中庸より学ぶ!過ぎたるは猶及ばざるが如し!

孔子の教学(儒教)の根本思想は修己と治人(倫理と政治)であり、儒教の文献の中でも最も要領よく概論したものが『大学』と『中庸』とされています。
『大学』が儒教の経書四書の入門として政治に重点を置いているのに対し、『中庸』は四書の中で最後に読むべきものとして倫理に主眼が置かれています。
『中庸』の著者は孔伋であると言われますが、異論もあります。
ここでは宋代の儒家朱熹(朱子)が、『大学』と同じくもともと『礼記』のうちの一篇であった『中庸』を33章にて変遷し直したものを元に、整理してみたいと思います。

中庸とは極端な行動・判断を避けて、ちょうど良い真ん中あたりが良い(大きく偏らないことが良い)という原理原則ですが、『過ぎたるは猶及ばざるが如し』にも通じるものです。
これは、過不足のない最適化された行動原理・判断基準として中庸は儒教の『道』の実践において、極めて重要な概念だとされています。

『中庸』の中心命題は「中庸の徳」と「誠」です。
そもそも孔子の学説は、
仁 → 慈愛の徳 → 孝弟忠信を元に家庭的で社交的道徳 → 広大な普遍的価値に至る
というものです。
それに対して、老子の学説は、
宇宙の本体 → 無為自然 → 人も無為自然であるべき
というものでした。
しかし、中国・戦国時代には、老子の思想が広まっていた頃でした。
そんな老子思想に対抗するため、孔子の教学に一層深遠な意義を加えようとして、『中庸』は作られたのです。
つまり、
・天の命を性、性に従うのは道
・天地の法則は人の本性
・誠
・誠を知らない者は修養が必要
・中庸
・仁
とする学説を打ち立てたのです。
各人が中庸の徳に従い、中と和を極めれば、世界全体は正しい状態に落ち着く。これが中庸の徳のポイントです。
中庸の徳を常に発揮することは聖人でも難しい半面、学問をした人間にしか発揮できないものではなく、誰にでも発揮することの出来るものです。
恒常的にいつも発揮することが難しいことから、中庸は儒教の倫理学的な側面における行為の基準をなす最高概念であるとされたのです。

誠とは、天から与えられた命令のことですが、これを地上に実現しようと努力することが人としてなすべき道であると説いています。
朱熹の章句では『道の定義』についてはただシンプルに『天の命ずるをこれ性と謂い、性に率うをこれ道と謂う』として天賦天道論(天賦天命論)の立場を取っています。
また、子思の重んじた『誠』は『天地の法則』と『人の本性』を結びつけて考えたもので、朱熹はその面において性善説の人間観を持っているのですが、『誠』は道教のような永遠不変な宇宙的な世界観に基づく『道』を象徴する観念でもありました。

「中庸」とは、前半が「中庸の徳」を持つことがいかに難しいことか、後半が「誠」に従い修養することの大切さを述べた書物です。
こうした佳書から学ぶことは多いですが、そのエッセンスだけでも触れる機会を持って頂ければと思います。

以下参考までに、現代語訳にて一部抜粋です。

【中庸章句序 第一章】
中庸の書物は何のために作ったのだろうか。子思先生が、(孔子の没後の儒教の学問が年月を経るに従って)その学問の本質を失うのではないかと心配して作ったのである。
上古の聖人が天下を統治する天子となり、天意を継承して万民の依拠すべき社会の基準(標準)を立ててから、道の系統の伝説は始まっているのである。
その『経書』に見えるものは、本当にその真ん中を執って失うなということ(『論語』の堯曰篇に由来する)であり、これは堯が舜に禅譲した時の訓戒である。人心は物欲に迷わされやすい危うさがあり、真の道を学ぼうとする道心は物欲に迷わされてほんのわずかなものに過ぎない。人心と道心を精密に区別し、一心に真の道を求めよ(精一の道を求めよ)。本当にその真ん中を執れというのは、舜が禹に禅譲した時の教えである。堯の放った一言は、至れり尽くせりで全てを言い当てていた。舜がまたこれに『人心・道心・精一』の三つの言葉を加えたのは、堯の真ん中を執れという『執中(しっちゅう)』の一言を実際に実現するための方法(精一)を明らかにしたものであった。

【中庸章句序 第二章】
思うに、試みにこれを論じてみよう、捉えどころがなく、神妙な霊力を持つ心、物事を知覚する心は、ただ一つのものである。そして、この心を人心と道心とに分けて異なったものとすることがあるが、肉体の個人的な要素や私的な欲望から生じるものを『人心』と呼んでいるのであり、天命に基づいて人間の本性の正しさに従っているものを『道心』と呼んでいるのである。人心と道心の知覚の働きは異なっているのだが、私的な欲望に基づく人心は悪ではないが、危険性を持っており落ち着くことができない。人間本性の道義的な正しさを示す道心のほうは、微妙で掴み取りにくいものであり分かりにくい。
しかし、人間にはこの物理的・身体的な形がないという人はいないから、優れた上智を備えた聖人君子であっても、私的・肉体的な欲望を伴う『人心』が全くないというわけではない。また、人間には誰でも善に向かう本性(天来の性質)が備わっているのだから、愚かな凡人であっても、天命に従って善き本性を発揮する『道心』がないというわけではない。人心と道心の二つは心の中で交じり合っており、これを正しく使い分ける方法を知らなければ、危うい人心はますます危ういものとなり、わずかな道心はますます弱々しく微妙なものとなる。天理の正しい公の道心は、ついにその私的な欲望に勝つことが出来なくなってしまう。
精(せい)とはすなわち人心と道心の二つの間を察して、その二つを混じり合わせないものである。一(いつ)とはすなわちその本心の正しさを堅く守って離さないものである。この精一(せいいつ)の原理に従って、少しの絶え間もなく、必ず道心がいつも一身の主人となるようにして、人心がいつも道心の命令を聴くようにすれば、すなわち危うい人心も安らかになり、わずかな道心も顕著なものとして現れるようになり、人間の動静のある言動・発言は、自然に過不足のないバランスの取れたものとなる。

【中庸章句序 第三章】
それ堯・舜・禹は天下の偉大な聖人である。天下をもって伝えてきているのは、天下の大事件である。天下の大聖人が天下の大事業を行った後に、その天下を後継者に平和的に禅譲する時、丁寧に告げて戒められたのは『(極端ではない)中を執ること』と『精一のあり方』に過ぎないのだ。そう考えると天下の公理は、(執中と精一とに尽きているので)どうしてこれに新たなものを付け加える必要などあるだろうか、いや、ない。
堯・舜・禹が執中や精一を教え伝えてから以降、聖人が聖人の後を継いでその教えを継承してきた。商(殷)の成湯(せいとう)、周の文王・武王の如き君主がいて、皐陶・伊尹・傅説・周公・召公の如き忠節を誓う家臣がいたが、これらの聖人はみんな、あの精一・執中の教えを受けており、歴史的な道統の言い伝えを受け継いだのである。
孔子(孔先生)のような人物は、政治的な地位・権力を得られなかったが、過去の聖人の教えを受け継いで将来の学問の道を開いたので、その功績はかえって堯・舜より勝っていると言っても良いくらいである。しかしちょうどその時に、孔子を直接に見て知っているという者は、ただ孔子の高弟である顔回・曾参の伝えている正統な儒教の教えを聞いたということなのである。曾氏の孫弟子の世代になると、また孔子の孫である子思(しし)が現れた。その時はもはや聖人の時代が遠い昔となっており、正統派に反する異端の教えが起こったのである。

