墨子より学ぶ!一切の差別が無い博愛主義、兼愛交利!

『墨子』の著者は中国春秋末期戦国時代の思想家墨翟とされ、一切の差別が無い博愛主義(兼愛)を説いて全国を遊説した人物で、墨子として知られています。
いわゆる墨子十大主張を主に説いたことで世に知られており、その思想活動の目的は、天下の飢餓や凍死から人民を救済し、諸侯の憂いを救うことにありました。

その後も墨家は「天下の顕学」として巨大な勢力を誇り続けましたが、それというのも墨家が他の学派と異なり、専守という防衛専門の形ながらも戦闘集団であったということです。
当時は儒教と並ぶほどの勢力となっていたそうですが、国の統一が進むにつれてその存在自体が不要となり、秦の時代に焚書に端を発する撲滅などで墨家は歴史上から姿を消し、その学統を継ぐ者も現れず廃れたといわれています。
一説には、墨家の特性から思想を捨てるよりも生命を捨てることを選択したのではないかと考えられているそうです。

そんな『墨子』ですが、墨家の始祖である墨翟と門人の言行録として当初は61篇でしたが、やがて8篇が亡失し、15巻53篇76,516字が現存するものとなっております。
墨子の理想主義的な思想は、兼愛、非攻、節用・節葬、尚賢・尚同、天志・明鬼、非楽・非命など、所謂「十論」で知られています。
この思想は一言で言えば博愛主義であり、「兼愛交利」とも呼ばれています。
天下の利益は平等より生まれ、不利益は差別より生じる、というものであり、孔子の説く「仁」は長子のみを特別扱いする差別であると批難し、互いの利益を尊重し平等に愛するべきであるとしました。
階級や血縁を超えて有能な人材を登用すべしという主張も、兼愛の平等主義につながるものです。
さらに形式的で豪華な礼楽や葬式についても、戦争と同様、支配階級のエゴにもとづくものであるとして、それらを廃する「非楽」や「節葬」を唱えました。

そしてもう一点、重要な思想として「非攻」があります。
兼愛にもとづき非戦を唱えた上で、口だけではなく実際に侵略を企てる国を説得したり、侵略を受ける国の防御に参加することまで行い、結果防御のための戦いはやむを得ないとした解釈です。
絶対に守り抜くという意味を表す「墨守」という言葉からもわかるように、墨家は防御戦に関する豊富な経験や知識を保持しており、その戦いぶりも優れたものであったようです。
つまり墨家集団の経済的基盤は、この能力を生かした弱小国の防衛戦請負業であったといわれています。

【墨子「十論」の骨子】
・「兼愛」自他ともに愛せと教える。相手を愛するときは自分を愛するのと同じようにせよ、ということ。
・「非攻」侵略戦争を否定する超積極的平和主義。すべての攻撃を否定し、攻撃を受けた街は墨子教団が防衛するということ。
・「節用」「節葬」節約を唱える。支配層の華美を廃し、資源の浪費を避け、実用品の生産を増やし、民に行きわたらせること。
・「節葬」支配者層が富を地中に埋め、資源を浪費することを戒める。苦労して生産した富は生きているものに使うべきということ。
・「尚賢」能力主義を唱える 執政者は賢者を尊び、有能なものを任用すること。
・「尚同」主義主張が異なっているから、互いに争うため、統治者に従えと教えること。
・「天志」「明鬼」天帝や鬼神への信仰を勧める。天の意思に逆らう(支配)者には天譴があるということ。
・「明鬼」天志が支配者層への天譴を説くものであるのに対し、明鬼は個人的犯罪には必ず罰が下るという因果応報説を説くこと。
・「非楽」贅沢としての音楽を否定する。支配者層は贅沢な音楽を楽しむのを止め、生産的なことに労働力を割り振れということ。
・「非命」宿命を否定する。天から与えられる使命はあっても天に定められた運命はない。勤勉により状況は常に変えられるということ。

[amazonjs asin=”4480094903″ locale=”JP” title=”墨子 (ちくま学芸文庫)”]

以下参考までに、現代語訳にて一部抜粋です。

【尚賢上第八】
墨子曰く「諸侯や卿・大夫は誰もが国家が富裕となり、人口が増加し、治安が保たれるように願っているのに、実際はそうなっていない。その原因はなんであろうか。
この原因は、諸侯・卿・大夫が賢者を尊び、有能な者を登用することを政治方針としないからである。賢良の士が多ければ、国家の安定度は増すのである」と。
弟子曰く「賢者を増やす方法は、どのようにすればいいのでしょうか」と。
墨子曰く「統治者が弓射や戦車操縦に巧みな戦士を増やそうと願うことと全く同じである。そのような戦士に多額の俸禄を与え、地位を高くし、鄭重に尊敬し、名誉を与えようとするであろう。賢良の士も同じである。
古代の聖王は、不義の者は富まさない、地位を高くしない、親愛しない、側近にしないと宣言した。これを聞いた富貴の人々は、家に帰って相談し、義を実行しないわけにはいかないと語り合い、親族たちも国都の住民も同様に語り合ったのである。そのため王の宣言を聞くや、皆が競争して義を実行するようになったのである。その原因は何であろうか。それは為政者の人民を用いる方策が、義の一点に限定されているからである」と。
・尚賢論は「王公・大人・政を国家に為す者」のみ説得対象にしぼっています。
・賢者はつねにその国家内部の人間に限定しています。
・尚賢論でいう「賢者」とは、天賦の才能に恵まれた人材でなく、統治者の決定した価値基準に従って努力する者すべてを指します。よって墨子の論は、国家の方針に従順な良民を作るという点においては、法家思想とつながるものがあります。

