今日(6月21日)は、、江戸時代の国学者・文献学者・医師ともいわれる本居宣長の生誕285回目の日です。
本居宣長については過去にも何度か整理してきましたが、今回は『玉勝間』について触れておきたいと思います。
・『秘本玉くしげ』 – 本居宣長
秘本玉くしげより学ぶ!本居宣長から現代に通じる経済の具体策!
・『古事記伝』 – 本居宣長
古事記伝より学ぶ!本居宣長が問い続けた”日本とは何か”!
『玉勝間(たまがつま)』とは、本居宣長が著した、1001項目、14巻・目録1巻から成る江戸時代後期の随筆集です。
神祇、有職故実、文学、芸能、言語、古学、漢学、洋学など多方面にわたっての考証、論評が行われており、宣長の人生観、文学観、古道観、芸術論などを伺い知るうえで貴重な資料といわれています。
いわば言草の辞典であり、エンサイクロメディアとでもいえばよいでしょうか。
大きく分類してみると、
・第一には、古語古文の訓詁や釈義で、この中には、外の著書を補うべき相違卓見に富んだ論文が多い。
・第二には、地理歴史等諸般の考証で、就中名所に関するものには実地の踏査の結果たる精細にして興味豊かなものがある。
・第三には、古書殊に記録類からの抄出で、殊に俗語の出典を説いたりして、わずか数行の短文ながら読者を魅了するものが数多ある。
・第四には、当時の人々の聞書や学会の報道で、著者が学問的敏感を示さないものはない。
・第五には、自己の修学の履歴を説いたもので、宣長研究のためには看過できないほどの貴重な資料である。
・第六には、儒教に対する論議で、宣長が儒教そのものの知識が決して浅薄でなかったことを知るに値する資料である。
・第七には、学問に対する諸見解で、宣長がいかに純粋の真理の学徒であったかを語る資料である。
・第八には、宗教的信仰を説いたもので、宣長を理解する上で大切なる資料である。
・第九には趣味を説いたもので、花の品定めをし、絵画を論じた類、宣長が淡泊を悦び純粋を貴んだ、いわば古典的の日本的趣味の人であったかが分かる資料である。
・第十には、教訓談の類で、教訓とはいいながら道学的臭味のものではなく、書物の取り扱いや、貸借について述べたり、偽善を戒めたりと、極めて適切な内容が示唆された資料である。
といった具合でして、当時の時代背景を考慮しても、万事に徹して識見が豊かでかつ気品が高く、学問の大道を静かに歩む叡智者の風貌を仰ぐことが出来る、とまでいわれています。
これが、『玉勝間』が同種の随筆文学中、最も優れた作品と言えるのでしょう。
そもそも『玉勝間』とは、草稿本の内題に宣長の自筆で「玉賀都万」とあったためとも、巻1の巻頭歌
「言草のすゞろにたまる玉がつまつみて こゝろを野べのすさびに」
(ことばが、すずろに思いがけなくたまったので、美しい篭に摘もう。そうすれば、自分の気持ちを伝えることができるし、野原での遊びとなる)
が由縁であるともいわれています。
本来この言葉は、玉と言う美称と、かつま(篭の網目がびっしり詰まっていること)が結合して出来た語で、それが連濁で「たまがつま」となったのですが、い頃から読書や考察に勤しんできた宣長が、その中で気付いたことを随筆という美しい篭の形でまとめ、また学者としての自分の歩んできた道を素直に語った書物であるのです。
では『玉勝間』の中から、幾つか現代語訳にて抽出してみましょう。
『玉勝間 – 兼好法師が詞のあげつらひ』
兼好法師の言葉の論評
兼好法師の徒然草に、こういう文章がある。
「花は盛りのときに、月は欠けていない満月だけを愛でるものであろうか。いや、そうではない。」
この言葉は、どうであろうか。
古くの歌で、花は満開の状態を、また月は欠けていない満月を見た歌よりも、花に風(が吹いて散ってしまうこと)を嘆き、月の夜に雲がかかるのを嫌がり、待ったり惜しんだりするやるせない気持ちを読んだ歌が多く、趣深い歌も特にそういった歌に多いのは、誰もみな花は満開を心静かに見たく、月は欠けていない満月であるようなことを願う心が切実であるからこそ、そうではあり得ないことを嘆いていたのであろう。どこの歌に花に風が吹くのを待ち焦がれたり、月に雲がかかるのを願う歌があろうものか。ところが、あの法師が言っているようなことは、人の心に逆らった、のちの世の利口ぶった心の、わざと斜に構えたつくりものの風情であって、本当の風情のある心ではない。
兼好法師が言うことは、この類の(つくりものの風情)が多い。みな同じことだ。総じて、一般人の願う心と違うことを風情あることだとするのは、作り事が多いことよ。恋で、結ばれることを喜ぶことは趣がなくて、結ばれないことを嘆く歌ばかり多く、それが趣深いのも、そもそもは結ばれるようなことを願うからである。人の心は、嬉しかったことをそれほどは深く覚えないものであって、ただ思い通りにならないことを深く身にしみて覚えるものなので、一般にうれしいことを詠んだ歌には、趣深いものが少なくて、思い通りにならないことを嘆いている歌に、趣深いものが多いのであるよ。そうは言っても、苦しく悲しいことを上品であるとして願うとすれば、それが人の本当の心ということがあろうものか。(いや、誰も苦しく悲しいことを上品であるとして願ったりはしない。)
『玉勝間 – 師の説になづまざること』
(賀茂真淵)先生の説に執着しないこと
私が古典を説明するときに、先生の説と違うことが多くあり、先生の説の良くないところがあるのを、はっきり違いを見分けて言うことが多かったのを、まったくとんでもないことだと思う人が多いようだが、これはつまり私の先生の心であって、いつも教えられたのは、
「あとで良い考えが浮かんできたときには、先生の説と違うからと言って必ずしも遠慮してはならない。」
と教えられた。これはとても立派で優れた考えであって、私の先生がとても優れていらっしゃることの一つである。
そもそも、昔のことを考えることは、決して一人二人の力でもって何もかもを明らかにし尽くせるわけもない。また、優れた人の説であるからと言って、その中にどうして誤りが無いことがあろうか。いや、あるはずである。良くないことも混じらないと言うことは決してあり得ない。その自分の心には、
「今は古代の人の心は全て明らかである。自分の説を除いては、真実があるはずもない。」
と思い込んでしまうことも、思いのほかに、また他人の違う良い考えが出てくることの理由である。多くの研究者の手を経ていくと、前の人々の考えの上を、さらによく考えきわめるので、次々と詳しくなって行くものなので、先生の説だからといって、必ずしも執着して守らねばならないわけではない。良い悪いを言わずにひたすら古い説を守るのは、学問の道ではとるにたらないことである。
また、自分の先生の良くないところをはっきり言うのは、とても恐れ多いことではあるが、それも言わなければ、世の中の学者は良くない説に惑わされ、長い間、良い説を知ることができなくなる。先生の説だからと言って、良くないのを知っているのに言わずに黙っていて、良いように格好つけているようなことは、ただ先生だけを尊んで、学問のことを思っていないのである。
実際『玉勝間』はどこからでも読むことができるのですが、それは宣長の学ぶ姿勢がしっかりと記されているためであり、そのためどこを読んでもズシンと心に響いてきます。
「未熟な学者が心はやって唱え出す新説は、一途に「他人より優れよう、勝とう」という気持ちで、軽率に、前後を十分に考え合わせてはない」
「だいたい旧説は十の中で七つ八つの点は悪いのも、その悪いところをおおい隠し、僅かに二、三の用いるに足る点があるのを特に持ち上げて、出来る限り援護採用する。