【中庸章句序 第四章】
子思はいよいよ年齢を重ねて、いよいよ道の真実を失ってしまうことを恐れている。そこで尭舜の時代以来伝えられていた意味を推測してそれに基づき、その是非を考えるに当たって父師の言葉を用いて考え、代わる代わる物事の道理から事物の問題を演繹してこの『中庸』の書物を書き、この書物によって後世の学者に道の真実を伝えようとした。
大体、子思が真実の道が失われることに対する憂いは非常に深いものである。そのため、これを説く場合には親切なのである。時間が流れて道の真実が失われることを恐れる気持ちが遠大であるため、これを説く場合には詳細でもある。『中庸』で天命を天の本性であると言い、天の本性に従うことを道だと言ったのは、『道心』のことなのである。善を選択するというのは『精』、固く執るというのはすなわち『一』のことなのである。君子が時に中すというのは、すなわち『執中(真ん中を執って実行する)』ということである。
尭舜の時代から見れば子思の生きる時代は千年以上の歳月が流れているが、尭舜の時代に言われた真実は現在でも異なることがなく、ちょうど割符を合わせるように一致するものである。過去の聖人の書物を一通り取り出してみると、人間が生きるべき大綱(大筋)を示しているのと同時に、奥深い知識教養を開示しており、未だにこれらの書物のように物事の道理を明らかにしてそれを尽くしているような書物は他にないのである。
子思からまたその教えを受け継いだ孫弟子の孟子が出現した。孟子はよくこの『中庸』の主旨を推し量って明らかにし、古代の聖人の言説を受け継ぐことができた。しかし、孟子が死去するに至って、遂にその伝統の後継者が失われてしまった。わが道はただ言語・文字の間にだけ依拠するはかないものとなり、儒教の正統ではない異端の説(楊朱・墨擢などの説)が日々新たに出てきて猛威を振るっているが、老子・仏教などの学徒が出現することになると、さらにますます似通った理屈を唱えながら大いに真実の道をかき乱してしまったのである。
そしてなお幸いにもこの『中庸』が滅びずに存在し続けることができた。そして程夫子兄弟(程明道・程伊川の兄弟)という者が出てきて、この書物について考察し千年の長きにわたって伝えられなかった正統な道の端緒を受け継ぐことができ、またこの書物を根拠にしてあの仏教・老荘の二家の儒教とは似て非なる教えを排斥することができたのである。けだし『中庸』を書いて正統な教えを後世に残そうとした子思の功績は大きかったと言わなければならない。そして程夫子兄弟がいなかったならば、中庸の語句の中から誰も子思の本心を読み取ることはできなかっただろう。

【中庸章句序 第五章】
惜しいことだな、程夫子の兄弟が『中庸』について説いたところが伝わっていない(程明道先生は中庸の解説書を書かず、程伊川先生は解説書を書いたが自分の意が尽くせないとして焼却してしまった)。そして石子重が集録して程先生の学説だというもの、程先生の門人達が書き残したものが、程夫子兄弟の思想として伝わった。これらによって程夫子兄弟の大まかな思想は明らかになっているが、詳細や微妙なところまでは分からないのである。程先生の門人が自分で説を立てるに当たって、とても詳細な言葉を尽くして新たに発明することが多かったが、程先生の学説に明らかに背いて老荘思想・仏教の二家の思想に溺れてしまっているようなものもいる。
朱子(朱熹)は若かりし頃からこの『中庸』の書を受け継いで読んで、心密かにこれについて疑問を抱いていた。心を沈めて思いを隠しながら、繰り返しに繰り返して何年もの間この『中庸』の研究をしていた。ある日、うっとりとした恍然の心境に至り、この書物の要領を概ね得たようであった。そこで沢山の学説を集めて、そのうちのどれが正しいのかを定めた。その正しい説に従って『中庸章句』の一篇を書き著して、もってその後に君子が出現するのを待つこととした。そして、一人二人の同志たちがまた石子重の集録した『中庸』の解釈書を手にとって、その煩雑で混乱している文章を添削して、これを『輯略(しゅうりゃく)』と名づけた。
その『輯略』に自分たちがかつて、議論・弁明をしたり内容の取捨選択をした部分を記して、別に『或問(わくもん)』という書物を作ってその輯略に付け加えた。そして『中庸』の趣旨が、肢体のように分かれて骨節のように溶けて、段落や各章の区別が明らかになって分かれていき、脈絡が貫通しているように理路整然として、詳細と大略が相互に作用し合って、要点と詳細とをことごとく挙げることに成功した。そして諸説の似ている点と異なっている点、どれが的を射ているのかいないのかが明らかとなり、また詳しく記述して遍く通じているという文章を作り、それぞれの章句の趣きを極めることができたのである。
儒教の道統(正統な教え)については誰がこれを受け継いでいるかなどということは、敢えて妄りに議論しようとは思わないが、それでも初学者がこの『中庸章句』を手にとって学ばれるのであれば、つまり遠方に行くには近いところから始め、高い所に登るには低い所から始めるように、この書物が『遠く高い聖人の境地』に辿り付くための一助になるだろうと思うのである。淳煕己酉春三月の戊申の日、新安で朱熹がこれを序す。

【第六章】
程先生(程明道・程伊川の兄弟の先生)はおっしゃった。どちらにも偏らないことを『中』といい、長く変わらないものを『庸』という。『中』は天下が実践すべき正しい道であり、『庸』は天下が従うべき必然の定理である。この『中庸』の本は、孔子の門下が伝授してきた心に関する正しい教えである。子思はこの教えが長い時間が経つ間に、本来のものと変わってしまうことを恐れた。そのため、この教えを書き記して、弟子の孔子に授けたのである。この書物は初めに一理を説明して、半ばでは様々な分散して万事について語り、最後はまた統合して一理と為している。この書物の内容を拡散して広げれば上下左右(宇宙)のすべてに行き渡り、これを巻いてしまえば秘密の教えとなって世の中から退蔵されてしまう。その味わいには、極まるということがなく非常に深い。これはすべて、実学(実際の役に立つ学問)である。よく読む者が、この書物を熟読玩味してその真意を得たならば、生涯にわたってその真意を用いても用い尽くすことができないだろう。
天(万物生成の根本原理・宇宙の主宰者)の命令するものを『性(生まれつき備わっている性質)』といい、その性に従って行うことを『道』といい、その道を修得することを『教え』というのである。
道というのはわずかな間(しばらくの間)も離れてはいけないものである。離れられる道であれば、それは道ではないのだ。このため、まだ見ていない時に道を戒めて慎み、まだ聞いていない時に恐れて畏まるのである。道は隠れているように見えてもいずれは見えるものであり、微妙なものであってもいずれは明らかになるものであるから、君子は自分独りが知っている道についてそれを慎んで恐れるのである。