古代の聖人は能力ある人物を臣下の列に加えて、賢者を尊びました。たとえ農耕や工業・商業に従事する人々であっても抜擢しました。登用すると、高い爵位を与え、多額の俸給を与えました。
爵位・俸禄・官職発布の三者を賢者に授けるのは、個人に贈与しようとするためではなく、あくまで彼が委任された事業が成功するよう願うからなのです。だから賢者の任用に際しては、能力の程度に応じて選び、いつまでも高い地位に居座りつづけることはなく、また終生低い身分に留まり続けることがないようにしました。
古代にあっては、堯は服沢の北に埋もれていた舜を見つけ出し、禹は陰方の地にくすぶっていた益を抜擢し、湯は伊尹を料理番の身分から拾い上げ、文王は猟師や漁師の閎夭と泰顚を登用しました。したがって古代聖人の時代には、高位高官の臣下であっても、任務の遂行に心血を注ぎ、失敗して解任される事態をおそれて、義に移らない者はいませんでした。
・価値基準が統一され、日常生活の末端まで統制した社会が実現すれば、国家は富み、人口が増え、治安が保たれると論を発展させます。
・儒家は賢者みずからが直接労働に従事しないとしていますが、墨子は末端の庶民からの積み上げを必要とします。そのため墨子は卑近に過ぎる一方、儒家のややもすれば賢者が治めさえすれば万事うまく運ぶという抽象的な理論に陥る危険性から逃れています。

【尚同上 第十一】
墨子曰く「太古の時代、人民は各人それぞれの義を正しい道として考えていたので、天下は乱れ、まるで野獣の世界のようであった。そこで世界中から賢者を選び出し、その人物を天子に立てたのである。天子を立てたが自分ひとりの力だけでは不足と考え、三公を選び出し、また諸侯を封建し、郷長や里長に任命した。
天子は人民に政令を布告して、統治者が是とすることは全員それを是とし、統治者が非とすることは全員それを非とせよ。統治者に過失があればそれを諌め、人民の間に善行の人物がいれば推薦するように、と。
ただし、天下の人民が天子の価値観に同調しても、さらに天の価値基準に対して同化しなければ、天の災害は消え去らない。烈風や大雨があるのは、天が自己の価値基準に同化しない人民を窮しようとしているのである」と。
・各統治者(天子・三公・諸侯・郷長・里長)はそれぞれ設定した義に従うよう配下に命じており、天子の一元的専制国家を説いたのではありません。
・天子の専制を防ぐために墨子は、天子は天(上帝)に対する尚同をしなければならないと説いています。
・墨子は太古の時代は野獣の世界であったとし、他の諸子の下降史観(太古は素朴、平安な理想社会であったが、時代が降るにつれ険悪になったとする説)とは大きくことなります。
・野獣の世界に尚同を導入しなければならないとする考え方は、人の本性を悪として後天的教化を説く荀子や法家と近似した性格を持ちます。
・社会秩序の根底を「個人的賢智によって選ばれた者」に帰化している点で、徳治主義を根本としているので、法家とは一線を画しています。

【兼愛上 第十四】
混乱の原因を考えてみると、それは相互に愛し合わないことから発生しています。臣下や息子が君主や父親に孝でないのが、混乱のひとつです。また父親が息子を慈まず、君主が臣下を慈しまないという場合も、混乱のひとつです。
世間で盗賊を働く者も、我が家だけを愛して、他人の家を愛そうとしないから、他人の家から盗んで、それを我が家に利益をもたらそうとします。賊人も我が身だけを愛して他人を愛さないので、他人から奪って我が身に利益をもたらそうとします。大夫が互いに相手の家を混乱させ、諸侯が互いに相手の国を攻撃するのも、これと同様です。
世界中のあらゆる種類の混乱は、いずれも互いに愛し合わないことが原因です。
・天下の混乱を①父子の反目②兄弟の不和③君臣の対立④窃盗⑤追剥⑥貴族間の勢力争い⑦国家間の戦争の7種類が原因であるとし、それは互いに愛し合わないからだとしています。

もし世界中の人々に自己と他者とを区別せずに愛し、他人を愛することまるで我が身を愛するかのようにしたなら、それでもなお孝でない者がいるであろうか。そうなれば国家と国家は互いに攻伐せず、家門と家門は互いにかき乱さず、盗賊もいなくなり、君主と臣下や父と子の間も、すべて孝慈の関係で結ばれるであろう。このようであれば、間違いなく世界中が安定します。
・天下の混乱をなくす方法は「自己と他者とを区別せずに兼ね愛させる」(兼愛)です。
・他者と犠牲にして自利を獲得することを禁じています、(拒利)

