朱子学と陽明学の違い、日本陽明学とは!

陽明学というと幕末の志士達がこぞって学んだとか三島由紀夫が傾倒したとか過激なイメージが多い学問ですが、改めてその中身を整理したいと考えています。

そのための前段として、陽明学と同様に引き合いに出される朱子学を併せて整理し、その違いからみていくことにします。

そもそも陽明学と朱子学は相対する学問ですが、いずれも根本は孔子の儒学です。
儒学は”修己治人”(おのれを修め人を治める)を目標にした実践的な教えであり、前漢代に国教化された後は春秋戦国時代の儒家の書物にて”一語の解釈に三万字を使う”という、難解な解釈を繰り返すだけのものになっていきます。

【朱子学】
そんな中、11世紀に南宋の哲学者朱子(朱熹)が儒教の体系化を図り、上下の秩序・大義名分を重んじ礼節を尊ぶ思想として新儒教”朱子学”(道学、宋学)へと練り上げていきます。

ところで二宮金次郎が歩きながら熱心に読んでいる本は何か、ご存じですか?
実はこの本”四書五経”のひとつである”大学”です。
四書五経は(なにせ膨大な範囲に及ぶので)一通り整理した内容は以下を参考にしていただきたいのですが、簡単に説明すると朱子が儒教の経書(儒家経典※)の中でも特に重要とされる文献を整理し、体系化して習う順番なども決め、科挙の学として顕彰したもので、以下を対象としています。
※)古代中国の聖人や賢人の著作や言行録、一部の注釈類などからなる著書群を指す。
四書:”大学””中庸””論語””孟子”
五経:”易経””書経””詩経””礼記””春秋”

※)経書の”礼記”から”大学”と”中庸”を独立させたのも朱子です。

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朱子は、
・性即理説(性(人間の持って生まれた本性)がすなわち理であるとする)
・仏教思想の論理体系性
・道教の無極及び禅宗の座禅への批判とそれと異なる静座(静坐)
という行法を持ち込み、道徳を含んだ壮大な思想・朱子学に纏め上げます。

本来の”大学”は”学の大なるもの”ということで”博学をもって政となす”といわれており、それは”三綱領八条目”として整理されています。
”三綱領”は”明徳”(自分を修める修己)、”新民”(人を治める治人)”止至善”のコンセプトからなるもの。
”八条目”は、”格物・致知・誠意・正心・修身・斉家・治国・平天下※”の8つのサブコンセプトからなるもの。
※)格物・致知が学問のヴィジョンを、誠意・正心・修身が徳行を、斉家・治国・平天下が行動を表す。
こうしたことから朱子は、”大学”は己を修めて人を治めるためのものであり、ここに儒学のエッセンスがすべて凝縮していると考えたようです。

こうしてできた朱子学は”物に格(いた)る知”の学問といわれるのですが、
・格物致知
・理気二元論(先知後行)
・身分秩序
を重視し、封建社会を支えるための大事な学問でした。

物に至るとは物の真相に迫る姿勢であり、”学びて習う”という態度に近いものですし、科学的・分析的な捉え方のアプローチを行うものです。
できるだけ多くの知識を仕入れ、取捨選択して体系化するというのが朱子の学風であることからも、それは伺えます。
従って、とにかく物をよく見ようという訳で、”改める”というよりは”物を見よう”という立場にある訳ですね。
こうしたことから、朱子学の”わかる”は頭だけでなく行動全般にまで影響が及ぶもので、完全に”わかる”ことはそれ以前とは別の人間になるほどの変化をもたらすという考え方に行き着きます。

”格物致知”とは、物の道理を窮め知的判断を高めることで理想的な政治を行うということです。
”先知後行”とは、人間の知(知識・学問)と行(実践・行動)の関係は、先後からいえば知を先とし、軽重からいえば行を重とすることで、”知”と”行”とは一致しない、即ち学問は学問、行動は行動、と割り切った二元論とすることです。

”物をよく見よう”が一転すれば非常に保守的になり、社会・国家生活でいうと現在の生活や秩序を是認してかかる傾向にあります。
それぞれが住むパーソナルスペースが非常に居心地よく、社会全体に対する欲求や変化を強く望まないため、批判は出てもそれが政治推進に然したる影響を持たないという状況です。
これは支配階級からいえば便利で非常に都合がよい考え方ではありますね。
日本でも徳川幕府が林羅山に命じて朱子学を導入したことからも、しかもその徳川幕府が260年続いたことからもよくわかります。