【第七章】
喜怒哀楽の感情がまだ起こっていない精神状態はどちらにも偏っていないので、これを『中』と言っている。喜怒哀楽の感情が起こってもそれがすべて節度に従っている時には、これを『和』と言う。『中』は天下の摂理を支えている大本である。『和』は天下の正しい節度を支えている達道である。『中和』を実践すれば、天地も安定して天災など起こることもなく、万物がすべて健全に生育するのである。
右の第一章。子思が孔子から伝えられた教えの趣意を述べて言説を立てた。初めに、道の根源は天から生まれて変わることがないものである。その実体は自己に既に備わっていて離れることができないということを明らかにし、次に聖人君子の天命の本性の涵養と自己の省察の要点を言い、最後に神聖の徳がある者が『中和』を実践することで、功業を為して万物の育成を為すという極地について述べている。蓋し学者は、この要点についてそれを自分の身に照らし合わせて自分が習得し、かの外界の誘惑に迷わせられる私欲を去って、本性としてある善を充たそうとすることを求める。楊亀山(ようきざん)氏の書いた一篇の要旨とはこのことを言っている。以下の十章は、けだし子思が孔子の言葉を引用して、その引用によってこの章の意義を余すところなく語ったものである。
孔子がおっしゃった。君子とは不偏不党・万世不易の『中庸』を身に付けたものである。小人とは中庸に反している者のことである。君子の中庸は君子の心に従って、時に応じて偏らずに的を射ているということである。小人の中庸は小人の心に従っており、自分の欲望を制御できないので遠慮したり憚ったりすることが無いのである。

【第八章】
先生がおっしゃった。中庸とは、それ以上付け加えることもない究極の徳である。しかし、(その教化と実践が進まなくなっているので)中庸の徳が人民の状態や心を良くするということは少なくなっており、そういった時代が続いているのだ。
先生がおっしゃった。私は道が世の中で行われていない理由を知っている。知者は道を行うには知識や徳が行き過ぎており、愚者は道を行うには知識も徳も全く足りない。私は道が明らかにならない理由を知っている。賢者はその振る舞いも知性も道を行き過ぎており、不肖の者は振る舞いも知識も道には全く及ばないからである。人間は飲み食いせずには生きられないが、その味わいを深く知っている者が少ないのと同じである。(人は道なしには生きられないが、その本当の意味や方法、実践を知っている人は殆どいないのである。)
孔子がおっしゃった。(道は明らかにならないから)道が行われることがないのだろうな。

【第九章】
先生がおっしゃった、舜は偉大な知者だったのか。舜は質問することを好み、卑近な意見から本質を察することを好んだ。人民の意見の悪を隠して善を賞賛し、善悪の両端から、その中間にある中庸を選んで人民に適用した。これらの事例を持って、聖人である舜は舜であると言えるのだろう。
先生がおっしゃった。人々はみんな自分には知恵があるという。しかし、獣を追いかけてこれを網や仕掛け(罠)、落とし穴のうちに追い詰めていっても、獣はこれを避ける方法を知らないように、人々の多くも危難・災厄の避け方を知らない。人々はみんな自分には知恵があるという。しかし、中庸の道を選んだとしてもそれをわずか一月でさえ守ることができない。(これでは、人々に本当に知恵があるなどとはとても言えないだろう。)
孔子がおっしゃった。顔回の人となり(性格と生き方)は、最適な中庸の道を選んで、もし一善を得ることができれば、それを大切に捧げ持って胸につけ、決して善を失わないようにできるといった人物である。

【第十章】
先生がおっしゃった。有徳な士大夫(君子)は天下国家といえどもそれを平らかに治めることができる。高位高官の地位と収入をも自ら辞退することができる。白刃の危険を恐れずにそれに挑むことができる。しかし、極端を避ける中庸というのは、『天下の統治・高官の辞退・白刃への勇気』以上に実践することが難しいのである。
子路が『強さ』について質問した。先生はおっしゃった。南方の強さのことか、北方の強さのことか、お前自身の強さのことかと。寛容で柔和な態度を崩さずに道理を教え、無道な暴力に対しても報復せずに耐え抜くのは、南方の人たちの強さである。これは君子がいる境地である。金革の鎧を寝具として、死ぬことを厭わずに敵と戦って破るのは、北方の人たちの強さである。これは武力に訴える強者がいる境地である。君子は人と調和しても流されてしまうことはない、これが矯(強くて正しい形)とした真の強さである。中立してどちらにも極端に偏らない、これが矯とした真の強さである。国家に道が行われていても自分の昔からの信念を変えない、これが矯とした真の強さである。国家に道が行われずに乱れていても、自分自身は善を行うための道を死ぬまで変えないこと、これが真の強さなのである。
孔子がおっしゃった。隠微な方法を求めて怪異な超能力を行う者は、世の中の受けが良いこともあって、後世これを語り伝える人が確かにいるだろう。だが、私は決してそういった神秘的なこと(超能力があるような真似)はしない。君子は道に遵った行動をするが、それでも力及ばずに、途中でやめてしまわざるを得ないこともある。だが私はやめようにもやめることができない。君子は中庸に依拠して、欲望渦巻く世俗を逃れて、自分の見識や才能が人に認められなくても後悔などすることがない。このようなことは、ただ聖者だけが実践できる道なのである。

【第十一章】
君子の道は、範囲が広くて誰にも当てはまるが、微妙な難しさを併せ持ったものである。愚かな夫婦でも道が何であるかは預かり知っている。しかし、究極の道については、聖人であってもまだ分からない所があるものである。不肖の夫婦でも道を実践できる部分は確かにある。しかし、究極の道については、聖人であっても十分に実践することはできないのである。広大な天地に対しても、人はなお(思い通りにならない寒暖の差・天変地異・不作などを)恨みに思うことがある。そのため、君子が道の大なることを語れば、天下にそれが載らないほどに大きなものとなり、その小さなことを語れば、天下にそれよりも小さなものは無いほどだ。大雅旱麓(たいがかんろく)篇に言わく、『鳶飛んで天に戻り、魚淵に踊る』と。道の上下が鳶と魚それぞれの活動に現れているのである。君子の道といえども、その端緒は不肖の夫婦から始まるものである。この君子の道が究極にまで極まれば、天地の森羅万象の出来事となって現れるほどになるのだ。
先生がおっしゃった。道は日々実践するものだから、人から遠く離れたものではない。人の道を為すにあたって人から遠くて高尚過ぎるようであれば、それは(殆どの人が理解も実践もできないのだから)道となることはできない。『詩経』のひん風(ひんぷう)・伐可(ばっか)篇に言わく、『斧の柄を切り斧の柄を切るには、その法則となるものは遠くにあるものではない』と。斧をもって斧の柄となる木を切り出すには、見本となる斧の柄をまず見なければならないが、斧の柄と木(斧の柄の材料)との違いからその法則が遠いもののように感じる。故に、君子はその人に合った道をもって人を治め、その人が道に従って振る舞いを改めればそれ以上のことはしないのだ。人への思いやりは道そのものではないが道に近いものであり、自分がして欲しいと願わないようなことは、また他人にそれをすべきではないのである。
君子の道は四つある。丘(孔子)はまだその一つさえ上手くすることができない。我が子に求める所をもって、自分自身が父に仕えるということが、良くすることができない。家臣に求めている所をもって、自分自身が君主に仕えるということが、上手くできない。弟に求めている所をもって、自分自身が兄に仕えるということが、上手くできない。友達に求めている所はあるが、それを自分から先にして上げるということが上手くできない。君子とは日常的な徳を実践して、日常的な言葉を謹み、徳に及ばない所があれば、それを補おうとして必ず努力するものである。言葉が過剰であれば敢えて言い尽くさず、言葉は自分の行いを振り返ってから話し、行動は自分の言葉を振り返ってから行う、そのような君子がどうして篤実・誠実ではないなどと言えるだろうか。