【非攻上 第十七】
今ここに1人の男がいて、他人の果樹園に忍び込み、桃や李を盗んだとしましょう。民衆がそれを知ったならば、それを悪だと非難するでしょうし、統治者がその男を逮捕したなら、処罰するでしょう。それはどうしてでしょうか。他人に損害を与えて自己の利益を得たからです。
他人の犬や鶏や豚を盗む者は、桃や李を盗む者よりも、その不義は一層甚だしい。これはなぜでしょうか。他人に損害を与える程度が、さらに大きいからです。
他人の馬や牛を奪い取る者は、犬や鶏や豚を盗む者よりも、その不義・不仁はさらに甚だしい。これはなぜでしょうか。他人に損害を与える程度が、ますます大きいからです。およそ他者に損害を及ぼす程度が多くなるにつれ、その行為が不仁である度合もますます増大し、その罪もいよいよ重くなるのです。
何の罪もない人間を殺害して、着ていた衣服を剥ぎ取り、所持していた戈や剣を奪い去る者に至っては、馬や牛を奪い取る者より、その不義・不仁はさらに甚だしい。これはなぜでしょうか。他人に損害を与える程度が、ますます大きいからです。
ところが今、大規模な不義を働いて、他国を攻撃するに至っては、だれもその行為を非難することを知りません。攻伐を称賛し、その行為を正義の戦いなどと評価しています。
1人の人間を殺害すれば、社会はその行為を不義と判定し、必ず死刑に処します。こうした殺人罪に関しては天下の君子たちの誰もがこれを非難すべきことと認識し、これを不正義だと判断しています。ところが今、大掛かりな不義を働いて他国を侵略するに至っては、一向に非難すべきことを知りません。侵略を褒め称えては、義戦などと美化しています。つまり彼らは、実際に侵略戦争が不義であることを認識していないのです。
今ここに人がいるとしましょう。その人間が少量の黒色を見たとき黒だといい、多量の黒色を見たときには白だと言えば、人々はその人間を白と黒の識別すらつかぬ者だと判定するでしょう。あるいは、苦いものを少し嘗めては苦いといい、苦いものを大量に嘗めては甘かったなどといえば、だれもがこの人間を甘い苦いの弁別さえできぬ者だと判定するでしょう。
今の君子たちは、小規模な悪事は犯罪だと認識して非難しておきながら、大規模な悪事を働いて他国に侵攻すれば、それを褒め上げ、これぞ正義だと吹聴しています。これでは、はたして正義と不義との区別を知覚しているなどと言い張れるでしょうか。
・非攻論は他国への攻撃、侵略を非難する主張です。
・戦争によってその勢力を拡大できる諸侯・卿・大夫・士の身分からすれば、墨子の論は、明快に本質をついているとはいえ、現実的説得力を持つことができませんでした。
・墨子の文章は、実用を尊んで、質素倹約を旨とするため、噛んで含めるように徹底的に説明しているので、いかにも頭の悪い読者扱いをされた気がして、読む側はあまりのくどさに、つい興ざめしてしまいます。それが近代以前には読者を惹きつけることができなかったひとつの原因とされています。

【非攻下 第十九】
今の君主や諸侯は誰もが精鋭舞台をえりすぐり、水軍や戦車部隊を整え、兵士に堅牢な甲冑や鋭利な武器を装備させ、罪のない国に侵攻します。まず国境一帯に侵入して耕地の農作物を刈り取り、集落の樹木を切り倒し、都邑の城壁を破壊して周囲の堀を埋め尽くします。家畜を奪っては殺し、祖廟を焼き払います。指揮官は命令に忠実に戦死した者を軍功一番、敵を多数殺した者を軍功二番、奮戦して負傷した者は軍功最下位とし、まして隊列を離れて敗走した者は即刻死刑とします。このように他国を併合し、軍隊を殲滅し、万民を殺戮して古代の聖人たちが樹立してくれた秩序を平気で破壊しているのです。
考えてみるに、彼らはこうした手段で、天の利益になることをしようと思っているのでしょうか。彼らは多くの国家歴代の王の祭祀を廃絶させ、多くの男たちを殺戮し、生き残った女・子供・老人を離散させています。さらに攻戦のための軍費は、民生の根本に損害を与えています。どう見てもこうした所業は、下の人間の利益に叶ったりはしません。
もし君主が他国への侵攻作戦を実施しようとするなら、国民も人民も本業一切を放棄する結果に陥ります。試しに考察してみましょう。まず国内で侵攻軍を編成しようとすれば、指揮官は数百人、軍吏の数は数千人、歩兵の数は十万人にも達するでしょう。そして長期戦になれば数年間、短期に終了しても数ヶ月の間、軍は解散されない。こうなると為政者は内政に気を配る時間的余裕がなく、官僚は国家財政を充実させる余裕がなく、農民は農業に精を出す余裕がありません。その上、遠征途上で食糧補給がままならず死ぬ者は数え切れません。こうした結果世界中が甚大な損害を被ると言わなければなりません。
・侵略された国の惨状と、侵略国側の民の惨苦を克明に描写した稀有な記録です。

