遠くに行けば行くほど、知る事はいいかげんになるものだが、聖人は行かずして知り、見ずして分かり、行わないで成功するのだ。
【忘知48】
学問をすれば、日一日と知識は増える。だが『道』を修めれば、日一日と知識は減っていく。減らしに減らすと『無為』に至る。 『無為』をもって為せないものはない。天下を取るには常に無事が大切で、それを作為的に行えば、とても天下は取れない。
【任徳49】
聖人には固執した考えはない。民の意思をもって自分の意思とする。民が善と認めたものを善とするが、不善なるものも善とする。その人の心がけによって何時でも善が得られるからだ。 民が信じる人を信じるが、信じられないものも信じる。その人は心がけによって今後信を得る事ができるからだ。聖人は天下にあって、注目して見守る民の心を混沌とさせ、無知無欲の乳児のようにしてしまうのだ。
【貴生50】
人は生まれたら必ず死に向かう。長生する人は十分の三あり、早死にする人も十分の三ある。そのままなら生きていたのに、下手に動いて死ぬ人も十分の三ある。これはなぜか、生への執着があまりにも強いからだ。 かつて聞いた。『善く生を全うする人は陸地を歩いても犀や虎に会わず、戦場でも殺される事はない』と。 その人には犀も角を使えず、虎も爪を使えず、敵兵は武器を使えない。これはなぜか、彼が生に執着しないため、死の境地に入る事がないからだ。
【養徳51】
道が万物を生み出し,徳が万物を養育し、万物に形を与える。こうして万物が完成する。それゆえ万物は道を尊び、徳を重視するのだ。 道が尊敬され、徳が重視されるわけは,誰が命令したというより、昔から自然にそうなっているからだ。 こうして道が万物を生み出し、徳が万物を育て、万物を成長させ、万物に実を結ばせて成熟させ、保護するのである。 万物を生み育てながら自分の物とせず、万物を育てながら自分の力のせいだとせず、万物の頭になって彼らを支配したりしない。 これこそがもっとも深遠な『徳』なのである。
【歸元52】
天下の全てのものには皆、始まりがある。この始まりを天下の万物の根本とする。 万物の根本である母(道)を認識したからには、その子(万物)も認識できる。 万物を認識したからには、さらに根本をしっかりと守らなくてはならない。そうすれば終生危険は無い。 道を修めるには、知識や欲望の入る耳、目、鼻、口などの穴を塞ぐ。門を閉ざせば終生病は発生しない。穴を開き、知識、欲望の入るに任せれば、もはや救いようが無い。 小さな兆しを観察できる事を『明』と呼び、それに対応し柔軟さを保持する事を『強』という。 蓄えられている『光』を用いて、真の『明』に復帰すれば、身に災いは発生しない。これを『永遠の道を習熟した』という。
【益證53】
もし私に英知があり、『道』にもとずいた政治を行うとしたら、私は煩わしい政策をやたら施行しない。 大きな道は平らであるが(途中に検問所や通行税の徴収所などがあったりして)、人々は(そうしたものの無い)小道を選ぶ。 宮殿は非常に美しく清められているが、田畑は荒れ放題、民の倉庫は空っぽなのに、王侯、貴族たちは美しい着物を着て、鋭い剣を帯びている。 おいしい食べ物にも飽き、有り余る財産を保有する。まさに『非道』な話ではないか。
【修觀54】
うまく建てられたものは,揺り動かされず、うまく抱えられたものは,抜け落ちない。こうして子孫は安定し、何世代に亘って祭祀し絶える事が無い。 この原則を個人の単位で実践すれば、その徳は真になる。 家の単位で実践すれば、その徳はあまるほどになり、繁栄する。 村の単位で実践すれば,村は長く繁栄する。 国の単位で実践すれば、その国は豊かになる。 天下の単位で実践すれば、平和があまねくゆきわたる。 こうして人は個人の単位で自分を認識し、家の単位で家を認識し、村の単位で地域を認識し、国の単位で国を認識し、天下の単位で天下を認識する事が出来る。 どのようにして天下の状況を知るかは,これによって測るのである。
【玄符55】