【第十二章】
君子はその位(境遇)に従って適切な行為を行い、その外を願わない。富貴な境遇にある時にはその富貴に見合った適切な行いをして、貧しく賤しい境遇にある時にはその貧困・卑賤に見合った適切な行為をする。夷狄(異民族)の中にあっては夷狄の風習に合わせた行為をして(道は守りつつも)、患難の苦しみの中にあってはその場面で必要な行為をする。そのため、君子は如何なる境遇に置かれても、(その場に合わせた適切な振る舞いをするだけであるため)不平不満の気持ちに覆われるということがないのだ。
自分が上位にある時は下の者を陵いで(しのいで)虐待することがなく、下位にある時は上の者に媚びて出世を求めることがなく、我が身を正しくして他人に求めることがなければ怨みもなくなる。上は天を恨む気持ちがなく、下は他人を咎める心がない。そのため、君子は安楽な境地にあって天命を待って甘んじて受け容れることができる。小人は危険な行為を行ってでも、何が何でも世俗的な幸福を得ようと願っている。孔子がおっしゃった。弓を射るのは君子に似たところがある。矢が的を外してしまった時には、何が悪かったのだろうかと自分の射ち方について反省するのである。
君子の道は、例えば遠方に行くのに必ず近い場所から行くようなもの、高い所に行くのに必ず低い場所から出発するようなものである。『詩経 小雅篇』にいわく、家庭の妻子が仲睦まじく過ごしていれば、琴瑟を合奏して調和するようなものである。そうなれば、兄弟の仲も睦まじくなり、和らいだ雰囲気で共に楽しむことができる。あなたの家族が仲良く、あなたの妻子兄弟も楽しく過ごしている。先生はおっしゃった。そのような仲睦まじい家であれば、父母も楽しく喜ばれるだろうと。

【第十三章】
先生がおっしゃった。鬼神の徳というのは盛大なものだな。鬼神を見ようとしても形がないので見ることができず、その声を聞こうとしても聞くことができないのだが、全ての物は鬼神によって形態を与えられておりその例外はないのだ。天下の人を精進潔斎させて礼服を着させて祭祀を行わせるが、鬼神は大きな存在感があるので自分の上にいるような、あるいは左右にいるような感じがしてしまう。『詩経 大雅・抑』の篇には、鬼神が至るのはいつのことなのか推測することができない、ましてや鬼神を厭ったり無視するようなことはできないと書かれている。鬼神は微なるものが万物を生成させる顕になったものであり、鬼神の徳である誠は人間が覆い尽くせるものではない、鬼神とはこのようなものなのである。
先生はおっしゃった。古代の聖人の舜は大孝というべきだろうか。その徳は正に聖人であり、その尊敬すべきところは正に天子である。舜の富は四海のうちの領域を保つのに十分であり、先祖の廟は天子の祭祀を受けており、子孫はこの富と宗廟を良く守っている。
そのため、大徳のある者は、必ずその位置を得、必ずその禄(収益の源)を得、必ずその名声を得、必ずその長き寿命を得ることになる。そのため、天が万物を生じる時には、必ずその素材・性質・本質の特徴を生かして強めるということになる。故に、植えたものはその植物の生長が促進するように培い、傾いているものがあればこれを転覆させようとする。『詩経 大雅仮楽』の篇では、祝うべき楽しむべき君主には堂々とした美徳があり、民草に良くして人民にも良くする、天子として天からの禄を受けることができ、天はその君子を守って命令する、この天子となるべき天命を受けよと。そのため、大徳のある君子は、必ず天子となるべき天命を受けることになるのである。

【第十四章】
先生がおっしゃった。憂いや悩みがない君主は文王だけだろう。偉大な王季を父に持ち、勇敢な武王を子に持ち、父の王季は王朝を創始して、子の武王はこの王朝(王権)を拡大したのだから。武王は大王・王季・文王の建設した王朝を引き継いで、一度だけ武装して鎧をまとい、殷の暴君・紂王を討伐することで天下を治めた。武王は天下の盛名を失うことがなく、その尊敬すべきところは天子であり、その富は四海の内を保つほどに豊かであり、祖先崇拝の宗廟を祀って祭祀を行い、子孫がその王権と宗廟を見事に保ったのである。
武王は年老いてから、天子となる天命を受けた(そのため、王位継承後わずか七年で崩御して礼制を整えられなかった)。周公は文王・武王の徳を成し遂げて、大王・王季に王号を追贈して、その先祖たちを祀るのにも天子の礼を尽くして行った。この手厚い礼制(孝の徳の実践)は、諸侯大夫から一般庶民にまで及んでいった。父が大夫であって子が士であれば、その葬儀を大夫の資格を適用して行い、祭るのは士の資格を適用する。反対に、父が士であって子が大夫であれば、その葬儀は士の資格を適用し、祭るのには大夫の資格を適用するのである。一年以下の喪である『期』は、天子には及ばないが大夫にまでは及ぶ。三年の喪にまでなると、天子にまで及び天子もこれに服さなければならない。特に最も重要な『父母(親)の喪』は、身分の貴賎に関わらずみんながこれに服さなければならない。
先生はおっしゃった。武王・周公は、礼制を整えて親に対する孝を尽くした『達孝』の人というべき君主だろう。孝というものは、父祖が成し得なかった志を継ぐこと、父祖が成し得た功績をより押し広げていくことなのである。
春秋(四季)に祖先の廟を清浄に保ち、祭祀に用いる器具を陳列し、先祖の衣裳を取り出して調え、季節の旬の食べ物を祖先に勧める。宗廟の礼は親子の序列を定めるものでもあり、左を親を祭る上位の『昭(しょう)』、右を子を祭る下位の『穆(ぼく)』に分けている。祭祀の時に諸侯・大夫の爵位によって分けるのは、身分の貴賎を分けるためである。祭祀の事務処理の難易度を分けるのは、賢者と愚者を分けるためである。祭祀の際の『旅酬の礼』では、下の者が上の者に酒を勧めるので、その恩恵は下位の賎者にまで及ぶことになるのである。頭の毛の色で『長幼の序』に応じた座席を割り当てる燕毛の礼というのも、年長者を敬うための序列をつけるためである。