【節用上 第二十】
聖人の政治が利益を倍増できるのは、決して自国の外部に領土を拡大するからではありません。自国に依拠しながら国内で無益な浪費を取り除いていけば、それで十分に利益を倍増できるのです。そこで貨財を無駄に消費せず、民衆の生産能力を疲弊させずに、新しく各分野で利益を興せるのです。
いったい衣服は何の目的で作るのでしょうか。冬はそれで寒さを防ぎ、夏はそれで暑さを凌ぐためです。だから聖人は華美で実用的利便を増加させない衣服はこれを排除します。
そもそも住居を建築するのは何の目的でしょうか。冬はそれで風や寒さを防ぎ、夏はそれで暑さや雨を防ぎ、盗賊が来た時には、侵入できないようにするためです。だから聖人は華美で実利を増さない住居はこれを除去します。
そもそも兵器を製造するのは何の目的でしょうか。それで敵兵や無頼の徒や盗賊を防ぐためです。そのため聖人は華美で実利を増さない武器は、これを排除します。
いったい舟や車を製造するのは何の目的でしょうか。それで丘や野を越え、河川や渓谷を進み広く四方と通商の利益を交わらすためです。そのため聖人は華美で実利を増さない舟や車はこれを排除します。
だからこそ、それらの製作に使用する財貨を浪費せず、それらの製造に使役する人民の生産能力も疲労させずに、広く新たな利益を興せるのです。さらにまた、為政者が道楽で真珠や宝石、珍奇な鳥獣や猟犬・駿馬などを収集することを止め、その費用で実用的な衣服や住居、武器、舟や車の数を増そうとすれば、以前に倍増させることすら決してできない相談ではありません。
それでは何を倍増させることが困難なのでしょうか。ただ人民の数だけが、倍増させがたいのです。そうは言っても人口ですら倍増可能な方法がないわけではありません。古代では男子は20歳までに分家・妻帯し、女子は15歳までに嫁ぐことになっていましたが、今はそうではありません。そこで早婚のものと晩婚の者とを平均すれば30歳で分家・妻帯することになり、ちょうど10年遅いことになります。もし妻が丸三年ごとに妊娠すれば、2、3人の子供を余計に出産することができます。これこそ国家の人口を倍増できる方策ではないでしょうか。
また今の統治者達は、人口を減少させる原因となる政策を数多く実施しています。為政者は人民を過度に使役し、重税を課すため、凍死したり餓死したりする者は膨大な数にのぼります。さらに兵を挙げては戦争をし、戦死したり、発病して死に至る者も実に夥しい数にのぼります。
こうしてみると、人口減少の原因は、それをもたらす必然的方策の結果として生じているのではないでしょうか。
・国家は他国の併合を手段とする富の倍増をしないことを大前提としています。
・富の倍増とは無用な消費の節約による実用的富の増産です。
・墨子の国富論は、富の絶対量拡大よりは、いわゆる消極的経済政策です。
・墨子の国富論は、直接富の生産には関与せず、文辞・儀礼による美化・装飾を稼業とする儒家への攻撃となりました。
・富の総量は、人類全ての生存を保障できるかどうか危ぶまれるほど絶対的に不足していると考えています。

【節葬下 第二十五】
墨子曰く「しばらく試みに厚葬、久喪の是非・利害について考えてみよう。王公・大人の葬儀は、棺を幾重にも重ね、死者を覆う衣服も何重にも重ね、墳丘は巨大なものにする。一般庶民が死んだ場合は、ほとんど家財を使い果たすであろう。
諸侯が死んだ場合、黄金や珠玉で飾り、戦車や馬を坑に埋める。また使っていた品物を整えて墓室の床に並べる。まるで王宮がそっくり移転するかのようである。天子の葬儀には殉死者も出る。
喪は食物、衣服も粗末なものとし、3年間死者にわが身を捧げる。これを行ったなら政務を執ったり、官僚組織を指揮したりすることができなくなるであろう。農夫に久喪を行わせたならば、農耕に精を出すことができなくなるであろう。このように厚葬の利害・得失を計ってみると、厚葬は人民に割当てて生産させた財貨を、むざむざ地中に埋めるものである。また久喪の利害・得失を計ってみると、人々が長期間仕事に戻れないようにするものである。
こんなやり方で富を得ようと願うのは、耕作を禁じておいて収穫を要求するようなものである。
政治が放棄され、生産力が低下し、悪事を働くものが増え、他国に攻められ、人口は減少するであろう。
よって古代の聖人たちは、次のように埋葬の規範を制定された。棺は、中で死体が朽ち果てるまでもてばそれで十分である。死体を包む衣服は三重にとどめ、死体が腐乱する醜悪さを覆い隠せれば、十分である。埋葬は、深さは地下水に達しない程度、上の盛り土は死臭が地上に漏れない程度にとどめる。死者の埋葬がすっかり完了したなら、長期間喪に服することなく、すみやかに勤労に従事せよ。これが聖人が定めた埋葬の規範である」と。
・絶対量の少ない富は、死者に対してではなく生者に対して有効に使用されるべきであるとします。
・この厚葬、久喪の問題は、春秋時代から墨家と儒家との大きな争点となっていました。
・しかし死者を悼む真心に乏しい思想とか、思想の根本が伝わらずただ儒家との論争のために節葬を訴えたと捉えられてしまいました。