そういった意味では、戦後の日本社会においても知識が重視されている傾向にあります。
学歴社会で偏差値の高い有名大学を出て、大企業に入ることにばかり重きをおき、親達はそうした道を歩ませるために子供に金を掛けて塾にやり、○×の勉強で高い点を取ることが最も優れているという考え方を植え付ける。
科学的知識や正しい答えのある中で一定の同じ枠組みの教育を受け、企業に勤めれば創造的な思考や行動より形式的な態度が染み付くように成り立った社会です。
”自由な発想で好きなことをやっても良い、ものごとは自分で判断しろ”とは言うものの、実際の社会の枠組みや仕組みは依然として知識偏重で、突出した個性や性向を嫌う傾向からは抜け出せていません。
従って知新は少なく、物事を如何にして変えていくか、そのためにどうするかといった発想が行動に結びつき難い傾向になるのです。
時代の為政者達が何故好んで朱子学の方を採用してきたのか、どうして陽明学の説を採用しなかったのかがこれで良くわかると思います。

【陽明学】
陽明学は、中国の明代に南宋の陸象山の説を受けた王陽明がおこした儒教の一派で、孟子の性善説の系譜に連なるもので、王学、心学あるいは明学、陸王学ともいわれます。
朱子学は、明の時代に国家公認の学問として神格化され、批判が適わない権威を持ってきます。
人々は活発な意見を出し合う事が出来ず、朱子学だけが絶対で、儒教の教えは朱子学で解釈され、その解釈は否定することを否定されるという形式的で窮屈な生活を強いられます。
こうした中王陽明は、”大学”が朱子によって都合のいいように改変されていたと異議を唱え、古典本来の姿である”古本大学”を出版して朱子学の解釈を否定し、権威に従うのではなく自らの責任で行動する心の自由を説きます。

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陽明学は”物を格(ただ)す心”の学問ともいわれており、
・心即理
・致良知
・知行合一
を説き、朱子学の主知主義に対して実践を重視しました。
日本では熊沢蕃山 中江藤樹 大塩平八郎がこの系統で時世批判が強く社会から弾圧されています。

心即理とは、心を”性”(天から賦与された純粋な善性)と”情”(感情としてあらわれる心の動き)に分別した上で”性、情”をあわせた心そのものが”理”に他ならないという考え方です。
生まれたときから心と理(体)は一体であり、心があとから付け加わったものではなく、その心が私欲により曇っていなければ心の本来のあり方が理と合致するので、心の外の物事や心の外の理はないというもので、端的にいえば鏡面のような心を持つということです。
致良知とは、”良知※”を全面的に発揮することを意味し、これに従う限りその行動は善なるものとされる上、”良知”に基づく行動は外的な規範に束縛されない(”無善無悪”)という考え方です。
※)貴賤にかかわらず万人が心の内にもつ先天的な道徳知であり、また人間の生命力の根元でもあるもの、人間に先天的に備わっている善悪是非の判断能力を指す。
知行合一とは、知(知ること)と行(行うこと)は同じ心の良知から発する作用であり、分離不可能であるとする考えです。
要は、知って行わないのは、未だ知らないことと同じであり、いくら知識があっても行動が伴わなければ意味がなく実践重視が肝要であるということです。
(主観主義に重きを置く陽明学は朱子学左派ともいえ、陽明学右派は朱子学と大差がないとも言われています。

”物を正す”という態度は明らかに変革的であり、”新しきを知る”という創造的な態度、また哲学的・認識的な捉え方ですので、自らの認識によって善悪を解釈することが必要となります。
”物を考えよう、観察しよう”が一転すれば、非常に変革、革命的になりますし、社会生活、国家生活でいえば現在の如何にかかわらず、終始己れの良心に顧みて、自分の思索判断から現実を直ちになんとか処理してゆこう、変革してゆこうという態度になりますね。
この解釈が行き過ぎると、現在の有様は必ずしも正しいとは言えないので、間違っているならこれを力ずくでも正して行かなければならない、という極めて極論的な考えを持つ傾向が出てきます。