【第十五章】
先王と同じ王位を踏襲(践祚)して、先王の礼を行い先王の音楽を演奏し、先王が尊敬していた祖先や賢哲を敬って、先王が親しんでいた臣民や子孫を愛して、服喪で死んだ者に仕える時は生者に仕えるのと同じようにし、葬祭の時には亡くなった者に仕えることを生存者に仕えるのと同じようにした。これは、孝の徳の極限である。天を祀る郊祭、地を祀る社祭は、上帝に仕えていることの現れである。宗廟の祭礼は、その祖先を祀っていることの現れである。天地を祀る郊社の礼、祖先を昭穆の順序で祀る春秋の礼の意味を明らかにすれば、国家を治めることは天下を掌の上に乗せたが如く簡単なことである。
魯の哀公が政治について問う。先生が答えておっしゃった。文王・武王の政治は過去の方策の中に敷かれて存在しており、かつてのような人材があれば文王・武王の如き政治を行うことができるが、人材がいなくなればそういった善政・武威は終わってしまう。人の道を政治によって実践しようと思えばその変化は敏速であり、地の道で樹木が迅速に生長していくのと同じである。政治というものは、土蜂(ジガバチ)が桑虫の子を変化させてわが子とするようなもので、政治によって百姓(大衆)を道徳的に教化することがその要諦なのである。故に政治を為すには有能な人材がいる、良い人材を取るためには君主の身(徳)を用い、身を修めて徳を身に付けるには道を用い、道を修めようと思えば仁の徳に依拠しなければならない。
仁とは人のこと(人に対する道徳)である。仁の中でも自分の親族に親愛の情をもって接することが重大である。義とは宜(事に応じた判断)のことである。義の中でも賢者を尊敬するということが重大である。親族に親しむ場合にも疎遠な人だと親愛は減殺されてしまう、賢者を尊敬する場合にも知性のレベルによって等級をつけて差別してしまう、これが(親疎・知性によって対応が変わるという)『礼』の生じる所以なのである。故に、君子はまず自分の身と道徳を修めなければならない(そうしないと優れた家臣が集まってこない)。故に、我が身を修めようと思えば、自分の親にまずお仕えしなければならない。親に仕えようと思えば、人間というものを知らなければならない。人を知ろうと思えば、天を知らなければならない。

【第十六章】
天下にある者すべてが古今から実践すべき優れた道が五つある。この道を実践するに当たって必要なものは三つある。五つの道とは、君臣である、父子である、夫婦である、昆弟である、朋友との交わりである。この五つのものは、天下にある者すべてが守るべき優れた道である。知・仁・勇の三つのものは、天下のすべての者に通用する素晴らしい徳である。この徳を実践するのに必要なものは一つの誠である。ある者は生まれながらにしてこの道を知り、ある者は学んでからこの道を知り、ある者は苦しんだ後にようやくこの道を知る。しかし、この道を知ることができたという意味ではそれらは同じ一つのものである。行動においては、ある者は簡単にやってしまう、ある者は利益のために行う、ある者は必死に勉強して行う。しかし、実際に行動して成功したのであればそれらは同じ一つのものである。
先生がおっしゃった。学を好むというのは知そのものではないが知に近い、努力して怠らないのは仁そのものではないが仁に近い、恥を知るというのは勇そのものではないが勇に近い。この三つの徳を知れば、自分自身の身を修める方法を知ることができる。自分の身を修める方法を知れば、人を治める方法を知ることができる。人を治める方法を知れば、それは天下国家を統治する方法を知っているも同然である。
およそ天下国家を治めるには、万古不易の九つの法(原則)がある。それは、修身である。賢者を尊敬することである。親族と親しくすることである。大臣を敬うことである。群臣を思いやることである。庶民を子と思って守ることである。百工の職人を呼び集めることである。遠方からやって来てくれる商人などを懐柔することである。諸侯と親しくして主君に反旗を翻す危険を無くすことである。

【第十七章】
君主が我が身を修めれば、天下国家を統治するための正道が確立する。賢者を尊敬すればその助言・知恵によって迷うことがない、親族と親しくすれば叔父や兄弟、従兄弟などから怨みを買うこともない、大臣を敬って信頼すれば大臣はその力を発揮するに当たって迷うことがない、群臣を礼遇して大切にすれば士大夫たちは主君の恩義に報いようとして必死に働く、庶民をわが子のように大切にすれば庶民は主君を父のように仰ぎ、百工を招けば国内の産業が活性化して器物・財物が十分に供給され、遠方から来た人を丁重に持て成せばその世評によって四方が進んで帰属し、諸侯と親しくして懐柔すれば天下はみんなその威徳を畏れることになる。
精神と衣冠を正しく整えて慎み、礼に適っていなければ動かないというのは、身を修めている所以である。讒言を言わずに色欲を遠ざけ、貨財を賤しんで徳を貴ぶのは、賢を勧めている所以である。親族の位を高くしてその俸禄を多くし、その好き嫌いに合わせることは、親族と親しくして怨恨を防いでいる所以である。大臣の下に属官を置いて自由に任免できるようにするのは、大臣の能力を存分に発揮できるように勧めている所以である。忠義に厚い家臣の俸禄を多くしているのは、士を勧めている所以である。農業の暇な時期に使役して税金を安くするのは、百姓を大切にしている所以である。日々職人たちの仕事を顧みて、月にその仕事の成果を確認し、その仕事に応じた報償を与えるのは、百工の産業を勧めている所以である。遠人が帰って行くのを見送り、やって来るのを迎える、善なる者を賞賛して不能な者を哀れむのは、遠人を柔らげる所以である。子孫が絶えた家の後継ぎを探し、廃れた国を再興させ、乱れた者を治めて危険がないようにし、諸侯の朝勤や大夫の参上は規定の時期に来れば良いこととし、朝廷から賜る物を多くして諸侯からの貢物を少なくするのは、諸侯に忠誠を誓わせて懐かせている所以である。
およそ天下国家を治めるには、万古不易の九つの法(原則)がある。これを行う所以はただ一つ、誠である。およそ物事はあらかじめ準備すれば成功し、あらかじめ準備をしなければ失敗してしまう。言葉を発する時にも話す内容をあらかじめ定めておけば言い間違えることはない、物事に臨む時にもあらかじめ準備しておけば苦しまない、行動する前に備えておけば失敗することはない、道を実践する時にもあらかじめ定めておけば窮迫することはないのである。