【天志上 第二十六】
墨子曰く「今の君子たちは小さなことは理解できるが、大きなことは理解できない」と言われた。どうしてそれが分かるのでしょうか。家庭内で罪を犯しても、まだ隣の家という逃げ込んで罪を逃れる場所があります。しかし、その不始末はたちまち世間に知れ渡るので、やはり自戒しなければなりません。国家に身を置く者の場合でも、まだ隣国という逃げ場所があります。しかし、その不始末はたちまち誰もが知ることになるので、やはり自戒しなければなりません。
このように逃げる場合がある者ですら、周囲に警戒しあっています。まして逃げる場所のない者は、いよいよその思いが念入りであって当然ではありませんか。天はかならずその犯罪行為を見つめておられるのです。それなのに天下の君子たちは、こうした天の監視に対してぼんやりしたまま一向に警戒しあうことを知りません。これこそ小さな範囲のことは自覚できても、大きな範囲のことは自覚できないでいるということなのです。
それでは天は、いったい何を望まれ、何を憎まれているのでしょうか。天は、人間に正義の行いを望まれ、不義の行いを憎悪されるのであります。われわれが天の望まれることをすれば、天もまた我々が願うことをしてくださります。
ではわれわれは何を願い何を嫌っているのでしょうか。家族が繁栄し生活物資に恵まれることを望み、災いやたたりが降ることを嫌います。
しかも義は本来、人々を正しい方向に矯正することです。必ず上位者から下位者に向かって、義を正すのです。天子は世界中で最も高貴な身分の人間であり、この上なく富裕な人間であるが、その天子ですら天に福を祈るのです。だから、富裕や高貴の地位を得たいと望む者は、天の意志に従順でなければなりません。そして天意に従順な者は自己と他者とを同等に愛し合い、互いに他者に利益を与え合う結果、必ず天から賞を受けます。一方、天意に逆らう者は自己と他者とを分け隔てて憎み合い、互いに他者を損ない合った挙句、きまって天罰を受けます。
古代の夏・殷・周三代の聖王である禹王・湯王・文王・武王たちこそ、まさしく天意に服従した人物であり、三代の暴虐な王、桀王・紂王・幽王・厲王たちこそ、まさしく天意に反逆して罰を受けた人物です。
それでは、どうして天が世界中の人々を愛されていると分かるのでしょうか。それは天が世界中の人間をあまねく照らしていることで明らかです。ではどうして天は世界中の人間を照らしていると分かるのでしょうか。それは天が人間を保全しようとしているからです。ではどうして天が人間を保全しようとしているのが分かるのでしょうか。それは天が全ての人間を養育している事実によって明らかです。ではどうして天が人間を養育しているのが分かるのでしょうか。それはお供え物を捧げて上帝と鬼神を祭祀しない者は1人もいないからです。天はどうしてその人間たちを愛さないことがありましょうか。
現在、天下には各人の著述は、牛車に積載しきれないほど膨大です。また彼らが口にする主義・主張もいちいち数え切れないほどに多いのです。しかし、彼らの説は仁義からは、はるかにはずれています。それはなぜでしょうか。それは私だけが世界中で最も明確な判定基準、すなわち天の意志を備えていて、それで世界中の思想の善し悪しを判断するからです」と。
・墨子は絶対者として上帝を設定しているが、こうした王権神授思想は、当時では半ば常識でした。
・墨子は、当時の上帝信仰が薄らいで、上天の規制力が弱まってきたため、改めてこの説で上天のことを論じたのです。また、上帝の意志が墨子思想と全く合致することを示そうとしたのです。

【明鬼下 第三十一】
墨子曰く「古代の聖人たちが世を去ると、天下は混乱を極めた。こうした混乱が生じた原因は、どこにあるのだろうか。つきつめれば鬼神が実在するかしないかの分別に疑惑を持ち、鬼神が賢者に賞を与え悪人を処罰できる力を持つことを明瞭に認識できないでいるところに一切の原因があるのである」と。
現在、鬼神は実存しないと主張する者たちは、鬼神はもともと存在したりはしないのだと言います。そしてそれを広めて、天下の人の判断を迷わせています。そのせいで天下は混乱しているのです。そこで墨子先生はこう言われました。
「今の世の王公・大人・士君子が心の底から天下の利益を盛んにしようと願うのであれば、鬼神が実在するか否かの分別に対してこそ、真っ先に明察すべき問題として取り組まざるを得ないのではないだろうか。
今の世において、何かが存在するか否かを察知するための方法を挙げてみるならば、必ず多数の人々が自分の耳や目で直接知覚したことを、判定の基準としている。つまり、多くの人々がその声を聞き、その姿を見たとの実体験があれば、必ずそれは存在すると断定し、逆にその姿を見聞した者もなければ、存在しないと断定するのである」と。
しかし鬼神は実在しないとの立場を取る者は、次のように述べ立てます。この世に鬼神出没の現象を見聞したと称する者は数え切れぬほど多いが、どれも信憑性に乏しく鬼神の有無を立証するに及ばないと。しかし墨子先生は次のように答えられた。「かつて杜伯は無実の罪で宣王に死罪とされたが、そのとき、もし死者に知覚があるのならば、3年以内にそのことを知らしめようと言った。3年目のある日、杜伯は白木造りの戦車に乗って現れ、宣王を射殺し、これは王に従っていた者すべてが目撃していた。
また秦の繆公は宗廟で神を見て、19年の延命を賜ったという。
また無実の罪で殺された荘子儀は、その1年後、燕の祖廟に通ずる参道に現れ、簡公を撃ち殺した。これらの記録から判断するならば、鬼神が実在することは、もはや疑う余地がないであろう」と。
鬼神の実在を否定する者は、親の利益にはならず、孝行息子の妨げとなるだけではないかと批判します。これに対して墨子先生はこう言われました。
「鬼神の形態は、天界に住む鬼神、山岳や河川に住む鬼神があり、また人間が死後に変化して鬼神となる者がある。鬼神が実存するならば、鬼神への祭りは自分の父母や兄姉の霊魂を招き寄せて、飲食させたことを意味する。大変な利益ではあるまいか」と。
墨子先生は、重ねて次のように結論を出されました。今の世の王公・大人・士君子たちが、心の底から天下の利益を盛んにしたいと欲求するのであれば、鬼神が実在するとの命題に対しては、鬼神を尊重し、鬼神は実在すると言明していかなければなりません。それこそが聖王の定められた道なのです。
・明鬼論は、天志論と同じく、上天の意志を介入させて他国への侵略を中止させんとするところにありました。
・鬼神が個人的犯罪を監視していると信じれば、犯罪行為も終息し、社会治安が回復するであろうと説きます。
・先秦の思想界には、鬼神の実在を主張する系統、否定する系統が並存しており、全体的には前者の側が優勢でした。(墨子、管子、中庸)
・他の鬼神実在論は、鬼神と人間の心のあり方とを結合し、鬼神の形而上化や内面化を図る試みが盛んになったが、墨子は、鬼神はどこまでも人間の外部に存在し、外側から人間に賞罰や禍福を与える性格に留まってしまいました。