『徳』を厚く中に秘めている人は,無知無欲の乳児と同じだ。毒虫も彼を刺さず、猛獣も彼を襲わず、猛禽も彼を攻撃しない。 彼の骨は弱く、筋肉も柔らかいが、手をしっかりと握っている。 彼は男女の交合も知らないのに、彼の性器は何時も立っているが、それは精気があふれているからだ。 彼が一日中、泣き叫んでも、声がかれる事が無いのは、彼が『和』の気を持っているからである。 『和』は平常心をもたらし、平常心を持つ事を『明晰』という。精気が増す事は喜ばしく、元気になることを剛強になると言うが、物事は剛強になると、必ず衰退に向かう。精気を増す事、元気を増す事に執着し,無理に剛強になることは『道』にかなっていない。『道』にかなっていないと必ず速やかに滅亡する。
【玄徳56】
道を知る人は言わず、言う人は道を分かっていない。 目、耳、鼻、口など(知識の入る)穴を塞ぎ、門を閉ざして鋭い切っ先を表すことなく、いろいろな世間のもつれをといて、その輝きを和らげながら、塵の中に混じっている。こういうものを『玄同』(道)という。 これを持つ人には気易く近ずけないし、遠ざかり疎んじることも出来ない。 利益を得させてもいけないし、損害をかぶらせてもいけない。むやみに彼を尊ぶこともいけないし、彼を卑しめることも出来ない。こういう人だからこそ、天下の人から尊敬されるのだ。
【淳風57】
正しい方法で国を治め、戦争では奇略を用い、無事に天下を統一する。私にどうしてその事が分かるのか、その根拠はこうである。 天下に禁令が多くなればなるほど民はますます困窮する。 民間に武器が多くなればなるほど、国家は混乱する。 技術が進めば進むほど、怪しげなものが出てくる。 法令が行き亘れば、行き亘るほど、盗賊が増える。 だから聖人は言う。『私が無為であれば、民は自ずと従順になり、私が平静を好めば、民は自ずと正しくなる。私がなにもしないと民は自ずと裕福に成り、私が無欲であれば、民は自ずと純朴になる』と。
【順化58】
政治が大まかだと、民は温厚になる。 政治が細かく厳しいと、民は不満を高める。 災禍には幸福が寄り添い、幸福には災禍が潜んでいる。 誰が終局を知っているのだろう。定まるところは無いのだ。 正常は何時でも異常になるし、善は何時でも怪しげなものに変化する。このため人が迷うのは遠い昔からだ。 こうしたわけで聖人は、正しくあっても無理をせず、厳しくあっても人を傷つけず、素直であっても無遠慮でなく、明るく輝いてもきらびやかでない。
【守道59】
人を治め、天に仕えるには『節約』の精神に勝るものは無い。 常に『節約』しているからこそ、どんな事に出会っても、それに早々と対応する準備が出来るのだ。 どんなことに出会っても、落ち着いて早々と準備が出来るのは、それは『節約』という徳が積み重ねられているからだ。 『節約』という徳が積み重ねられていると、いつでも勝利する。いつでも勝利するから、その力は計り知れない。 この計りようのない力があってこそ、国家の政治が管理できるのだ。 国の根本を大切に保てば、統治は永久に維持できるだろう。 それで言う『根を深く、しっかりと堅くすること、それが長寿の道である』と。
【居位60】
大国を治めるには、小魚を煮るように、余り箸でかき混ぜないことだ。(いたずらにいろいろな施策をしない)。 『道』を用いて(無為の精神で)天下を治めれば、精霊の鬼も力を発揮しない。 鬼が力を発揮しないのでなく、その神通力では人を害することが出来ないのだ。 いや、その神通力が人を害せないのでなく、聖人が人を害することがないため、聖人と鬼が互いに害し合うことがないのだ。 こうして聖人と鬼とは互いに『徳』を共有する。
【謙徳61】
大国はたとえれば河の下流である。天下のすべての物が行き着く所 であり、いわば天下の牝である。 牝が何時も牡に勝つのは、牝が穏やかに下にいるからだ。 大国が小国に身を低くして接すれば、小国の信頼を得る。 小国がへりくだって大国に接すれば、大国の信任を得る。 それゆえ時には大国がへりくだって小国の信頼を得、小国は時には大国にへりくだって大国の信任を得るのがよい。 大国は小国の面倒を見たいと欲しているに過ぎず、小国は大国に仕えたいと思っているだけなのだ。 それで大国も小国もともに望みが満たされるわけだが、大国はとくに上手にへりくだるべきである。
【爲道62】