【第十八章】
自分の身分が下位にあって、上位の者から信任を得られないのであれば、民心を得て安定的に統治することなどできない。上位の者の信任を得るのには道がある。朋友に信用されなければ、上位の者からも信任されない。朋友に信用されるには道がある。親に従順であり親を喜ばせなければ、朋友に信用されない。親に従順であることには道がある。自分の身を反省して誠でなければ、親に従順とは言えず親は喜んでくれない。自分の身を誠にするには道がある。善を明らかにして実践していなければ、我が身は誠にはならない。
自然な誠とは天の道である。これを何とか努力することによって誠にしようとするのが、人の道である。天性の自然な誠は努力をすることなく道に当たり、その天性の知は思索することなく道に到達し、何ら抵抗・苦労を感じることなく道に当たる。これができるのは聖人である。努力・勉強をして誠になろうとする者は、善悪を分別して善を選択した上で、その善の道に固執し善から離れないという者である。
物事を幅広く学んで、不明な所は詳しく質問をし、慎んで思索をして、善悪・理非を明らかに弁別して、それを真剣に実践するのが『努力して誠に至る道』だ。学ばないということもある、だがいったん学び始めたらよく分かるまでは途中でやめない。問わないということもある、だがいったん質問したらよく分かるまでは途中でやめない。思索しないということもある、だがいったん考えたらよく分かるまでは途中でやめない。弁別できないということもある、だがいったん弁別しようとしたらよく分かるまでは途中でやめない。実行しないということもある、だがいったん実行しようとしたらそれを篤く真剣に実行するまで途中でやめない。他人が一回するのであれば、自分は百回行い、他人が十回するのであれば、自分は千回行う。果たしてこのように道の実践に努力勉強をすれば、愚者といえども必ず賢明になり、意志が柔弱な者も必ず意志が強い者になれるのだ。
右第二十一章。この章は、子思が上章の孔夫子のおっしゃった天道人道の意志を受け継いで言葉を立てた。これより以下の12章はすべて子思が述べたものであり、この章の意志を反覆して推察し、内容を明らかにしたものである。
誠から発して善が明らかになる、これは天命・天道の性(聖人の徳)である。善を明らかにしてから誠となる、これは修身の教え・人道(賢人の学)である。誠であればそれは明(善の明らかさ)である。明(善の明らかさ)であればそれは誠なのである。

【第十九章】
天下の至誠を体現した聖人は、ただその天命の性(万物の根源にある本質)を察してそれを尽くすものである。自分の性を尽くすということは、他者の性を尽くすということでもある。他者の性を尽くせば、物の性を尽くすということになる。物の性を尽くせば、天地が万物を生成発育させる働きを賛助・促進することができる。天地の万物生成の原理を賛助・促進すれば、天地と共に立って(天地人の三者の均衡を実現して)天命に適うことができる。
聖人に及ばない次の賢人以下の人たちなどは、仁義・忠孝・孝悌などの徳性の一端から道を推測して極めていく。正しい徳性の推測ができれば誠につながる。誠があれば、外に形となって現れる、形があれば徳は著しくなり、著しくなれば徳のあることは明らかで、徳が明らかであれば人々を動かし、人々が正しい方向に動けば世の中が変わり、世の中が変われば天下国家が徳化されて治まることになる。天下にいる至誠の聖人は、ただ天下を徳化・教化することができるのである。
天下における至誠の道は、事前に予見して知ることができる。国家がまさに勃興(発展)しようとする時には、必ず吉祥(瑞兆)の良い知らせがある。国家がまさに滅亡しようとする時には、必ず妖しげな凶兆が見られる。占いの卜筮(ぼくぜい)にもその吉凶の兆しは現れ、その占う人の四体の動きにも現れる。禍福(幸福・幸いと不幸・災い)がまさに差し迫ろうとする時に、至誠なる聖人は、善をまず必ず知り、更に不善についてもまず必ず知ることができる。故に、至誠というのは神のようなものである。

【第二十章】
哀公が政治について問うた。孔子曰く「文武の政治は、今なお方策典籍の中に残っており、そのため、遺法を運用できる賢臣があれば、その政治はよく行われ、賢臣がいなければ、その政治は滅びて行われません。
人の道を好むものであれば、その政治がすみやかに行われることは、ちょうど地に植えた草木が敏速に発育するようなものです」
それ政治は、蒲盧(せがばち)のようなものです。よって政をなすはただ賢臣を得るにあり、賢臣を取るは君の身をもってします。君の身を修めるのは道をもって手本とし、道を修めるには仁をもって本とします。
仁の意義は人です。人に対する道徳の中では、我が親族を親愛することが最も重大なのです
義の意義は宜です。事に応じて処置をする中では、賢者を尊敬することが最も重大でのです。
親族を親しむ度合や、賢者を尊敬する等級をつけることは、礼儀によって生じます。
君子は第一に我が身を修めなければなりません。身を修めようと思うなら親に仕えなければなりません。親に親しむ心を尽くそうと思えば、必ず賢人を尊敬して、その人から裨益を受けねばならりません。その人を知ろうと思えば、もって天を知らなければなりません。
天下古今共によるべき道には5つあり、この達道を行う者は3つあります。5つとは君臣、父子、夫婦、兄弟、朋友の交わりです。この5つは天下の達道であります。この達道を行うのは知仁勇の3つです。この三達道をもって五達道を行うのは種々の手段であるが、ひとつの誠に帰するのです。
生まれながら道を知る者、学んで道を知る者、苦しんだ後に道を知る者があり、この三等の人、道を行うことに難易はあっても、成功した後は同じなのです。
孔子曰く「学を好むものは知とはいえないが知に近いというべく、力行は仁ではないが仁に近く、舜に若かざるを恥じるのは勇に近いといえよう。以上の3つを知れば、我が身を修める意味がわかる。我が身を修める意味を知れば、人を治める意味がわかる。人を治める意味を知れば、すなわち天下国家を治める意味がわかるのである。
およそ天下国家を治めるには9つの方法がある。第一は修身である。次に賢者を尊ぶ。次に親族を親しむ。大臣を敬する。群臣の心情を察する。庶民を我が子と思う。百工を招致する。商賈旅客に恩を加える。諸侯をなつけることである。
君主が己の一身を修めれば、天下国家を治める道が確立し、賢者を尊んでこれを師友とすれば、君主は疑い惑うことがなく、親族を親しめば、お互いに怨むことがなく、大臣を敬して信任すれば、小臣らが邪魔をすることがなく、群臣の心を察すれば士たる者は感激してその職に尽力し、庶民を我が子と思えば、百姓は君を父母のように愛し、百工を招致すれば、工業勃興して富み、商賈旅客に恩を加えれば、天下の旅人はみな集まり、諸侯をなつければ、天下はみなその徳に感じる。
かくのごとくなれば天下は泰平となるであろう。
心を清明にして衣冠を正しくし、いやしくも礼に非れば動かないのは、身を修めるゆえんである。讒言を去り女色を遠ざけ、貸財を賤しんで有徳の人を尊重するのは、すなわち賢を勧めるゆえんである。その位を尊くして俸禄を重くして、その好悪を同じくするのは親族を親しむゆえんである。多く属官を置き自由に任使させるのは、大臣を勧めるゆえんである。忠信なる者を重用して俸禄を重くするのは、士を勧めるゆえんである。使役するのは農閑期に行い、租税を少なくするのは、百姓を勧めるゆえんである。日々その仕事を省み、月にその功課を試験し、手当てを出すのは、百工を勧めるゆえんである。相当の設備をし、善なる者にはその才能によって任命し、不能な者には無理強いをさせないのは遠人を和らげるゆえんである。子孫の絶えたる者には本家を継がさせ、封土を与え、乱れたる者はこれを治め、来聘は規定の時機をもってし、賜物は手厚くし、貢物は軽少にさせるのは諸侯をなつかせるゆえんである。
およそ天下国家を治めるには上のとおり九経あるが、これを行うのはただひとつの誠である。
物事は何事にもよらずあらかじめ準備をすれば成立するが、しなければ失敗するものである。たとえば言を発せんとするときはよく思考しておればつまずかず、事をなさんとするときはまず思考しておれば、事に臨んで苦しむことはない。行いをなそうとしてあらかじめ思考しておけば、失敗することがない。また道を行かんとしてあらかじめ思考しておけば、窮することがない。
身が下位にあって上の信任を得なければ、道を行い民を治めることができない。上の信任を得るには道がある。朋友に信じられ、名声が昇り聞こえてはじめて上に信じられる。朋友が信じないのに、君の信任を得ることはできない。
朋友に信じられるには道がある。自分の行為が親の心に従い親を満足させてはじめて朋友に信じられる。親すら満足させられないのに、朋友はどうしてこれを信じようか。
親の心に従い親を喜ばせるには道がある。自分が自ら反省して誠であれば、親はこれを喜ぶが、もし誠でなければ親はこれを満足と思わない。
身を誠にするには道がある。善に明らかであれば自然と誠になるが、善に明らかでなければ身も誠とならない。誠すなわち信実無妄なるは天の道である。努力勉強して誠ならんことを求めるのは人の道である。天性の誠なる者は、その行いは勉強を用いなくても道に当り、その知は思索を待たずして道を得、従容として道に当る。これすなわち聖人である。
努力勉強して誠ならんことを求めるものは、必ず善を専一に固守して失わないようにしないといけない。博く学んで、理解できないことは問い、謹んでこれを思えば心に自得することができ、その自得したものを明らかに弁別し、日々篤くこれを実行しなければならない。学ばないこともあるだろう、しかし一旦これを学ぶ上は中止しない。問わないことはあるであろう、しかし一旦これを問う上は中止しない。思わないことはあるであろう、しかし一旦これを思う上は中止しない。弁えないことはあるであろう、しかし一旦これを弁える上は中止しない。行わないことはあるであろう、しかし一旦これを行う上は中止しない。
他人が一たびするときは、自分は百たびし、他人が十たびするときは自分は千たびする。このように努力することができれば、たとえ愚かなる者もよく善を択ぶことができて明らかとなり、柔なる者もよく強となることができる。