新説は十のうち例え八つ九つの点はよくてみ、残りの一つ二つの悪い点を特に批判して、八つ九つの良い点をも抹殺する」
実際、膨大なる『玉勝間』から代表的な章段を抜粋した『玉勝間抄』という資料もありますので、まずはそちらから取り組んでみるのもよいかもしれません。
ご一読してみてください。
『玉勝間抄』
【目次】
玉賀都萬一の巻
巻頭歌
初若菜
1 あがたゐのうしは古ヘ學のおやなる事
2 わたくしに記せる史
3 儒者の皇國の事をばしらずとてある事
4 古書どものこと
5 また
6 また
7 又
8 また
9 また
10 もろこしぶみをもよむべき事
11 學問して道をしる事
12 がくもん
13 からごゝろ
14 おかしとをかしと二つある事
15 東宮をたがひにゆづりて
16 漢意
17 又
18 言をもじといふ事
19 あらたなる説を出す事
20 音便の事
21 からうたのよみざま
22 大神宮の茅葺なる説
23 清水寺の敬月ほうしが歌の事
玉勝間二の巻
櫻の落葉
24 兩部唯一といふ事
25 道にかなはぬ世中のしわざ
26 道をおこなふさだ
27 から國聖人の世の祥瑞といふもの
28 姓氏の事
29 又
30 神典のときざま
31 ふみよむことのたとへ
32 あらたにいひ出たる説はとみに人のうけひかぬ事
33 又
34 儒者名をみだる事
35 松嶋の日記といふ物
36 ふみども今はえやすくなれる事
37 おのが物まなびの有しやう
38 あがたゐのうしの御さとし言
39 おのれあがたゐの大人の敎をうけしやう
40 師の説になづまざる事
41 わがをしへ子にいましめおくやう
42 五十連音をおらんだびとに唱へさせたる事
玉勝間三の巻
橘
43 から國にて孔丘が名をいむ事
44 から人のおやのおもひに身をやつす事
45 富貴をねがはざるをよき事にする諭ひ
46 神の御ふみをとける世々のさま
玉勝間四の巻
忘れ草
47 故郷
48 うき世
49 世の人かざりにはからるゝたとひ
50 ひとむきにかたよることの論ひ
51 前後と説のかはる事
52 人のうせたる後のわざ
53 櫻を花といふ事
54 為兼卿の歌の事
55 もろこしの經書といふものの説とりどりなる事
56 もろこし人の説こちたくくだくだしき事
57 初學の詩つくるべきやうを敎ヘたる説
58 歌は詞をえらぶべき事
59 兼好法師が詞のあげつらひ
60 うはべをつくる世のならひ
61 學者のまづかたきふしをとふ事
玉勝間五の巻
枯野のすゝき
62 あやしき事の説
63 歌の道 さくら花
64 いせ物語眞名本の事
65 いせ物がたりをよみていはまほしき事ども一つ二つ
66 業平ノ朝臣のいまはの言の葉
玉勝間六の巻
からあゐ
67 書うつし物かく事
68 手かく事
69 業平ノ朝臣の月やあらぬてふ歌のこゝろ
70 縣居大人の傳
71 花のさだめ
72 玉あられ
73 かなづかひ
74 古き名どころを尋ぬる事
75 天の下の政神事をさきとせられし事
玉勝間七の巻
ふぢなみ
76 神社の祭る神をしらまほしくする事
77 おのが仕奉る神を尊き神になさまほしくする事
78 皇孫天孫と申す御号
79 神わざのおとろへのなげかはしき事
80 よの人の神社は物さびたるをたふとしとする事
81 唐の國人あだし國あることをしらざりし事
82 おらんだといふ國のまなび
83 もろこしになきこと
84 ある人の言
85 土佐國に火葬なし
86 はまなのはし
87 おのれとり分て人につたふべきふしなき事
88 もろこしの老子の説まことの道に似たる所ある事
89 道をとくことはあだし道々の意にも世の人のとりとらざるにもかゝはるまじき事
90 香をきくといふは俗言なる事
91 もろこしに名高き物しり人の佛法を信じたりし事
92 世の人佛の道に心のよりやすき事
93 ゐなかにいにしへの雅言ののこれる事
玉勝間八の巻
萩の下葉
94 ゐなかに古ヘのわざののこれる事
95 ふるき物またそのかたをいつはり作る事
96 言の然いふ本の意をしらまほしくする事
97 今の人の歌文ひがことおほき事
98 歌もふみもよくとゝのふはかたき事
99 こうさく くわいどく 聞書
100 枕詞
101 もろこしの國に丙吉といひし人の事
102 周公旦がくひたる飯を吐出して賢人に逢たりといへる事
103 藤谷ノ成章といひし人の事
104 ある人のいへること
105 らくがき らくしゅ
玉勝間九の巻
花の雪
106 道のひめこと
107 契沖が歌をとけるやう
108 つねに異なる字音のことば
109 八百萬ノ神といふを書紀に八十萬ノ神と記されたる事
110 人ノ名を文字音にいふ事
111 神をなほざりに思ひ奉る世のならひをかなしむ事
玉勝間十の巻
山菅
112 物まなびのこゝろばへ
113 いにしへよりつたはれる事の絶るをかなしむ事
114 もろもろの物のことをよくしるしたる書あらまほしき事
115 譬ヘといふものの事
116 物をときさとす事
117 源氏物語をよむことのたとへ
118 さらしなのにきに見えたること
119 おのが帰雁のうた
120 師をとるといふ事
玉勝間十一の巻
さねかづら
121 人のうまるゝはじめ死て後の事
122 うひ学びの輩の歌よむさま
123 後の世ははづかしきものなる事
124 うたを思ふほどにあること
125 假字のさだ
126 皇國の学者のあやしき癖
127 万葉集をよむこゝろばへ
128 足ことをしるといふ事
玉勝間十二の巻
やまぶき
129 又妹背山
130 俊成卿定家卿などの歌をあしくいひなす事
131 物しり人もののことわりを論ずるやう
132 歌に六義といふ事
133 物まなびはその道をよくえらびて入そむべき事
134 八景といふ事
135 よはひの賀に歌を多く集むる事 なき跡にいしぶみをたつる事
136 金銀ほしからぬかほする事
137 雪蛍をあつめて書よみけるもろこしのふること
玉勝間十三の巻
想い草
138 しづかなる山林をすみよしといふ事
139 おのが京のやどりの事
140 しちすつの濁音の事
玉勝間十四の巻
つらつら椿
141 一言一行によりてひとのよしあしきをさだむる事
142 今の世の名の事
143 絵の事
144 又
145 又
146 又
147 また
148 漢ふみにしるせる事みだりに信ずまじき事
149 世の中の萬の事は皆神の御しわざなる事
150 聖人を尊む事
151 ト筮
152 から人の語かしこくいひとれること
153 論語
154 又
155 又
156 はやる
157 人のうまれつきさまざまある事
158 紙の用
159 古より後世のまされる事
160 名所
161 教誡
162 孟子
163 如是我聞
164 佛道
165 世の人まことのみちにこゝろつかざる事
166 宋の代 明の代
167 天
168 國を治むるかたの学問
169 漢籍の説と皇の古伝説とのたとへ
170 米粒を佛法ぼさつなどいひならへる事
171 世の人のこざかしきこといふをよしとする事
172 假字
173 から國の詞つかひ
174 佛經の文
175 神のめぐみ
176 道
【本文】
玉賀都萬一の巻
言草のすゞろにたまる玉がつま
つみてこゝろを野べのすさびに
初 若 菜 一
此言草よ、なにくれと数おほくつもりぬるを、いとくだくだしけれど、やりすてむもさすがにて、かきあつめむとするを、けふはむ月十八日、子ノ日なれば、よし有ておぼゆるまゝに、まづこの巻の名、かく物しつ、次々のも、又そのをりをり思ひよらんまゝに、何ともかともつけてむとす、
かたみとはのこれ野澤の水ぐきの
淺くみじかきわかななりとも