道は万物の奥にあって、善人の宝物であり、悪人もまた持ちたいとするものである。 悪人がこれを持つと、口先上手に人々の尊敬を得て、にこやかな顔で人の上に立つ事が出来るからだ。しかし、たとえ悪人であっても、それを悪人だからといって捨て去ってよいものではない。 天子が即位し、補佐する大臣が決まると、天子を象徴する宝物を先頭にした四頭立ての馬車が献上される儀式が行われるが、そうしたものより、献上者は天子の前に座して『道』を勧めるだけの方が善いのだ。 昔から『道』を尊ぶゆえんは、求めるものが必ず得られ、罪のあるものも許されるといわれるでないか。だから天下の人々に尊ばれるのだ。
【恩始63】
無為とは何もしないことではなく、事態が困難になり、問題が重大にならないうちにそれを見越して人の知らない手をうっていくのである。だから何もしないように見えるのです。
【守微64】
ものごとは大事に至らない微小なあいだにうまく処理すべきです。それでこそ無為の実践が可能なのです。
【淳徳65】
「道」をりっぱに修めた昔の人は、それによって人民を聡明にしたのではなく、逆に人民を愚直にしようとしたのです。
【後己66】
大河や海が多くの川谷の王者になれるのは、これら尊ばれる川谷の下流にあるからで、それで王者になれるのだ。 これゆえ、民を治めようとすれば、まず最初に言葉でその謙虚さを示さなければならない。 民を指導しようとするなら、必ず自分を民の後ろに置かなければ成らない。 それゆえ「聖人」は民の上に立って治めても、民はその重さを感じない。民の前に立って指導しても、民の目の妨げにならない。 こうして天下の民は彼を上に戴きながら、彼を嫌う事は無いのだ。 彼は争わないので、彼と争っても勝てるものはいない。
【三寳67】
人々は私に言う。私の説く『道』は広大だが、他に似たものが無、いと。まさにそれが広大なるゆえんで、広大なるがゆえに似たものが無いのだ。 もし似たものがあれば「道」はずっと昔に、はるかに小さな物になっていたはずだ。 私には三つの宝があり、私はそれを大切にして守っている。 その宝は第一が『慈愛』、第二は『慎ましさ』、第三が『人々の先に立たない』ということだ。 慈愛があるから逆に勇敢になれ、慎ましいから逆に広く行え、天下の人と先を争わないからこそ頭になれるのだ。 だが、慈愛を捨てて勇敢のみを求め、慎ましさを捨てて広く行う事に執心し、譲る事を捨てて先を争えば、その結果は滅亡があるだけだ。 『慈愛』それを戦争に用いれば勝てるし、防衛に用いれば堅固になる。 天が人を救おうとする場合、『慈愛』で守るのだ。
【配天68】
優れた『士』は猛々しくない。よく戦うものは怒らない。よく勝つものはやたらに敵と戦わない。人をうまく用いるものは、人に対して謙虚な態度をとる。 これを『争わない徳』といい、『他人の力を用いる』といい、『天の道』にかなうという。これは昔からの規則なのだ。
【玄用69】
兵法の言葉に『戦は先に仕掛けてはいけない。守勢の立場を取り、一寸進むより、一尺退いて守れ』と。これを相手側から見れば『攻めるに敵の陣営がなく、つかんで持ち上げる敵の腕も無く、前に敵がいないから使うべき武器が無い』という。 敵の力を軽んじるより大きな災いはなく、敵の力を見くびると、先の三つの宝は失われてしまうだろう。ゆえに両軍の勢力が等しい場合には、兵の苦労を思い、先に退いた方が勝つのだ。
【知難70】
私の言葉は大変わかりやすく、大変実行しやすい。だが理解できる人は無く、実行できる人もいない。議論には主旨が必要で、ものごとを行うには主体者がいなければならない。 人々はそれを理解できないから、私の言う事を理解できない。 私の言う事を理解できる人は少ないから,私に習おうという人はほとんどいないが、それだけに,それらの人は尊いといえる。 それゆえ「聖人」は、外には粗末な着物を着ていながら、中に美玉をしのばせていると言うのだ。
【知病71】
知らざるを知ることは上等だ。知りながら、知らざるとする事は欠点である。この欠点を欠点だと気付くと、その欠点は解消する。 「聖人」には欠点が無い。彼は自分の欠点を欠点と考えるから欠点が無いのだ。
【愛己72】
民が天の権威を恐れないならば、恐ろしい天罰が下されるだろう。 自分の住むところを狭いとせず、自分の生計の道を嫌がってはならない。 自分で嫌がらないから、人から嫌がられないのだ。 聖人はただ自己を知ることのみ求めて、自分を表に出さず、自己を愛しても、自分を尊いとはしない。 だから私も自分を表わす事を捨てて、自己を知ることを取るのだ。