【第二十一章】
誠であれば、照らさないものはない聖人の徳であり、いわゆる天命の性であるのです。善を明らかにして、後に誠なるは賢人の学であり、いわゆる道を修める教えなのです。誠であればすなわち明であり、明であれば必ず誠なのです。

【第二十二章】
ただ天下の至誠のみが、天命の性を察して尽くすことができるのです。我が性を尽くせば、人の性を尽くすことができるのです。よく物の性を尽くせば、すなわちもって天地が万物を生々発育させる事業を賛助することができるのです。

【第二十三章】
賢人以下は、よく曲を推し極めることができれば、遂によく誠あることができます。誠ありて中に充足すれば、その徳自然に外に形れ、形ればいよいよ著しく、著しければいよいよ明らかにして、明らかになれば、おのずから人心を動かし、動けば従って変じ、変ずれば化します。ただ天下の至誠にしてよく物を化するに至ることができます。

【第二十四章】
至誠の道は、およそ前もって予知することができるのです。国家がまさに勃興せんとするときは、必ず瑞祥があります。国家がまさに衰亡せんとするときは、また必ず妖?があります。あるいは卜筮に現れ、あるいは人の動作威儀の間に動くものなのです。
禍福がまさに至らんとするとき、善も必ずこれを知り、不善もまた必ずこれを知ることができます。ゆえに至誠は神のごときものなのです。

【第二十五章】
誠はそれ自身、自ら成就するものです。ですから道はそれ自身、自ら導くものなのです。誠は物の終始、誠ならざれば物なしといいます。君子は誠を尊しとなします。誠はそれ自ら完成することはもちろんですが、仁徳内に備われば自然に物に及んで、物をしてまた完成せしめるものなのです。
自己を完成させるのは仁であり、物を完成させるのはその作用すなわち知なのです。性は万物の一源であるから、この徳は万物もまたみなこれを具有しています。物と我と、外と内と本来相違あるものではありません。すなわち、内外合一、物我一体観に至るべき道なのです。ゆえに時に臨んでこれを用いてみなその宜しきを得るのです。

【第二十六章】
ゆえに至誠は一刻の間断もないものです。間断がなければすなわち久しく常住不滅なのです。久しければ自然にその徴験があります。すでに効験があればいよいよ悠遠にこれを行うでしょう。悠遠であればその積もり積もること広博して深厚となり、広博深厚であればその外に発揚すること高大にして光明なのです。
博厚は物を載するゆえんです。悠久はすなわち物を成就するゆえんです。博厚はよく物を載せるゆえに、地に配します。高明のよく物を覆うのは、天の万物を覆うが如し、ゆえに天に配します。しかしてその悠久なるは極まりないものなのです。
かくのごときものは、その功用自然に現れ、動かさずして自ら万物を変化させ、無為自然にして成就するものなのです
天地の道は一言にして尽くすことができます。その物たる至誠純一にして2つではありません。すなわち万物を生じてその多きことは割り知ることができないのです。天地の道は、広博を極め深厚を極め高大を極め光明を極め悠遠を極め長久を極めるものなのです。
今、天は昭昭として小さく明るいものが、多く集まったものです。しかしその極まりがないのは、日月星辰はみな天にぶら下がっており、万物はみな天に覆われているほどなのです。
今、地はひとつかみの土が多く集まったものです。しかしその広大なことは、華岳のごとき大山をのせても重しとせず、河や大海をおさめても外に洩らすことなく、万物をのせているほどなのです。
今、山は小さい一塊の石が多く集まったものです。その測られないほど広大なことは、鼈・蛟龍・魚鼈が水中に生じ、魚塩のような多くの財貨を出すほどなのです。
詩経に『維れ天の命、於穆として已まず』とありますが、天の天たるゆえんはこの止まざるにあることを言ったのでしょう。その次に『於乎顕れざらんや、文王の徳と純』とありますが、文王の文王たるゆえんは、この純一不雑にあることを言ったのでしょう。