1 あがたゐのうしは古ヘ學のおやなる事[四]
からごゝろを清くはなれて、もはら古ヘのこゝろ詞をたづぬるがくもむは、わが縣居ノ大人よりぞはじまりける、此大人の學の、いまだおこらざりしほどの世の學問は、歌もたゞ古今集よりこなたにのみとゞまりて、萬葉などは、たゞいと物どほく、心も及ばぬ 物として、さらに其歌のよきあしきを思ひ、ふるきちかきをわきまへ、又その詞を、今のおのが物としてつかふ事などは、すべて思ひも及ばざりしことなるを、今はその古ヘ言をおのがものとして、萬葉ぶりの歌をもよみいで、古ヘぶりの文などをさへ、かきうることとなれるは、もはら此うしのをしへのいさをにぞ有ける、今の人は、ただおのれみづから得たるごと思ふめれど、みな此大人の御陰(ミカゲ)によらずといふことなし、又古事記書紀などの、古典(イニシヘノフミ)をうかゞふにも、漢意(カラゴコロ)にまどはされず、まづもはら古ヘ言を明らめ、古ヘ意によるべきことを、人みなしれるも、このうしの、萬葉のをしへのみたまにぞありける、そもそもかかるたふとき道を、ひらきそめたるいそしみは、よにいみしきものなりかし、
2 わたくしに記せる史[七]
よにおほやけの史にはあらで、私に御代御代の事を記せる書、これかれとおほかるを、むかしの皇國人は、佛をたふとばぬ は一人もなかりしかば、かゝる書にさへ、ともすればえうなきほとけざたのまじりて、うるさく、今見るには、かたはらいたきことおほし、又さかしら心に、神代にはあやしき事のみ多くして、からめかぬ をいとひて、おほくは神武天皇より始めてしるして、神代のほどをばはぶけるは、から國のむねむねしき書に、さるたぐひのあるを、よきことと思ひて、ならへる物也、そもそも外(トツ)國々は、その王のすぢ、定まれる事なくして、よゝにかはれば、心にまかせて、いづれのよより記さむも難(ナム)なきを、御國の皇統は、さらに外(トツ)國の王のたぐひにはましまさず、天照大御神の天津日嗣にましまして、天地とともに、とこしへに傳はらせ給ふを、その本のはじめをはぶきすてて、なからより記してやからめや、よろづをから國にならふも、事によりては、心すべきわざぞかし、
3 儒者の皇國の事をばしらずとてある事[九]
儒者に皇國の事をとふには、しらずといひて、恥とせず、から國の事をとふに、しらずといふをば、いたく恥と思ひて、しらぬ ことをもしりがほにいひまぎらはす、こはよろづをからめかさむとするあまりに、其身をも漢人めかして、皇國をばよその國のごともてなさむとするなるべし、されどなほから人にはあらず、御國人なるに、儒者とあらむものの、おのが國の事しらであるべきわざかは、但し皇國の人に對ひては、さあらむも、から人めきてよかンめれど、もし漢國人のとひたらむには、我は、そなたの國の事はよくしれれども、わが國のことはしらずとは、さすがにえいひたらじをや、もしさもいひたらむには、己が國の事をだにえしらぬ 儒者の、いかでか人の國の事をはしるべきとて、手をうちて、いたくわらひつべし、
4 古書どものこと[一〇]
ふるきふみどもの、世にたえてつたはらぬは、萬ヅよりもくちをしく歎かわしきわざ也、釋日本紀仙覺が萬葉の抄などを見るに、そのほどまでは、國々の風土記も、大かたそなはりて、傳はれりと見えたり、釋に引たる上宮記といふ物は、いさゝかばかりなれど、そのさま古事記よりも、今一きはふるく見えたるは、まことに上宮わたりの物にや有けむ、又風土記は、いとたふとき物なるに、今はたゞ出雲一國ののみ、またくてはのこりて、ほかはみな絶えぬ るは、かへすかへすもくちをし、さるは應仁よりこなた、うちつゞきたるみやこのみだれに、ふるき書どもも、みなやけうせ、あるはちりぼひうせぬ るなるべし、そも今の世のごと、國々にも學問するともがら多く、書どもえうじもたるものおほからましかば、むげにたえはつることはあらじを、そのかみはいまだゐなかには、學問するともがらもいといとまれにして、京ならでは、をさをさ書どももなかりしが故なめり、されどから國のふるきふみどもはしも、これかれとゐなかにも殘れるがあるは、むねとからを好むよのならひなるが故也、かくて風土記も、今の世にもかれこれとあるは、はじめの奈良の御代のにはあらず、やゝ後の物にて、そのさま古きとはいたくかはりて、大かたおかしからぬ もの也、其中に、豐後ノ國のは、奈良のなれど、たゞいさゝかのこりて、全からず、そもそもかくはじめのよきはたえて、後のわろきがのこれるは、いかなるゆゑにかと思ふに、これはた世人の心、おしなべてからざまにのみなれるから、ふるくてからめかぬ をば好まず、後のいさゝかもからざまに近きをよろこべる故なるべし、神代ノ巻も、日本紀のをのみたふとみて、古事記のをば、えうぜぬ をもてなずらへしるべし、さてしかもとの風土記はみな絶ぬる中に、國はしも多かるに、出雲ののこれることは、まがことの中のいみしきさきはひ也、又日本紀はもとよりたゆまじきことわりなるを、古事記萬葉集のたまたまにたえでのこれるは、ことにいみしき後の世のさきはひなり、大かた今の世にして、古ヘのすがたをしることは、もはら此二ふみのみたまになむ有ける、
5 また[一一]
書紀の今の本は、もじの誤リもところどころあり、又訓も、古言ながら多くは今の京になりてのいひざまにて、音便の詞などいと多きに、中にはまたいとふるくめづらかにたふときこともまじれるを、その訓おほくは全からず、あるはなかばかけ、或はもじあやまりなど、すべてうるはしからず、しどけなきは、いといとくちをしきわざ也、板本一つならでは世になく、古き寫し本はたいとまれなれば、これかれをくらべ見て、直すべきたよりもなく、すべて今これをきよらにうるはしく、改め直さむことは、いといとかたきわざ也、今の世の物しり人、おのれ古ヘのこころ詞をうまらに明らめえたりと思ひがほなるも、なほひがことのみおほかれば、これ改めたらむには、中々の物ぞこなひぞ多かるべき、されば今これをゑり改めむとならば、文字の誤リをのみたゞして、訓をば、しばらくもとのまゝにてあらむかたぞ、まさりぬ べき、
6 また[一二]
續紀よりつぎつぎの史典も、今の本は、いづれもよろしからず、文字の誤リことにおほく、脱(オチ)たることなどもあり、そもそも書紀は、訓大事なれば、たやすく手つけがたきを、續紀よりこなたの史は、宣命のところをおきてほかすべては、訓にことなることなく、たゞよのつねのから書(ブミ)の訓のごとくにてよろしければ、今いかで三代實録までを、皆古きよき本を、これかれよみ合わせて、よきをえらびて、うるはしきゑり板を成しおかまほしきわざなり、
7 又[一三]