【任爲73】
(悪人がいた場合)あえて勇気を持ってこれを殺すか、勇気を持ってこれを殺さずに置くか、この二つは一つは利になり、一つは害になる。天が憎むのはどちらか分からない。誰も天意がどこにあるのか分からないのだ。聖人にとっても、この判断は難しい。 「天の道」は争わずして勝ち、言わずして万物の要求によく応じ、招くことなくやって来させ、ゆっくりとしながらも,うまく計画する。 天の網は広大で網目は荒いが、決して漏らす事は無い。
【制惑74】
民が死を恐れないならば、どうして死刑でもって民を脅かす事が出来るのか。 民が死を恐れるような(平和な)状態で、それでもなお不正を働く者がいるときは,そいつらを捕まえ殺す事が出来れば、誰も不正をしなくなるだろう。 死をつかさどるものは(天の命じた)死刑執行人だが、この死刑執行人に代わって人を処刑するのは、大工を真似て木を削るようなものだ。素人が大工を真似して木を削り、手を負傷しないことはありえないのだ。
【貪損75】
民が飢えるのは、お上が税を取り過ぎるからだ。だから民は飢えに苦しむ。 民を治めるのが難しいのは、すべてお上の行う政治からきている。民が自分の生命も省みず、抵抗するのは,お上が自分の生活を豊かにする事ばかり考えているからだ。だから民は自分の命を捨てても抵抗するのだ。 為政者としては、自分の生活を重んじない人の方が、自分の生活を重んじ過ぎる人よりはるかに賢明だ。
【戒強76】
人が生きている時、身体は柔軟だが、死ねば硬直する。 草木の生きている時は枝や幹は柔らかく脆いが、死ぬと枯れて堅くなる。 ゆえに堅固なものは死に、柔軟なものは生きる。 この事から軍隊は強大になれば何時か敗れ、枝も強大になれば折れる。 つまり剛強さが劣勢となり、柔軟さが優勢となるのだ。
【天道77】
天の道は弓を引いて的を射るのに似ている。的の矢が高過ぎれば、低く撃ち、低過ぎれば緩め、引き足りなければ、強く引く。 天の道は、余分を減らして不足を補う。人の場合はそうではない。足りずに苦しんでいる方から取って、余りある方に与えている。 有り余っている方を減らして、足りない方に与えることができるのは,一体誰だろうか。それは道を得た人だけだ。 聖人は万物を動かして自分の所為とせず、業が成功してもその成果に無関心で、自分の賢さをひらけかそうともしない。
【任信78】
天下には水より柔軟なものは無いが、堅強なものを攻撃する力で水に勝るものが無いのは、これに変わるものが無いからだ。 弱きが強きに勝ち、柔らかさが堅さに勝つ事は、天下の誰もが知っているが、実行できるものはいない。 ゆえに『聖人』は言う。『身を低くし,国中の屈辱を引きうけてこそ天下の王者といえる』と。 どうも正しい言葉は常識に反しているように見えるようだ。
【任契79】
大きな怨みは、どれだけ和らげても、必ず恨みが残る。これではとても『善』とは言えない。 これゆえ『聖人』は借金の証文を取っても、決して返済を厳しく要求しない。 徳のある人は、借用証書を握っているかのように落ち着き、徳なき者は税吏が税を取りたてるように,せっかちに責めたてる。『天の道』は決してえこひいきしないが、常に善人を助ける。
【獨立80】
国を小さくし、民を少なくする。 さまざまな道具はあるが、使用する事はない。 民の生命を重んじて,遠くに移り住まわせない。船や車はあるが、これに乗っていく所はない。 鎧,刀など武器はあるが、これを集めて軍隊にする事はない。 民には古代のように縄を結んで記録する方法を取らせている。 食べ物はおいしく、着るものはきれいだ。住まいも気持ちよく、皆,風俗になじんでいる。 隣国とは互いに望見する事は出来るし、鶏や犬の声も聞こえてくるが、老いて死ぬまで互いに行き来する事はない。
【顯質81】
真実の言葉は美しくなく、美しい言葉は真実でない。 善き人はうまく話せず、うまく話す人は善き人でない。 本当を知る人はひらけかさず、ひらけかす人は知っていない。 『聖人』は何も蓄えず、全ての力を人のために出し、かえって豊かになる。 『天の道』は万物に利益を与えて、害を与えることはない。 『聖人の道』は何をするにも人と争う事がない。