【第二十七章】
大なるかな聖人の道は。洋々と流動充満して、万物を発育させ、高大なる天を極めます。優々として大なるかな、礼の大綱である三百、威儀三千は。それらは至誠の人を待って後行われるものなのです。
ゆえに、いやしくも至誠の人でなければ、至道は成らないと言われるのです。よって君子は徳を修め学問により知識を磨き、広大を致して心胸を開拓するとともに精神微妙を尽くし、高明を極めて中庸を心がけ、古きものを学んで、新しいことを知るようにし、礼儀を尊ぶようにするのです。
ゆえに上にあっては下に対して驕り高ぶることなく、下となっては上に背くことがない。国に道あるときは進んで国家の大計を論じて興って位に上るであろう。国に道なきときは、才能を韜して言わず、よって害を受けることがないであろう。詩経に『すでに理に明らかで、かつ事に察らかであるので、その身を保全する』とあるのは、このことをいうのであろうか。

【第二十八章】
孔子曰く「愚かにして徳がないのに自ら用いることを好み、賤しくして権力を盗んで自ら専らにすることを好めば、必ず人心にもとるものである。今の世に生まれたら、今の時勢に従わねばならぬ。もし強いて古の道を復さんとすれば、必ず禍を身に受けるものである。
天子でなければ、礼儀を議論し制度を作り、文字を考定してはならぬ。今や天子は車のわだちの度も同じく、書や文字も同じく、礼儀作法の次第順序も同じである。
たとえその位は高くてもその徳がなければ、あえて礼楽を作ってはならぬ。その徳ありといえども、その位なければ、あえて礼楽を作ってはならぬ」
孔子曰く「吾よく夏の礼を説くが、これを徴証するに足らない。吾は殷の礼を学びて、宋に幾分か存するものがあるが、現代の制ではない。吾は周の礼を学びて、今の世においてこれを用いている。そのため吾は周の礼に従わねばならぬのだ」

【第二十九章】
天下に王たるには三か条の重んずべきものがあります。すなわち位と徳と時なのです。これらを重んじるなら、過ちは少ないでしょう。上代の夏殷の礼は、善とあるといえども、杞宋の国の文献で取るものがありません。徴証がなければ民は疑ってこれを信じません。聖徳あって下位にあるものは、善であっても位が尊くありません。尊くなければ民は軽んじてこれを信じません。信じなければ民はこれに従わないのです。
ゆえに君子の道は、身に徳をつけてこれを庶民に施して、行うところが三王の行事と誤りたがうことなく、これを天地の間に立てて天地自然の道にもとることがなく、これを鬼神に正しても疑いなく、百世の下、聖人の出現を待っても惑うことがない。百世の下、聖人の出現を待っても惑うことがないのは、人を知っているといえます。
君子は動いて世々天下の道となり、その行いは世々天下の方となり、その言は世々天下の則となります。もしこれに遠ければ、民はこれを望みて思慕します。これに近ければ、民はこれを厭わずして愛着が止むことがありません。
詩経に『遠くにあって悪むことなく、近くにあっては厭うことがない。請い願わくはつとに夜に勉めて怠らず、もって永く名誉を保って終わらん』とあります。およそ君子はこのように思慕愛着されることなく、早く誉れを天下に博するものはないのです。

【第三十章】
仲尼は古の帝堯帝舜の道を祖として尊びて、周の文武の法を彰明しました。上は天に則り下は地により、すなわち天地の道を遵奉しておられるのです。仲尼の徳の偉大であることは、たとえば地の物を載せざるはなく天の物を覆わざるなきがごとく、たとえば春夏秋冬の四時が交わる交わる運行するがごとく、たとえば日と月は代わる代わる昼夜を照らすがごとくなのです。万物は相並びて発育して互いに相害いません。道並び行われて互いに相もとりません。小徳は、川の流れて各流脈あって分明なるがごとくなるためであり、大徳は化育が遺憾なく行わるるがためであります。
これ天地の大なるゆえん、仲尼の偉大なるゆえんなのです。

【第三十一章】
ただ天下の至聖なる者のみ、よく聡明叡智の知徳あって、人民に君臨するに足り、寛容温和なる仁徳あって、もって民を容るるに足り、発強剛毅、屈すべからざる勇徳あって、守るところのものを奪われないのに足り、文理密察なる義徳あって、もって事の宜しきを弁別するに足るのです。
この知仁勇礼儀の五徳は溥博にして広大を極め、淵の静深にして測り知るべからず、その溥博なることはあたかも天の、物として覆わざるなきがごとく、その淵泉なることはさながら淵の水の流れて尽きざるがごとくであるのです。
これをもって名声は中国に満ち溢れ、ひいては四方の夷狄までにも及び、およそ舟や車で行くことができるところ、人力の通ずべきところ、天の覆うところ、地の載せるところ、日月の照らすところ、霜露の降りるところ、およそ血あり肉ある者は、みなこの聖人を尊びこれを親愛せざるものはないのです。ゆえにこれを称して天に配すというのです。

【第三十ニ章】
ただ天下至誠なる者のみ、よく天下の大経すなわち五倫の道を尽くし、もって天下万世の法となし、よく天地の万物を生々化育するのを知っています。このようであれば、どうして一方に偏倚して公平を失うことがありましょうか。
?々と懇至なるその仁徳よく大経を経綸し、淵々と静深ものなるその淵徳を立て、浩々と広大なるその天徳を立てる。いやしくも聡明聖知にして天徳に達する聖人でなければ、誰がよくこの至誠の領域を知ることができましょうか。

【第三十三章】
詩経に『錦の衣を着て、その上に麻の粗布を加える』とあります。これは錦の文采が外に顕れるのを憎むからです。ゆえに君子の道は、表面から見れば闇然と暗いけれども、内に充実しているので日に日に明らかになります。
君子の道は淡薄であるがいつまでもあかない、簡単であるが見るべきものがあり、温和であるがその条理あって乱れざるものなのです。
遠くかなたに現れるものは近きに基づくことを知り、風の伝わるのは、その身によることを知り、徴であっても必ず外に顕れることを知るのは、ともに徳に入ることができます。
詩経に『潜りて伏すとも、また甚だ明らかである』とあります。ゆえに君子は内に自省して疚しきことなく、良心に恥ずることなきだけの修養をするのです。君子の及びがたきところは、人の見ず知らざるところで、よく独り慎んで怠らない点でしょう。
詩経に『汝の室に在りて独り居るのを見るに、室の西北の隅に対して恥じないであろう』とあります。ゆえに君子は、未だ応接せざる前において敬し、その未だ言を発せざる前において既に信なのです。
詩経に『大楽を奏して神を祀る時、一言も発しないが、人皆感化して会い争うものあるなし』とあります。このゆえに君子の徳はおのずから民を化し、怒らなくても民は?鉞の罪を受けるよりも恐れるのです。
詩経に『深遠なる徳は顕れない、その徳外に表れて諸侯これに法る』とあります。このゆえに君子は篤恭して天下も平らかとなります。
詩経に『われ明徳を思い、声を大にし色をはげしくすることはない』とあります。孔子曰く「声を大にし色をはげしくて民を化するのは、そもそも末である」と。詩経に『徳の軽きこと、毛のごとし』とあります。しかし毛は軽いけれども、なお物を比すべきものがあります。上天のことは声もなく臭いもありません。聖人の徳はここに至るのです。