紫式部の著した『源氏物語』は、100万文字・22万文節・54帖(400字詰め原稿用紙で約2400枚)から成り、70年余りの時間の中でおよそ500名近くの人物の出来事が描かれた長編で、800首弱の和歌を含む平安時代中期に成立した典型的な長編王朝物語です。
物語としての虚構の秀逸、心理描写の巧みさ、筋立ての巧緻、あるいはその文章の美と美意識の鋭さなどから、しばしば「古典の中の古典」と称賛され、日本文学史上最高の傑作とされています。
物語は、母系制が色濃い平安朝中期(概ね10世紀頃)を舞台に、天皇の親王として出生し、才能・容姿ともにめぐまれながら臣籍降下して源氏姓となった光源氏の栄華と苦悩の人生、およびその子孫らの人生が描かれているのです。
そんな前回までは序章ともいえる「桐壺」の物語でした。
【源氏物語】 (壱) 第一部 はじめ
【源氏物語】 (弐) 桐壺 第一章 光る源氏前史の物語
【源氏物語】 (参) 桐壺 第二章 父帝悲秋の物語
【源氏物語】 (肆) 桐壺 第三章 光る源氏の物語
そして、続く「帚木」の間には、源氏13-17歳の空白部分があります。
この空白期間は、この期間を描いた「輝く日の宮」という巻があったとする説もあるのですが、現在には残っていないため、それも何ともいえません。
この期間、父の女御である藤壺と情を通じ、六条御息所と契ったり、また朝顔の斎院に文を送ったりと、今後の展開の前段となる物語があったとさえています。
今回は、そんな『源氏物語』がどのような歴史を経て現代まで受け継がれてきたのか、少し触れてみたいと思います。
『源氏物語』は、3部構成説(第1部:「桐壺」から「藤裏葉」までの33帖、第2部:「若菜上」から「幻」までの8帖、第3部:「匂宮」から「夢浮橋」までの13帖)が定説となっていますが、その成立・生成・作者・原形態に関しては古くから様々な議論がなされてきました。
そもそも紫式部によって、『源氏物語』が「いつ頃」、「どのくらいの期間かけて」執筆されたのかを明らかにするような史料は存在していません。
紫式部日記には、寛弘5年(1008年)に源氏物語と思われる物語の冊子作りが行われたとの記述があり、その頃には源氏物語のそれなりの部分が完成していたと考えられますし、安藤為章は『紫家七論』(元禄16年(1703年)成立)において、「源氏物語は紫式部が寡婦となってから出仕するまでの3、4年の間に大部分が書き上げられた」とする見解を示していました。
また、前半部分の諸巻と後半部分の諸巻との間に明らかな筆致の違いが存在することを考えると、執筆期間はある程度の長期にわたると考えるべきであるとする説や、結婚前、父に従って越前国に赴いていた時期に書き始められたとする説や作中の出来事が当時の実際に起きたさまざまな事実を反映しており最終的な完成時期をかなり引き下げる説も唱えられています。
さらには、数百人にも及ぶ登場人物が織りなす長編物語が矛盾無く描かれているのは短期間に一気に書き上げられたからであると考えるべきであるとする説もあり、実際には定かではない、というのが定説となっています。
また巻数についてですが、『源氏物語』は一般に54帖であるとされているものの、54帖の中でも「雲隠」は題のみで本文が伝存しなかったり、「雲隠」を含む37巻と「並び」18巻とに分けたり、並びの巻を含めない37巻という数え方が存在したり、宇治十帖全体を一巻に数えて全体を28巻とする数え方をしたりしています。
また、現在は存在しないいくつかの「失われた巻々」が存在したとする説があり、そもそも、最初から54帖であったかどうかというそのこと自体がはっきりしていない、というのが事実なのです。
現行の本文では、
・光源氏と藤壺が最初に関係した場面
・六条御息所との馴れ初め
・朝顔の斎院が初めて登場する場面
に相当する部分が存在していません。
しかも、位置的には「桐壺」と「帚木」の間にこれらの内容があってしかるべきであるとされており、藤原定家の記した「奥入」にはこの位置に「輝く日の宮」という帖がかつてはあったとする説が紹介されていたりもする訳です。
なお、「輝く日の宮」については、
・もともとそのような帖はなく作者は1-3のような描写をあえて省略した
・「輝く日の宮」は存在したがある時期から失われた
・一度は「輝く日の宮」が書かれたが、ある時期に作者の意向もしくは作者の近辺にいた人物と作者の協議によって削除された
・「輝く日の宮」は「桐壺」の巻の別名である
※)「輝く日の宮」が別個にあるのではなく、それは現在の「桐壺」巻の第3段である藤壺物語を指し、「輝く日の宮」を「桐壺」巻から分離し第2巻とし、これを本の巻とし、「空蝉」巻を包含した形の「帚木」巻と「夕顔」巻とをそれぞれ並一・並二として扱う意味であるというもの。
といった説も登場するぐらいです。
更には、故実書の一つ『白造紙』に含まれる「源氏物語巻名目録」に、「サクヒト」、「サムシロ」、「スモリ」といった巻名が、また、藤原為氏の書写と伝えられる源氏物語古系図に、「法の師」、「巣守」、「桜人」、「ひわりこ」といった巻名がみえるなど、古注や古系図の中にはしばしば現在みられない巻名や人名がみえるため、「輝く日の宮」のような失われた巻が他にもあるとする説まであるのです。
また、『無名草子』や『今鏡』、『源氏一品経』、『光源氏物語本事』のように、古い時代の資料に『源氏物語』を60巻であるとする文献がいくつか存在しています。
この「『源氏物語』が全部で60巻からなる」という伝承は、「源氏物語は実は60帖からなり、一般に流布している54帖の他に秘伝として伝えられ、許された者のみが読むことが出来る6帖が存在する」といった形で一部の古注釈に伝えられています。
源氏物語の注釈書においても、一般的な注釈を記した「水原抄」に対して秘伝を記した「原中最秘抄」が別に存在するといった例もあるため、「源氏物語本文そのものについてもそのようなことがあったのだろう」と考えられたり、『源氏物語』の代表的な補作である「雲隠六帖」が6巻からなるのも、もとからあった54帖にこの6帖を加えて全60巻になるようにするためだと考えられたりもしているのです。
現存しながらも、いろいろな謎を持ったままの『源氏物語』ですが、その神秘性と併せ、今後もお話しを続けていきたいと思います。