【非楽上 第三十二】
墨子曰く「仁者の行う事業とは、必ず天下の利益を振興し、天下の害悪を除去するよう努力するものである。よって事業が人々の利益になれば規範化し、人々の利益にならないようであれば即刻中止する。しかも自分の官能的快楽を満たすために、人民の衣食に必須の物資を消耗し収穫するような真似は、仁者は断じて行わないのである」と。
こうした官能的悦楽は、高尚な基準に照らして考えてみれば、古代の聖王の事跡に合致せず、卑近な基準に照らして得失を計れば、万民の利益に適合しません。よって墨子先生は、音楽に耽るのはいけない、と説かれたのです。
楽器の製造は、万民に重税を課して行われます。もし楽器の使用が、聖王が舟や車を製作することと同じ性格を持つのであれば、私もあえてそれを非難はしません。古代の聖王たちも同じように重い税を割当てて、舟や車を製造させました。しかし聖王はこれを万民の交通の便に役立てました。だからこそ万民は財貨を供出して、恨みに思わなかったのです。結局、利益が民衆自身に還元されたからなのです。
そこで楽器の場合も、利益が民衆自身に還元されるのであれば、私もあえてそれを非難はしません。
そもそも民衆には常に3つの心配事がつきまといます。食物が得られないこと、衣服が得られないこと、休息が得られないことです。こうした憂いを解消しようとして音楽に耽って、これら必要なものをそろえることができるのでしょうか。また、音楽をして、天下の混乱をたちどころに平定できるのでしょうか。
また楽器を製造するだけでなく、演奏する者はやはり青・壮年の者を動員しなければなりません。彼らにこういった役を務めさせれば、農業に励む時期を奪うことになります。また大勢の人民を集めて音楽を聴くことになります。そのため政務を投げ出させ、生産活動を放棄させることになります。また音楽に和して舞う舞手を養わないといけません。
だからこそ墨子先生は音楽を奏でる行為は非難されるべきだと主張されたのです。
・墨子の思想は、音楽から一切の思想性を剥ぎとって、音楽に単なる娯楽以上の意味を認めませんでした。
・墨子の思想は、人間の心の内面に対する思索がほとんど欠落し、人間を社会的分業体制の一員としてのみ認めていました。

【非命上 第三十五】
墨子曰く「国家は裕福とならずに貧困し、人口は増加せずに減少し、治安は維持されずに混乱している。この原因はいったいどこにあるのだろうか。それは宿命論者が民衆の中に多数いるからに他ならない。彼らは宿命に対しては、いかに努力し励んでみても何一つ変えることは不可能であると説く。宿命論者は人々を説得してまわり、人民が労働に従事することを妨害している。
それでは、当世の士君子が宿命が存在すると考えているのだろうか。湯王は桀王を討ち、武王は紂王を討ったが世の在り方がまだ変化したわけでもなく、人民の有様もまだ変化していないのに、天下は安らかになった。これはひとえに人為的努力の結果であって、宿命があるとはいえない。
また先王が遺された典籍の中に、福は請い求めることができず、禍は避けられず、などといった言葉が、ただのひとつでも記されているだろうか。私はひたすらこれら典拠中に探し回ってみたのだが、必ずしも宿命論と合致する記録は見出せなかった。とすれば宿命論はやはり廃棄すべきものなのではないか」と。
・勤労と節制に努めるよう人々を説いたため、宿命論は否定されました。