萬のふみども、すり本(マキ)と寫し本(マキ)との、よさあしさをいはむに、まづすり本(マキ)の、えやすくたよりよきことは、いふもさら也、しかれども又、はじめ板にゑる時に、ふみあき人の手にて、本のよきあしきをもえらばずてゑりたるは、さらにもいはず、物しり人の手をへて、えらびたるも、なほひがことのおほかるを、一たび板にゑりて、すり本出ぬ れば、もろもろの寫シ本は、おのづからにすたれて、たえだえになりて、たゞ一つにさだまる故に、誤リのあるを、他本(アダシマキ)もてたゞさむとすれども、たやすくえがたき、こはすり本(マキ)あるがあしき也、皇朝の書どもは、大かた元和寛永のころより、やうやうに板にはゑれるを、いづれも本あしく、あやまり多くして、別 によき本を得てたゞさざれば、物の用にもたちがたきさへおほかるは、いとくちをしきわざなりかし、然るにすり本ならぬ 書どもは、寫し本はさまざまあれば、誤リは有ながらに、これかれを見あはすれば、よきことを得る、こは寫本にて傳はる一つのよさ也、然はあれども、寫本はまづはえがたき物なれば、廣からずして絶やすく、又寫すたびごとに、誤リもおほくなり、又心なき商人の手にてしたつるは、利をのみはかるから、こゝかしこひそかにはぶきなどもして、物するほどに、全くよき本はいとまれにのみなりゆくめり、さればたとひあしくはありとも、なほもろもろの書は、板にゑりおかまほしきわざなり、殊に貞觀儀式西宮記北山抄などのたぐひ、そのほかも、いにしへのめでたき書どもの、なほ寫本のみねてあるが多きは、いかでいかでみないたにゑりて、世にひろくなさまほしきわざ也、家々の記録ぶみなども、つぎつぎにゑらまほし、今の世大名たちなどにも、ずゐぶんに古書をえうじ給ふあれど、たゞ其家のくらにをさめて、あつめおかるゝのみにて、見る人もなく、ひろまらざれば、世のためには何のやくなく、あるかひもなし、もしまことに古書をめで給ふ心ざしあらば、かゝるめでたき御世のしるしに、大名たちなどは、其道の人に仰せて、あだし本どもをもよみ合せ、よきをえらばせて、板にゑらせて、世にひろめ給はむは、よろづよりもめでたく、末の代までのいみしき功(イサオ)なるべし、いきほひ富(トメ)る人のうへにては、かばかりの費(ツヒエ)は、何ばかりの事にもあらで、そのいさをは、天の下の人のいみしきめぐみをかうぶりて、末の世までのこるわざぞかし、かへすがえすこゝろざしあらむ人もがな、
8 また[一四]
めづらしき書をえたらむには、したしきもうときも、同じこゝろざしならむ人には、かたみにやすく借して、見せもし寫させもして、世にひろくせまほしきわざなるを、人には見せず、おのれひとり見て、ほこらむとするは、いといと心ぎたなく、物まなぶ人のあるまじきこと也、たゞしえがたきふみを、遠くたよりあしき國などへかしやりたるに、あるは道のほどにてはふれうせ、あるは其人にはかになくなりなどもして、つひにその書かへらずなる事あるは、いと心うきわざ也、さればとほきさかひよりかりたらむふみは、道のほどのことをもよくしたゝめ、又人の命は、ひなかなることもはかりがたき物にしあれば、なからむ後にも、はふらさず、たしかにかへすべく、おきておくべきわざ也、すべて人の書をかりたらむには、すみやかに見て、かへすべきわざなるを、久しくどゞめおくは、心なし、さるは書のみにもあらず、人にかりたる物は、何も何も同じことなるうちに、いかなればにか、書はことに、用なくなりてのちも、なほざりにうちすておきて、久しくかへさぬ 人の、よに多き物ぞかし、
9 また[一五]
人にかりたる本に、すでによみたるさかひに、をりめつくるは、いと心なきしわざなり、本におりめつけたるは、なほるよなきものぞかし、
10 もろこしぶみをもよむべき事[二二]
から國の書をも、いとまのひまには、ずゐぶんに見るぞよき、漢籍も見ざれば、其外ツ國のふりのあしき事もしられず、又古書はみな漢文もて書たれば、かの國ぶりの文もしらでは、學問もことゆきがたければ也、かの國ぶりの、よろづにあしきことをよくさとりて、皇國(ミクニ)だましひだにつよくして、うごかざれば、よるひるからぶみを見ても、心はまよふことなし、然れども、かの國ぶりとして、人の心さかしく、何事をも理をつくしたるやうに、こまかに諭ひ、よさまに説(トキ)なせる故に、それを見れば、かしこき人も、おのづから心うつりやすく、まどひやすきならひなれば、から書見むには、つねに此ことをわするまじきなり、
11 學問して道をしる事[二三]
がくもんして道をしらむとならば、まづ漢意(カラゴコロ)をきよくのぞきさるべし、から意の清くのぞこらぬ ほどは、いかに古書をよみても考へても、古ヘの意はしりがたく、古ヘのこゝろをしらでは、道はしりがたきわざになむ有ける、そもそも道は、もと學問をして知ることにはあらず、生れながらの眞心(マゴコロ)なるぞ、道には有ける、眞心(マゴコロ)とは、よくもあしくも、うまれつきたるまゝの心をいふ、然るに後の世の人は、おしなべてかの漢意にのみうつりて、眞心をばうしなひはてたれば、今は學問せざれば、道をえしらざるにこそあれ、
12 がくもん[二四]
世ノ中に學問といふは、からぶみまなびの事にて、皇國の古ヘをまなぶをば、分て神學倭學國學などいふなるは、例のから國をむねとして、御國をかたはらになせるいひざまにて、いといとあるまじきことなれ共、いにしへはたゞから書學びのみこそ有けれ、御國の學びとては、もはらとする者はなかりしかば、おのづから然いひならふべき勢ひ也、しかはあれども、近き世となりては、皇國のをもはらとするともがらもおほかれば、からぶみ學びをば、分て漢學儒學といひて、此皇國のをこそ、うけばりてたゞに學問とはいふべきなれ、佛學なども、他(ホカ)よりは分て佛學といへども、法師のともは、それをなむたゞに學問とはいひて、佛學とはいはざる、これ然るべきことわり也、國學といへば、尊ぶかたにもとりなさるべけれど、國の字も事にこそよれ、なほうけばらぬ いひざまなり、世の人の物いひざま、すべてかゝる詞に、内外(ウチト)のわきまへをしらず、外ツ國を内になしたる言のみ常に多かるは、からぶみをのみよみなれたるからの、ひがことなりかし、
13 からごゝろ[二五]
漢意(カラゴコロ)とは、漢國のふりを好み、かの國をたふとぶのみをいふにあらず、大かた世の人の、萬の事の善惡是非(ヨサアシサ)を論ひ、物の理リをさだめいふたぐひ、すべてみな漢籍(カラブミ)の趣なるをいふ也、さるはからぶみをよみたる人のみ、然るにはあらず、書といふ物一つも見たることなき者までも、同じこと也、そもからぶみをよまぬ 人は、さる心にはあるまじきわざなれども、何わざも漢國をよしとして、かれをまねぶ世のならひ、千年にもあまりぬ れば、おのづからその意(ココロ)世ノ中にゆきわたりて、人の心の底にそみつきて、つねの地となれる故に、我はからごゝろもたらずと思ひ、これはから意にあらず、當然理(シカアルベキコトワリ)也と思ふことも、なほ漢意をはなれがたきならひぞかし、そもそも人の心は、皇國も外つ國も、ことなることなく、善惡是非(ヨサアシサ)に二つなければ、別 (コト)に漢意といふこと、あるべくもあらずと思ふは、一わたりさることのやうなれど、然思ふもやがてからごゝろなれば、とにかくに此意は、のぞこりがたき物になむ有ける、人の心の、いづれの國もことなることなきは、本のまごゝろこそあれ、からぶみにいへるおもむきは、皆かの國人のこちたきさかしら心もて、いつはりかざりたる事のみ多ければ、眞(マ)心にあらず、かれが是(ヨシ)とする事、實の是(ヨキ)にはあらず、非(アシ)とすること、まことの非(アシキ)にあらざるたぐひもおほかれば、善惡是非(ヨサアシサ)に二つなしともいふべからず、又當然之理(シカアルベキコトワリ)とおもひとりたるすぢも、漢意の當然之理にこそあれ、實の當然之理にはあらざること多し、大かたこれらの事、古き書の趣をよくえて、漢意といふ物をさとりぬ れば、おのづからいとよく分るゝを、おしなべて世の人の心の地、みなから意なるがゆゑに、それをはなれて、さとることの、いとかたきぞかし、
14 おかしとをかしと二つある事[二六]
田中ノ道麻呂が考へけるは、物をほめていふおかしは、おむかしのつゞまりたるにて、おの假字也、又笑ふべき事をいふをかしは、をこといふ言のはたらきたるにて、をの假字也、さればこは本より二つにて、異言(コトコトバ)なるを、假字づかひみだれて、一つに書(カク)から、同言のごと心得たるは、誤也といへる、まことにさることにて、いとよ