これは支配階級からいえば、非常に都合が悪く危なくてしようがない考え方ですね。
自分たちのしていることを直ぐには受け入れないで、自分で考えて、こうしなければならぬということになると、どこまでもそれを通す主義となるので、自然と陽明学は日本では必ず遠ざけられてきました。
これは”物を格(ただ)す”の”格”の読み方で直ぐに分かることです。
それだけに、朱子学と陽明学どちらが生き生きしてくるかと言えば陽明学の方が生き生きしてくる訳ですし、逆に間違えやすい解釈や右寄りの捉え方にも陥りやすい訳です。
ですので陽明学というものは、上っ面の様相だけをとらえて分かった気になるのではなく、その真意と神髄をきちんと理解した上で大いに洗練警戒を要する必要があるのです。

こうした思想が凝縮された王陽明(王守仁)の著作”伝習録”については、改めてじっくりと整理してみたいと思います。
ちなみに”伝習”という言葉ですが、これは”論語”学而の”伝不習乎”に初出していて、古注では”習はざるを伝ふるか”と、朱注では”伝へて習はざるか”と訓まれているところから来ているようです。
漢字の”習”とは雛鳥が飛び方を学んでいることをいい、それを人がまねて、曰の形の台の上で羽を擦って、何事かに集中する呪能行為のことをいうとのことです。

日本における陽明学について、少し触れておきましょう。

【日本陽明学】

陽明学は中国では廃れていきますが、王陽明の学問は日本へと渡り、日本陽明学として大成しておきます。
日本の何がそれを受け容れたのかは単純に整理できるものではありませんが、その思想・学問・考え方が、武士道や神道、仏教、禅、果ては明治キリスト教と習合しながら発展していったと思われます。
あらゆるものを習合しながらその大事なエッセンスをうまく取り入れていくのは、日本人特有の優れた感性と特質ですが、それが陽明学においてもうまく生かされてきた訳です。

そうはいっても、おそらく大半の方の中では「三島由紀夫って、陽明学に傾倒して最終的に自決したんでしょ」ぐらいの認識しかないはずです。
三島由紀夫については、陽明学の本質を理解していたのかも定かではなく、市ケ谷で自決した年に発売された”行動学入門”を読んでも、大塩平八郎や西郷隆盛などを例にしながら”殺身成仁”(身を殺しても仁を成す)の能動的ニヒリズムを、”革命哲学としての陽明学”といった捉え方で表現している程度で、幾分偏った理解の仕方であったのだろうと推測される訳です。
このように、日本に伝わった陽明学は王陽明の意図に反して反体制的な理論ばかりがクローズアップされてきているため、体制を反発する者や、自己の正義感に囚われて革命運動に呈する者に好まれてきた傾向にあります。
心即理の状態に無いのに、己の私欲や執着を良知と勘違いし、妄念や執念を心の叫びと混同して行動に移してしまうと、理念もなく体制に反発することばかりに意義を感じる革新志向になりやすい傾向にある訳です。
ですので、幕末期の儒家・備中松山藩の山田方谷もこうした危険性を憂慮し、朱子学を十分に理解した上で、朱子学と陽明学を相対化して理解が出来る門人にしか陽明学を教授しなかったそうです。
山田方谷は、そんな陽明学をよく理解していた訳ですが、その思想・学問を元に、瀕死の藩財政を見事建て直しています。

また、大塩平八郎の乱で有名な大塩平八郎は、山田方谷と共に佐藤一斎が塾頭をしていた昌平黌で学んでいます。
陽朱陰王と呼ばれた佐藤一斎ですが、儒官としての立場上朱子学を奉じてはいたものの、陽明学の思想が練り込まれている””言志四録”という著作を書き上げています。
”言志四録”の本質は、
”問題が複雑になればなるほど、困難になればなるほど、精神的なものを除いては解決がつかない。
政治的な問題も、社会的な問題も、つきつめれば心の問題に帰する。
雑然たる知識や、ただの物識り・博識というものでは本当の生命に一致しない。”
というもの。
これは幕末の志士と言われる吉田松陰、高杉晋作、西郷隆盛、河井継之助といったところに大きく影響を与えたとも言われています。
※)吉田松陰を始めとして、一通り整理している内容については、以下の頁中段あたりを参考にしてみてください。
  知命立命 心地よい風景 目次

もっとも、日本陽明学の全盛期は幕末よりも明治維新以降だったようで、前出の幕末陽明学の再興の動きが、欧化政策の反動として高揚したナショナリズムや武士道見直しの動きと結びつき、明治後期から大正時代にかけてピークを迎えたと見られています。
当時の陽明学は、日本国民の精神修養の一環として死生を逸脱した純粋な心情と行動力とを陶冶する実践倫理として説かれる傾向が強かったようです。
従って、この端的なものが三島事件などにも見られ、日本では未だに右寄りな”革命哲学としての陽明学”として認知されてしまっているのではないかと思われます。