【非儒下 第三十九】
孔なにがしとやらは、蔡と陳の間で困窮していました。そのとき弟子の子路は、師匠のために豚を煮て進めた。すると孔某は「いったいおまえはこの肉をどうやって調達したのか」などとは訊ねもせず、ペロリと平らげてしまいました。
つぎに子路は追剥を働いて衣服を奪い取り、それを売り飛ばして酒を買ってきた。今度も孔某は「おまえはこの酒をどうやって手に入れたのか」などとは聞きただしもせず、飲み干してしまいました。
ところが魯哀公が孔子を迎えて宴席を張ると、やれ座席のしつらえ方が礼に合わぬから座らないとか、肉の切り目が作法通りでないから食べないとごねた。そこでいぶかしく思った子路は「どうして陳・蔡のときとこうも違うのでしょう」と尋ねた。孔某はこう答えた。「子路よ近う寄れ。陳・蔡のときは何とかあの場を生き延びようとしたのじゃ。そして今は、何とかこの場だけでも正義を実現しようとしているのじゃ」と。
いったい困窮すれば不当な手段で、なりふり構わず身を生かそうとし、腹一杯食えるとなると、さも己が立派な人物であるかのように自ら飾り立てようとする。世に邪悪、まやかしの類が多いとは言っても、これほど下劣ではなかろう。
・この論は墨子の発言を敷衍したものでなく、儒家に対する攻撃のために作られたものです。
・事実はどうであれ、儒家の俗世の栄達に身をすり寄せようとする体質を見事に表現しています。

【経上 第四十】
知覚するとは、外界の事物に交接する行為である。
智(認識主体)とは、物事の同異を明瞭にできる知覚装置の本体である。

【経説上 第四十二】
知覚。知覚するとは、五官を用いて外界の事物に対応し、事物が過ぎ去った後も、まるで今もその事物を眼前に視認しているかのように、明確な知覚を形成する行為である。
智。智とは五官がもたらす各種の知覚を比較検討し、対象の事物を明確に認識する主体である。
・墨子は、人間の認識主体に総合認識の形成能力を認めて、その能力に全幅の信頼を置く。

【公輸 第五十】
公輸盤は、楚のために雲梯という攻城兵器を製作した。そこで楚は早速この新兵器を用いて宋を攻撃しようとした。墨子先生はこのことを聞くと、すぐに斉を出発し、十日間の強行軍によって郢に到着した。
すぐさま公輸盤に会見を願い出たところ、先生におかれては、いったい何の御用でお越しになったのかな、と公輸盤はとぼけた。そこで墨子先生はつぎのようにもちかけた。
「北方に私を侮辱するけしからぬ奴がいます。どうか刺客を放って暗殺していただけないでしょうか」と。すると公輸盤は殺人をする汚い人物と見なされたので不機嫌になった。そこで墨子先生は「もちろん報酬として黄金十斤ばかり差し上げます」とたたみかけた。公輸盤は「私は正義を信条としており、そもそも殺人を働く男ではない」と言った。
そこで墨子先生は立ち上がって深々と再拝の礼を取り、本件を切り出した。
「私はあなたが雲梯を開発し、宋を攻略しようとされている、と聞きました。だが宋には何の罪もありません。宋に何の落ち度もないのに、一方的に攻撃を仕掛けるのは仁者とは申せません。宋への侵略が不正義であることを承知していながら、楚王と諫争しようとしないのは、忠臣とは申せません。諫争しても君主を承服させられないのでは、強毅の士とは申せません」
公輸盤は墨子先生の論理に屈服したが「私はすでに雲梯の完成を王に報告してしまったのだ」と責任を王に転嫁しようとした。
そこで墨子先生は楚王への謁見の許しを得て、次のように話を切り出した。
「ある男は自分の高級車には目もくれず、隣家のオンボロ車を盗もうと躍起になります。また自分の美服には目もくれず、隣家のボロ服を盗もうとします。我が家のご馳走には見向きもせず、隣家の粗食を盗もうとします。これはいったいどのような人物と思われますか」
楚王「それはきっと盗み癖があるんだろうよ」
墨子先生「楚の領土は五千里の広大さであり、宋の領土はたかだか五百里に過ぎません。楚には雲夢の大沼沢地があり、魚の類は豊富です。宋は雉や兎、鮒や鯉さえ取れぬ国です。
王が宋を攻撃しようとするのは、先の男と全く同類に思えます」
楚王は「先生の言い分はもっともじゃ。しかし公輸盤は、今度こそは絶対に宋を攻略してみせると張り切っておるのじゃ」と言った。
そこで墨子先生は、自分の帯をほどいて、それで机上に城の輪郭を描き、木片を攻城兵器と守城兵器とに見立てた。公輸盤と墨子先生は机上演習をすることになり、公輸盤は九種類の機械による攻城戦術をつぎつぎに繰り出したが、その度ごとに墨子先生に防がれて、手持ちの攻城用兵器すべてを使い果たしてしまったが、墨子先生の防御兵器はまだ手持ちが残されていた。
公輸盤は屈服を余儀なくされたが「私はあなたの防御を打ち破る方法を知っているが、それは言わない」と言った。すると墨子先生も「私もその方法を知っていますが、言わないでおきましょう」と言った。楚王はその理由を尋ねた。墨子先生は「公輸盤は私を殺してしまえば、もはや宋を防御できる者はいないと考えているのです。しかし私の門弟の禽滑釐ら300人の部隊はすでに宋の守りについています。ですから私ひとりを殺してみても、私の防御を断ち切ることはできません」と言った。
さすがの楚王も宋への攻撃を取りやめた。
使命を終えた墨子先生は、斉へ帰還しようとして、宋の地を通過した。そのとき雨が降ったので、郷里の門で雨宿りをしようとしたが、門番に楚の間諜と怪しまれたため追い返されてしまった。