きかむかへなり、ほむるとわらふとは、其意大かたうらうへなるを、いかでか同じ言を通 はし用ふることのあらむ、おむかしは古ヘ言にて、書紀に徳ノ字また欣感などを、おむかしみすとよみ、續紀の宣命には、うむかし共見え、萬葉の歌には、おをはぶきて、むかし共よめり、此道まろといひしは、美濃ノ國多藝ノ郡榛木(ハリノキ)村の人にて、後は
尾張の名兒屋に住て、またなくふることを好み、人にも敎へて、ことに萬葉集を深く考へ得たる人になむ有ける、年はやゝこのかみなりしかども、宣長が弟子(ヲシヘノコ)になりて、二たび三たびはこゝにも來(キ)、つねはしばしばふみかよはしてなむ有けるを、今はむかしの人になむなりぬ る、大かたかの名兒屋に、いにしへ學びする人々の出來しは、此おきながみちびきよりぞはじまりける、
15 東宮をたがひにゆづりて[二七]
此里に、これも宣長がをしへ子に、須賀直見といひしは、いときなかりしほどより、からやまとの書をこのみよみて、いとよく學びて、歌をもよくよみ、物のさとりもいとかしこかりけるを、まだ四十にもならで、はやくみまかりぬ るは、いとあたらしきをのこになむ有ける、それがいへりしは、古今集の序の細註に、東宮をたがひにゆづりてとあるは、たれもいと心得ぬ いひざまなる、こは東宮とにぞ有けむを、ともじとをもじとよく似たれば、見誤りて書キつたへたる物なるべし、宇治ノ稚郎子をさして、東宮とは申せる也とぞいへりし、此考へにてよくきこえたり、
16 漢意[三五]
漢國には、おほよそ人の禍福(サキハヒワザハヒ)、國の治亂(ミダレヲサマル)など、すべて世ノ中のよろづの事は、みな天よりなすわざとして、天道天命天理などいひて、これをうへなく尊(タフト)く畏(オソ)るべきものぞすなる、さるはすべて漢國には、まことの道傳はらずして、萬の事はみな、神の御心御しわざなることをえしらざるが故に、みだりに造りまうけていへるものなり、そもそも天は、たゞ天つ神たちのまします御國のみにこそあれ、心ある物にあらざれば、天命などいふことあるべくもあらず、神を尊(タフト)み畏れずして、天をたふとみ畏るゝは、たとへば、いたづらに宮殿(ミヤトノ)をのみ尊みおそれて、其君を尊み畏るゝことをしらざるがごとし、然れ共、外ツ國には、萬ヅは神の御しわざなることをえしらざれば、此天道天理の説を信じ居(ヲ)らむも、さることなるを、皇國には、まことの道の正しき傳への有リながら、それをば尋ね思はずして、たゞ外ツ國のみだりなる説をのみ信じて、天といふことを、いみしき事に心得居て、萬ヅの事に、その理リをのみいふは、いかにぞや、又太極無極陰陽乾坤八卦五行など、ことごとしくこちたくいふなる事共も、たゞ漢國人のわたくしの造説(ツクリコト)にて、まことには其理とてはあることなし、然るに神の御典(ミフミ)をとくともがら、もはらこれらの理リをもて説(トク)なるは、いかなるしれわざぞや、近きころにいたりて、儒意をのぞきてとくと思ふ人も、なほ此天理陰陽などの説のひがことなるをば、えさとらず、其垣(カキ)ツ内を出デはなるゝことあたはざるは、なほ漢意の清くさらで、かれにまどへる夢の、いまだたしかにさめざる也、又天照大御神を、天津日にはあらずとするも、漢意の小(チヒサ)き理リにかゝはり泥(ナヅ)みて、まことの道の、微妙(タヘ)なる深きことわりあることを思はざるもの也、此大御神天津日にましまして、その御孫(ミマノ)命天より降り坐て、御國しろしめす御事は、人のちひさきさとりをもて、其理リは測(ハカ)りしらるべききはにあらず、おのが智(サトリ)もてはかりしることあたはざるをもて、其理なしとおもふは、例の小(チヒサ)きからごゝろなるをや、
17 又[三六]
漢國にも、神あることを、むげにしらざるにもあらず、尊みもし祀(マツ)りもすめるは、まことの傳への、かたはしは有しならむ、然れ共此天地をはじめ給ひ、國土(クニツチ)萬ノ物を造りなし給ひ、人の道をも萬の事をも始め給ひ、世ノ中のよろづの事をしり行ひ給ふ神たちのましますことをば、すべてえしらずして、これらの重(オモ)く大きなる事には、たゞ天をのみいひて、ただかたはらなる小(チイサ)き事にのみ、神をばいひて、此世を照し給ふ日ノ大御神をすら、かろがろしく、ことなることもなき物のごとくして、此神をもとも畏れ尊み奉るべきことをだにしらざるは、いとあさましきわざなりかし、
18 言をもじといふ事[三八]
歌のみそぢひともじを、近きころ古學するともがらは、字といふことをきらひて、卅一言といひ、五もじ七もじなどをも、五言七言とのみいふなれ共、古今集の序にも、みそもじあまりひともじと有て、いにしへよりかくいへり、すべてもじといふは、文字の字の音にて、御國言にはあらざれども、もんじといはずして、もじといへば、字の音共聞えず、御國言めきてきこゆる、此外にも、ほうし(ママ)ぜにふみなどのたぐひ、字の音をなほして、やがて御國言に用ひたる例多かり、されば古き物語ぶみなどにも、詞をことばといひてわろき所をば、もじといへることおほし、のもじをもじなどいふ類也、これらをも、近く古學の輩の、のの語をの語などいふなるは、中々にからめきてぞ聞ゆる、源氏物語などには、別 (ワカレ)といふことをすら、わかれといふもじといひ、葵ノ巻には、今はさるもじいませ給へなどあるも、さる詞といふこと也、かく詞といひてもよきをだに、もじといへることあれば、まして五もじ七もじのもじをもじなどのたぐひは、さら也、
19 あらたなる説を出す事[三九]
ちかき世、學問の道ひらけて、大かた萬ヅのとりまかなひ、さとくかしこくなりぬ るから、とりどりにあらたなる説を出す人おほく、其説よろしければ、世にもてはやさるゝによりて、なべての學者、いまだよくもとゝのはぬ ほどより、われおとらじと、よにことなるめづらしき説を出して、人の耳をおどろかすこと、今のよのならひ也、其中には、ずゐぶむによろしきことも、まれにはいでくめれど、大かたいまだしき學者の、心はやりていひ出ることは、たゞ人にまさらむ勝(カタ)むの心にて、かろがろしく、まへしりへをもよくも考へ合さず、思ひよれるまゝにうち出る故に、多くはなかなかなるいみしきひがことのみ也、すべて新なる説を出すは、いと大事也、いくたびもかへさひおもひて、よくたしかなるよりどころをとらへ、いづくまでもゆきとほりて、たがふ所なく、うごくまじきにあらずは、たやすくは出すまじきわざ也、その時には、うけばりてよしと思ふも、ほどへて後に、いま一たびよく思へば、なほわろかりけりと、我ながらだに思ひならるゝ事の多きぞかし、
20 音便の事[四一]
古語の中にも、いとまれまれに音便あれども、後の世のとはみな異なり、後ノ世の音便は、奈良の末つかたより、かつがつみえそめて、よゝをふるまゝに、やうやうにおほくなれり、そは漢字三音考の末にいへるごとく、おのづから定まり有て、もろもろの音便五くさをいでず、抑此音便は、みな正しき言にあらず、くづれたるものなれば、古書などをよむには、一つもまじふべきにあらざるを、後ノ世の物しり人、その本ノ語をわきまへずして、よのつねにいひなれたる音便のまゝによむは、なほざりなること也、すべて後ノ世には、音便の言いといと多くして、まどひやすし、本ノ語をよく考へて、正しくよむべき也、中にもんといふ音のことに多き、これもと古言の正しき音にあらず、ことごとく後の音便也とこゝろうべし、さてその音便のんの下は、本ノ語は清ム音なるをも、濁(ニゴ)らるゝ音なれば、皆かならず濁る例也、たとへばねもころといふ言を、後にはねんごろといふがごとし、んの下のこもじ、本ノ語は清ム音なるを、上のもをんといふにひかれて濁る、みな此格なり、然るを世の人、その音便のときの濁リに口なれて、正しくよむときも、ねもごろと、こをにごるはひがこと也、此例多し、心得おくべし、
21 からうたのよみざま[四五]