しかし”言志四録”の本質にもあるように、他人に対する自己ばかりを追い求め、本当の自分を見出せない人が多い今においてこそ、陽明学の心の学問・実践の哲学は大いに啓蒙されるべきであると思うのです。
今の日本に大事なことは、心の内面に問いかけるような本質的な学問・修養を養うことにあるはずです。
真の学問・修養を養えば、必ず心の内面と共に外へと発揮発奮する志を抱くに違いありません。
勿論、陽明学にばかり傾倒せずとも、真剣熱烈な誠の学者や教育家、宗教家、役人、政治家等が一人でも多く輩出されていくことこそ、日本を救う一番の道であるはずです。

最後に、朱子学と陽明学の対比を少しだけ行ってみましょう。

【朱子学と陽明学の対比】

陽明学は心学とも言われます。
心学とは、真の心に尋ねゆき、そして自らをその心に従って正すことなのです。
自らが自らの本来の心、全てに通ずる良知へと至り、そしてそれを致すことです。
常を尋ねるとはそこに安んずることであり、安んずるとは単に止まることではなく、無の境地・寂然として動かざる者へと至ることにあり、これは禅にも通じる考え方です。
これは、何か特別なる功夫を要すものではなく、平常心これ道に従い、只々己の心を一にすることに徹する尋常の覚悟、これが一番の本質・本義なのです。
というわけで、陽明は”虚禅”を排しながらも、一方で”行動する禅”を標榜したかったと見る向きもあるようです。
このような中国的な心学を歴史上最初に確立したのは禅が最初です。
いずれ禅についてもじっくりと整理してみたいと思います。

そもそも朱子学は、心学が一心万法を解いて、迷悟消沈の一切を心法とすべきとなると経学の権威は下降するばかりです。
経学により一様の心を確保するという観点からいうと、禅の唱える”心の安定のレベルはまちまちで、もしその心を取り出して並べれば、なんら一貫性も同質性もない”という教えはとんでもないことです。
朱子はこんなことでは”大学”にいう”明徳・新民・止至善”にもとづく”誠意・正心・修身・斉家・治国・平天下”は望めず、禅のように各自の禅定に頼れば修身はともかくも、斉家・治国・平天下もバラバラになっていくと考えたのです。
中国宗教史上でも特異なことなのですが、こうしたことから禅が批判され、朱子学者たちが口をきわめて禅を罵っていくことになりました。

朱子学と陽明学の違いと言うのは、
・朱子学は理論一辺倒なのに対して、
・陽明学は、理論を実践行動しなければ人の心を洞察することは出来ない
と言う点にあります。
自分の心に一転の曇りややましい気持ちがあったら、相手の心を洞察することは出来ません。
いくら学問を学んで頭に詰め込んでも、知識や知恵を蓄えても、知っただけでは何も成らないのです。
その学んだ知識や知恵を実践行動し、心に感じ取らせ、気付き、経験を積むことで、物事の本質が理解できると言っているのが、陽明学なのです。

朱子学と陽明学の二つに共通して、しかも鋭く対比されるのは、何にどのように”格る”(いたる)かということです。
朱子学は外に向かって窮理に格ろうとし、陽明学は内に及んで心幅に格ろうとしました。
しかも陽明学はそこに知行合一があるのだから、その内に向かったものが外での行為とはる訳です。
日本陽明学に顕著に出た特徴というのが、内に向かった良知を外で表す表し方が極端に振れる傾向にあることです。
格るところがあまりに内奥と外延の両極に分かれているため、そこを大きく振れる中で過剰な熱や発火を伴う事象が生じがちで、熱狂的な精神的行動主義に転じる可能性を持ち合わせているということにもなります。

しかし、理想や志の無い魂は、現実を省みず世を壊すばかりで単なる形骸でしかありません。
王陽明の知行合一と心即理そして致良知の思想は、まさに現実から逃げずに自己の軸をブラさないものであり、世と共に発展を遂げる思想のひとつになりえるものと私は思います。
自己を見失いがちな現代であるからこそ、人々の心に一石を投じる学問・思想として、陽明学の本質がもっといろんな人の心に染み入っていけばいいですね。

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