【号令 第七十】
城壁の上で守備についている兵員や官吏は、それぞれ自分たちの仲間(伍)の言動に連帯保証の責任を負う。もし城を外敵に渡そうとする者がいれば、父母・妻子を全員処罰する。仲間がそのような姦計をめぐらせている事実を知りながら、逮捕や報告を怠った時は、その伍の全員を同罪とする。
城下の里に居住する一般人も、連帯保証の責任を負う点は、同様である。
官吏や兵卒や人民が勝手に城外に抜け出す行為を禁止する。命令に反攻して服従しない者は処罰する。指揮官の命令発動を勝手に批判する者は処罰する。命令を受けても実行しない者は処罰する。
行動が他の者と斉一でない者は処罰する。応答する相手もいないのに、むやみに大声で呼びかけわめく者は処罰する。侵攻してきた敵軍を褒め称え、城内の味方の悪口を言いふらす者は処罰する。勝手に部署を離れて寄り集まり、話し合いをする者は処罰する。配置につくよう打ち鳴らされる太鼓の音を聞きながら遅れてきた伍は、その構成員を処罰する。
守備兵はめいめい土版に自己の姓名を大きく書き記し、それを部署と部署との境界に掲げて明示する。守将はかならずその配置序列を頭に入れておき、その部署に属さない者が入り込んだ場合は、その者を処罰する。他の部署に紛れ込んだり、私的な手紙を携行し、上官に個人的な頼み事をしたりする者を逮捕せずに見てみぬふりをしたり、兵卒や一般人が窃盗を働いたりした場合は、その妻女や幼児に至るまで、全員を処罰して決して赦してはならない。城内の人間は、その姓名・部署を帳簿に記録し、通行許可証の割符を持たずに、勝手に軍中をうろつく者は処罰する。
侵略してきた攻囲軍と互いに自己の姓名や部署を通告し合い、互いに相手の姓名や部署を確認し合うような真似をさせてはならない。攻囲軍が城内に矢文を射てきても、その内容を公表させてはならない。攻囲軍が城内に利益誘導の甘言を弄してきても、それに内応するような行動をさせてはならない。
派遣された守将は、防衛しようとする城邑に入城したならば、必ず慎重に郷里の長老や現地に赴任していた行政官、在地の貴族などに城内の様子を尋ねて、私怨を結んで仇敵の間柄にある者たちを召して、明確に双方を和解させ、防御戦への協力を約束させる。その後も彼らを別扱いにし、他の者たちと隔離する。もし私怨を晴らすために城の防禦を妨害する者が出れば、断罪する。
守将はその封邑の領主であることを示す印章を授け、尊重して官職に登用し、彼の功績と破格の抜擢とを全人口に明瞭に周知させる。在地の豪族で国外の諸侯と手広く交際している有力者は、頻繁に守将に謁見させ、防衛軍の最高幹部たちと顔見知りになるよう仕向け、巧妙にその豪族を官吏に服属させ、しばしば接待して懐柔し、それまでのように出入国する行為を控えさせ、さらに血縁者を人質に取る。
郷ごとに声望家・長老・豪族がいる場合には、その親戚・父母・妻子を必ず尊重し優遇する。もし貧困で食事に事欠くものがいる場合は、司令部から食料を配給する。さらに勇士の親族にも時折り酒食を下賜し、必ずこれらの人々を尊敬する。
守将用の望楼は人質を住まわせる建物を見下せる位置に設営し、どの方角からも内部を見られないように壁や床を念入りに土で塗り固める。
守将自身が現地で抜擢・登用した官吏で、性格が貞廉忠信であり、不正を働く憂いなしに業務を任せられる者たちには、やかましく飲食に制限を加えたりせず、彼らの私有財産も各自で保管させる。
人質を管理する葆宮の壁は、その外側に必ず三重に垣根を張り巡らし、秘密を守るために屋根には瓦を厚く敷き、四方の壁を土で塗り固めて防音処置を施す。
各郷里に出入りする門には、それぞれ専任の門吏を配置し、門の開閉を中央で統御するため、必ず守将の割符による許可命令を必要とする方法を取る。
葆宮の護衛兵には必ず重厚な性質の者を選抜して任命する。さらに忠信で不正を働く恐れなしに業務を任せられる者を選抜し、葆宮の警護隊長に任命する。
巫祝の史と望気者は必ず味方に有利な占断や予言のみを民衆に告げなければならず、民衆に告げる際には、事前に守将に内容を報告して許可を得なければならない。もしこれに違反して、民衆の心を動揺させた時は、厳重に処罰して決して赦さない。
・号令篇はかなりの長文で、ここで紹介したのはほんの一部です。
・当時の城邑は、外郭と内城の二重の城壁に囲まれており、ここでいう城壁はすべて外郭を指します。外郭と内城の間には一般民衆の居住区域(郷里)が広がっています。
・防禦戦では、住民は兵士となり、また郷里でも戦闘が行われるため、一般民衆の統治方法にも言及しています。
・ここで言及される戦時体制を平時の社会全体にまで拡大すれば、法家の理想とする法治国家が出現します。絶えず城邑の争奪戦が繰り返される春秋戦国期にあっては、法による平時の治安維持が求められるようになり、君主権強化、法治国家成立という流れを作りました。