童蒙抄に、ある人北野にまうでて、東行南行雲眇々、二月三月日遲々、といふ詩を詠じけるに、すこしまどろみたる夢に、とさまにゆきかうさまにゆきてくもはるばる、きさらぎやよひ日うらうら、とこそ詠ずれと仰られけり云々とあり、むかしは詩をも、うるはしくはかくさまにこそよみあげけめ、詠(ナガ)むるはさらなり、いにしへはすべてからぶみをよむにも、よまるゝかぎりは、皇國言(ミクニコトバ)によめるは、字音(モジゴエ)は聞にくかりしが故也、然るを今はかへさまになりて、なべての詞も、皇國言よりは、字音なるをうるはしきことにし、書よむにも、よまるゝかぎりは、字音によむをよきこととすなるは、からぶみまなびのためには、字音によむかたよろしき故もあればぞかし、
22 大神宮の茅葺(カヤブキ)なる説[四七]
伊勢の大御神の宮殿(ミアラカ)の茅葺なるを、後世に質素を示す戒メなりと、ちかき世の神道者といふものなどのいふなるは、例の漢意にへつらひたる、うるさきひがこと也、質素をたふとむべきも、事にこそはよれ、すべて神の御事に、質素をよきにすること、さらになし、御殿(ミアラカ)のみならず、獻る物なども何も、力のたへたらんかぎり、うるはしくいかめしくめでたくするこそ、神を敬ひ奉るにはあれ、みあらか又獻り物などを、質素にするは、禮(ヰヤ)なく心ざし淺きしわざ也、そもそも伊勢の大宮の御殿の茅ぶきなるは、上つ代のよそひを重(オモ)みし守りて、變(カヘ)給はざる物なり、然して茅葺ながらに、その荘麗(イカメシ)きことの世にたぐひなきは、皇御孫(スメミマノ)命の、大御神を厚く尊み敬ひ奉り給ふが故也、さるを御(ミ)みづからの宮殿(ミアラカ)をば、美麗(ウルハシ)く物し給ひて、大御神の宮殿をしも、質素にし給ふべきよしあらめやは、すべてちかき世に、神道者のいふことは、皆からごゝろにして、古ヘの意にそむけりと知べし、
23 清水寺の敬月ほうしが歌の事[五七]
承久のみだれに、清水寺の敬月法師といひけるほうし、京の御方にて、官軍にくはゝり、宇治におもむきけるを、かたきにとらはれて、殺さるべかりけるに、歌をよみて、敵泰時に見せける、「勅なれば身をばすててきものゝふの八十宇治川の瀬にはたゝねど、かたき此歌にめでて、命ゆるして、遠流にぞしたりける、此事も同じ書に見ゆ、
玉勝間二の巻
櫻 の 落 葉 二
なが月の十日ごろ、せんざいの櫻の葉の、色こくなりたるが、物がなしきゆふべの風に、ほろほろとおつるを見て、よめる、
花ちりし同じ梢をもみぢにも
又ものおもふ庭ざくらかな
これをもひろひいれて、やがて巻の名としつ、
24 兩部唯一といふ事[七二]
天下の神社のうち、神人のみつかふる社を、俗(ヨ)に唯一といひ、法師のつかふる社を、兩部といふ、又兩部神道とて敎ふる一ながれもあり、兩部とは、佛の道の密敎の、胎藏界金剛界の兩部といふことを、神の道に合せたるを、兩部習合の神道といへり、かの兩部を以て、神道に合せたるよし也、部ノ字にて心得べし、神と佛とをさしていふ兩にはあらず、さて又唯一といふは、兩部神道といふもののあるにつきて、その兩部をまじへざるよし也、されば神の道の唯一なるは、もとよりの事ながら、その名は、兩部神道有ての後也、然るに此名を、兩部に對へたるにはあらず、天人唯一の義也といひなせるは、いみしきひがこと也、天と人とひとつ也とは、いかなることわりぞや、そはたゞ天をうへもなくいみしき物にすなる、漢意よりいひなしたることにて、いたく古ヘの意にそむけり、抑天は、天つ神たちのまします御國にこそあれ、人はいかでかそれと一つなることわりあらむ、世の物しり人みな、古ヘのこゝろをえさとらず、ひたぶるに漢意にまどへるから、何につけても、ことわり深げなることを説むとて、しひてかゝることをもいふにぞ有ける、
25 道にかなはぬ世中のしわざ[七三]
道にかなはずとて、世に久しく有リならひつる事を、にはかにやめむとするはわろし、たゞそのそこなひのすぢをはぶきさりて、ある物はあるにてさしおきて、まことの道を尋ぬ べき也、よろづの事を、しひて道のまゝに直しおこなはむとするは、中々にまことの道のこゝろにかなはざることあり、萬の事は、おこるもほろぶるも、さかりなるもおとろふるも、みな神の御心にしあれば、さらに人の力もて、えうごかすべきわざにはあらず、まことの道の意をさとりえたらむ人は、おのづから此ことわりはよく明らめしるべき也、
26 道をおこなふさだ[七四]
道をおこなふことは、君とある人のつとめ也、物まなぶ者のわざにはあらず、もの學ぶ者は、道を考へ尋ぬ るぞつとめなりける、吾はかくのごとく思ひとれる故に、みづから道をおこなはむとはせず、道を考へ尋ぬ ることをぞつとむる、そもそも道は、君の行ひ給ひて、天の下にしきほどこらし給ふわざにこそあれ、今のおこなひ道にかなはざらむからに、下なる者の、改め行はむは、わたくし事にして、中々に道のこゝろにあらず、下なる者はたゞ、よくもあれあしくもあれ、上の御おもむけにしたがひをる物にこそあれ、古ヘの道を考へ得たらんからに、私に定めて行ふべきものにはあらずなむ、
27 から國聖人の世の祥瑞といふもの[七六]
もろこしの國に、いにしへ聖人といひし者の世には、その德にめでて、麒麟鳳凰などいひて、ことごとしき鳥けだ物いで、又くさぐさめでたきしるしのあらはれし事をいへれども、さるたぐひのめづらしき物も、たゞ何となく、をりをりは出ることなるべきを、たまたま出ぬ れば、德にめでて、天のあたへたるごといひなして、聖人のしるしとして、世の人に、いみしき事に思はせたるもの也、よろづにかゝるぞ、かの國人のしわざなりける、
28 姓氏の事[七七]
今の世には、姓(ウヂ)のしられざる人のみぞおほかる、さるはいかなるしづ山がつといへども、みな古ヘの人の末にてはあるなれば、姓のなきはあらざンなる事なるを、中むかしよりして、いはゆる苗字をのみよびならへるまゝに、下々なるものなどは、ことごとしく姓と苗字とをならべてなのるべきにもあらざるから、おのづから姓はうづもれ行て、世々をへては、みづからだにしらずなれる也、さて後になりのぼりて、人めかしくなれる者などは、姓のなきを、物げなくあかぬ 事に思ひては、あるは藤原、あるは源平など、おのがこのめるを、みだりにつくこといと多し、すべて足利の末のみだれ世よりして、天の下の姓氏たゞしからず、皆いとみだりがはしくぞなれりける、その中に、近き世の人のなのる姓は、十に九つまでは、源藤原平也、そはいにしへのもろもろの氏々は絶て、此三氏(ミウヂ)のかぎり多くのこれるにやと思へば、さにはあらず、中昔よりして、此三うぢの人のみ、つかさ位 高きは有て、他(ホカ)のもろもろの氏人どもは、皆すぎすぎにいやしくのみなりくだれるから、其人は有リながら、其姓はおのづからかくれゆきて、をさをさしる人もなく、絶たるがごとなれる也、又ひとつには、近き世の人は、古ヘのもろもろの姓をば、しることなくして、姓はたゞ源平藤橘などのみなるがごと心得たるから、おのが好みてあらたにつくも、皆これらのうちなるが故に、古ヘもろもろの姓はきこえず、いよいよ源平藤は多くなりきぬ る也、又古ヘの名高くすぐれたる人をしたひては、その子孫ぞといひなして、學問するものは、菅原大江などになり、武士は多く源になるたぐひあり、すべて近き世は、よろしきほどの人々も、たゞ苗字をなんむねとはして、姓はかへりて、おもてにはたゝざるならひなる故に、おのが心にまかせて物する也、さて又ちかき年ごろ、萬葉ぶりの歌をよみ、古學をする輩は、又ふるき姓をおもしろく思ひて、世の人のきゝもならはぬ 、ふるめかしきを、あらたにつきてなのる者はた多かるは、かの漢學者の、からめかして、苗字をきりたちて、一字になすと同じたぐひにて、いとうるさく、その人の心のをさなさの、おしはからるゝわざぞかし、いにしへをしたふとならば、古ヘのさだめを守りて、殊にさやうに、姓などをみだりにはすまじきわざなるに、かの禍津日ノ前の探湯(クカダチ)をもおそれざンなるは、まことに古ヘを好むとはいはるべしやは、そもそも姓は、先祖より傳はる物にこそあれ、上より賜はらざるむかぎりは、心にまかせて、しかわたくしにすべき物にはあらず、まことに其姓にはあらずとも、中ごろの先祖、もしはおほぢ父の世より、なのり來(キ)てあらんは、なほさても有べきを、おのがあらたに物せむことは、いといとあるまじきわざになむ、姓しられざらんには、たゞ苗字をなのりてあらむに、なでふことかはあらん、すべて古ヘをこのまむからに、よろづをあながちに古ヘめかさむとかまふるは、中々にいにしへのこゝろにはあらざるものをや、
29 又[七八]
よに源平藤橘とならべて、四姓といふ、源平藤原は、中昔より殊に廣き姓なれば、さもいひつべきを、橘はしも、かの三うぢにくらぶれば、こよなくせばきを、此かぞへのうちに入ぬ るは、いかなるよしにかあらむ、おもふに嵯峨ノ天皇の御代に、皇后の御ゆかりに、尊みそめたりしならひにやあらむ、かくて此四姓のことは、もろこしぶみにさへいへる、そはむかしこゝの人の物せしが、語りつらむを聞て、しるしたンなるを、かしこまでしられたることと、よにいみしきわざにぞ思ふめる、すべて何事にまれ、こゝの事の、かしこの書に見えたるをば、いみしきことにおもふなるは、いとおろかなることなり、すべてかの國の書には、その國々の人の、語れる事を、きけるまゝにしるせれば、なにのめづらしくいみしきことかはあらむ、
30 神典のときざま[八五]
中昔よりこなた、神典(カミノミフミ)を説(トク)人ども、古ヘの意言(ココロコトバ)をばたづねむ物とも思ひたらず、たゞひたぶるに、外國(トツクニ)の儒佛の意にすがりて、其理をのみ思ひさだして、萬葉を見ず、むげに古ヘの意言(ココロコトバ)をしらざるが故に、かのから意(ゴコロ)のことわりの外に、別 (コト)にいにしへの旨(ムネ)ありて、明らかなることをえしらず、これによりて古ヘのむねはことごとくうづもれて、顯れず、神の御(ミ)ふみも、皆から意になりて、道明らかならざる也、かくておのが神の御書をとく趣は、よのつねの説どもとはいたく異にして、世々の人のいまだいはざることどもなる故に、世の學者、とりどりにとがむることおほし、されどそはたゞ、さきの人々の、ひたすら漢意にすがりて説(トキ)たる説(コト)をのみ聞なれて、みづからも同じく、いまだからごゝろのくせの清くさらざるから、そのわろきことをえさとらざるもの也、おのがいふおもむきは、ことごとく古事記書紀にしるされたる、古ヘの傳説(ツタヘゴト)のまゝ也、世の人々のいふは、みなそのまどひ居る漢意に説曲(トキマゲ)たるわたくしごとにて、いたく古ヘノ傳ヘ説(ゴト)と異也、此けぢめは、古事記書紀をよく見ば、おのづから分るべき物をや、もしおのが説をとがめむとならば、まづ古事記書紀をとがむべし、此御典(ミフミ)どもを信ぜんかぎりは、おのが説をとがむることえじ、
31 ふみよむことのたとへ[八九]
須賀ノ直見がいひしは、廣く大きなる書をよむは、長き旅路をゆくがごとし、おもしろからぬ 所もおほかるを經(ヘ)行ては、又おもしろくめさむるこゝちする浦山にもいたる也、又あしつよき人は、はやく、よわきはゆくことおそきも、よく似たり、とぞいひける、おかしきたとへなりかし、
32 あらたにいひ出たる説はとみに人のうけひかぬ事[九〇]
大かたよのつねにことなる、新しき説をおこすときには、よきあしきをいはず、まづ一わたりは、世中の學者ににくまれそしらるゝものなり、あるはおのがもとよりより來つる説と、いたく異なるを聞ては、よきあしきを味ひ考ふるまでもなく、始めよりひたぶるにすてて、とりあげざる者もあり、あるは心のうちには、げにと思ふふしもおほくある物から、さすがに近き人のことにしたがはむことのねたくて、よしともあしともいはで、たゞうけぬ かほして過すたぐひもあり、あるはねたむ心のすゝめるは、心にはよしと思ひながら、其中の疵をあながちにもとめ出て、すべてをいひけたむとかまふる者も有リ、大かたふるき説をば、十が中に七ツ八ツはあしきをも、あしき所をばおほひかくして、わづかに二ツ三ツのとるべき所のあるをとりたてて、力のかぎりたすけ用ひんとし、新しきは、十に八ツ九ツよくても、一ツ二ツのわろきことをいひたてて、八ツ九ツのよきことをも、おしけちて、ちからのかぎりは、我も用ひず、人にももちひさせじとする、こは大かたの學者のならひ也、然れども又まれまれには、新なる説のよきを聞ては、ふるきがあしきことをさとりて、すみやかに改めしたがふたぐひも、なきにはあらず、ふるきをいかにぞや思ひて、かくはあらじかとまでは思ひよれども、みづから定むる力なくて、疑はしながら、さてあるなどは、あらたなるよき説をきゝては、かくてこそはと、いみしくよろこびつゝ、たりまちにしたがふたぐひも有かし、大かた新なる説は、いかによくても、すみやかには用ふる人まれなるものなれど、よきは、年をへても、おのづからつひには世の人のしたがふものにて、あまねく用ひらるれば、其時にいたりては、はじめにねたみそしりしともがらも、心には悔しく思へど、おくればせにしたがはむも、猶ねたく、人わろくおぼえて、こゝろよからずながら、ふるきをまもりてやむともがらも多かり、しか世ノ中の論さだまりて、皆人のしたがふよになりては、始メよりすみやかに改めしたがひつる人は、かしこく心さとくおもはれ、ふるきにかゝづらひて、とかくとゞこほれる人は、心おそくいふかひなく思はるゝわざぞかし、
33 又[九一]
此ちかき年ごろとなりてはやうやうに古學のよきことを、世にもしれるともがらあまた出来て、物よくわきまへたる人は、おほく契沖をたふとむめり、そもそも契沖のよきことをしるものならば、かれよりもわが縣居ノ大人の、又まさりてよきことは、おのづからしるらんに、なほ契沖にしもとゞまりて、今一きざみえすゝまざるは、いかにぞや、又縣居ノ大人まではすゝめども、其後の人の説は、なほとらじとするも、同じことにて、これみな俗(ヨ)にまけをしみとかいふすぢにて、心ぎたなきわざなるを、かならず學者のこゝろは、おほくさるものなりかし、
34 儒者名をみだる事[九三]
孔丘は、名を正すをこそいみしきわざとはしつれ、此方(ココ)の近きころのじゆしやは、よろづに名をみだることをのみつとむめり、そが中に、地(トコロ)の名などを、からめかすとて、のべもつゞめもかへも心にまかせて物するなどは、なほつみかろかるべきを、おほやけざまにあづかれる、重き名どもをさへに、わたくしの心にまかせて、みだりにあらため定めて書クなるは、いともいとも可畏(カシコ)きわざならずや、近き世に或ル儒者の、今の世は、萬ヅ名正しからず、某(ソレ)をば、今はしかしかとはいふべきにあらず、しかしかいはむこそ正しけれ、などいひて、よろづを今の世のありさまにまかせて、例の私に物せるは、いかなるひが心得ぞや、そもそもかの孔丘が名を正せるやうは、諸侯どものみだりなる、當時(ソノトキ)のありさまにはかかはらずて、ひたぶるに周王のもとの定めをこそ守りつれ、かの或ル儒者のごと、古ヘよりのさだめにもかゝわらず、今の名にもしたがはず、たゞ今の世のありさまにまかせて、わたくしにあらたに物せむは、孔丘が春秋のこゝろとは、うらうへにて、ことさらに名をみだることの、いみしきものにこそ有けれ、皇國は、物のありさまは、古ヘとかはりきぬ るも、名は、物のうつりゆく、其時々のさまにはしたがはずして、今の世とても、萬ヅになほ古ヘのを守り給ふなるは、いともいとも有がたく、孔丘が心もていはば、名のいとただしきにこそありけれ、さるをかへりてただしからずとしもいふは、何につけても、あながちに皇國をいひおとさむとする心のみすゝめるからに、そのひがことなることをも、われながらおぼえざるなめり、
35 松嶋の日記といふ物[九七]
清少納言が年老て後に、おくの松嶋に下りける、道の日記とて、やがて松しまの日記と名づけたる物、一冊あり、めづらしくおぼえて、見けるに、はやくいみしき偽書(イツハリブミ)にて、むげにつたなく見どころなき物也、さるはちかきほど、古學をする者の作れる口つきとぞ聞えたる、すべて近き年ごろは、さるいつはりぶみをつくり出るたぐひの、ことに多かる、えうなきすさびに、おほくのいとまをいれ、心をもくだきて、よの人をまどはさんとするは、いかなるたぶれ心にかあらむ、よく見る人の見るには、まこといつはりは、いとよく見えわかれて、いちじるけれど、さばかりなる人は、いといとまれにして、えしも見わかぬ もののみ、世にはおほかれば、むげの偽リぶみにもあざむかれて、たふとみもてはやすなるは、いともいともかたはらいたく、かなしきわざ也、近きころは、世中にめづらしき書をえうずるともがら多きを、めづらしきは、まことの物ならぬ がおほきを、さる心して、よくえらぶべきわざぞかし、菅原ノ大臣のかき給へりといふ、須磨の記といふ物などは、やゝよにひろごりて、たれもまことと思ひたンめる、これはたいみしき偽リ書なるをや、かかるたぐひ數しらずおほし、なずらへて心すべし、
36 ふみども今はえやすくなれる事[一〇二]
二三十年あなたまでは、歌まなびする人も、たゞちかき世の歌ぶみをのみ學びて、萬葉をまなぶことなく、又神學者といふ物も、たゞ漢ざまの理をのみさだして、古ヘのまことのこゝろをえむことを思はねば、萬葉をまなぶことなくて、すべて萬葉は、歌まなびにも、道の學びにも、かならずまづまなばでかなはぬ 書なることを、しれる人なかりき、されば、契沖ほうし、むねと此集を明らめて、古ヘの意をもかつがつうかゞひそめて、はしばしいひおきつれども、歌人も神學者も、此しるべによるべきことをしれる人なかりしかば、おのがわかくて、京にありしころなどまでは、代匠記といふ物のあることをだにしれる人も、をさをさなかりければ、其書世にまれにして、いといとえがたく、かの人の書は、百人一首の改觀抄だに、えがたかりしを、そのかみおのれ京にて、始めて人にかりて見て、かはばやと思ひて、本屋(フムマキヤ)をたづねたりしに、なかりき、板本(スリマキ)なるにいかなればなきぞととひしかば、えうずる人なき故に、すり出さずとぞいへりける、さてとかくして、からくしてぞえたりける、そのころまでは、大かたかゝりけるに、此ちかき年ごろとなりては、寫本(ウツシマキ)ながら代匠記もおほく出て、さらにえがたからずなりぬ るは、古學の道のひらけて、えうずる人おほければぞかし、さるは代匠記のみにもあらず、すべてうつしまきなる物は、家々の記録などのたぐひ、その外の書どもも、いといとえがたかりしに、何も何も、今はたやすくえらるゝこととなれるは、いともいともめでたくたふとき、御代の御榮(ミサカ)えになん有ける、
37 おのが物まなびの有しやう[一〇三]
おのれいときなかりしほどより、書をよむことをなむ、よりづよりもおもしろく思ひて、よみける、さるははかばかしく師につきて、わざと學問すとにもあらず、何と心ざすこともなく、そのすぢと定めたるかたもなくて、たゞからのやまとの、くさぐさのふみを、あるにまかせ、うるにまかせて、ふるきちかきをもいはず、何くれとよみけるほどに、十七八なりしほどより、歌よままほしく思ふ心いできて、よみはじめけるを、それはた師にしたがひて、まなべるにもあらず、人に見することなどもせず、たゞひとりよみ出るばかりなりき、集どもも、古きちかきこれかれと見て、かたのごとく今の世のよみざまなりき、かくてはたちあまりなりしほど、學問しにとて、京になんのぼりける、さるは十一のとし、父におくれしにあはせて、江戸にありし、家のなりはひをさへに、うしなひたりしほどにて、母なりし人のおもむけにて、くすしのわざをならひ、又そのために、よのつねの儒學をもせむとてなりけり、さて京に在しほどに、百人一首の改觀抄を、人にかりて見て、はじめて契沖といひし人の説をしり、そのよにすぐれたるほどをもしりて、此人のあらはしたる物、餘材抄勢語臆斷などをはじめ、其外もつぎつぎに、もとめ出て見けるほどに、すべて歌まなびのすぢの、よきあしきけぢめをも、やうやうにわきまへさとりつ、さるまゝに、今の世の歌よみの思へるむねは、大かた心にかなはず、其歌のさまも、おかしからずおぼえけれど、そのかみ同じ心なる友はなかりければ、たゞよの人なみに、ここかしこの會などにも出まじらひつゝ、よみありきけり、さて人のよむふりは、おのが心には、かなはざりけれども、おのがたててよむふりは、今の世のふりにもそむかねば、人はとがめずぞ有ける、そはさるべきことわりあり、別 にいひてん、さて後、國にかへりたりしころ、江戸よりのぼれりし人の、近きころ出たりとて、冠辭考といふ物を見せたるにぞ、縣居ノ大人の御名をも、始めてしりける、かくて其ふみ、はじめに一わたり見しには、さらに思ひもかけぬ 事のみにして、あまりこととほく、あやしきやうにおぼえて、さらに信ずる心はあらざりしかど、猶あるやうあるべしと思ひて、立かへり今一たび見れば、まれまれには、げにさもやとおぼゆるふしぶしもいできければ、又立かへり見るに、いよいよげにとおぼゆることおほくなりて、見るたびに信ずる心の出來つゝ、つひにいにしへぶりのこゝろことばの、まことに然る事をさとりぬ 、かくて後に思ひくらぶれば、かの契沖が萬葉の説(トキゴト)は、なほいまだしきことのみぞ多かりける、おのが歌まなびの有リしやう、大かたかくのごとくなりき、さて又道の學びは、まづはじめより、神書といふすぢの物、ふるき近き、これやかれやとよみつるを、はたちばかりのほどより、わきて心ざし有しかど、とりたててわざとまなぶ事はなかりしに、京にのぼりては、わざとも學ばむと、こゝろざしはすゝみぬ るを、かの契沖が歌ぶみの説になずらへて、皇國のいにしへの意をおもふに、世に神道者といふものの説(トク)おもむきは、みないたくたがへりと、はやくさとりぬ れば、師と賴むべき人もなかりしほどに、われいかで古ヘのまことのむねを、かむかへ出む、と思ふこゝろざし深かりしにあはせて、かの冠辭考を得て、かへすかへすよみあぢはふほどに、いよいよ心ざしふかくなりつゝ、此大人をしたふ心、日にそへてせちなりしに、一年此うし、田安の殿の仰セ事をうけ給はり給ひて、此いせの國より、大和山城など、こゝかしこと尋ねめぐられし事の有しをり、此松坂の里にも、二日三日とゞまり給へるを、さることつゆしらで、後にきゝて、いみしくゝちをしかりしを、かへるさまにも、又一夜やどり給へるを、うかゞひまちて、いといとうれしく、いそぎやどりにまうでて、はじめて見え奉りたりき、さてつひに名簿を奉りて、敎ヘをうけ給はることにはなりたりきかし、
38 あがたゐのうしの御さとし言[一〇四]
宣長三十あまりなりしほど、縣居ノ大人のをしへをうけ給はりそめしころより、古事記の注釋を物せむのこゝろざし有て、そのことうしにもきこえけるに、さとし給へりしやうは、われももとより、神の御典(ミフミ)をとかむと思ふ心ざしあるを、そはまづからごゝろを清くはなれて、古ヘのまことの意をたづねえずはあるべからず、然るにそのいにしへのこゝろをえむことは、古言を得たるうへならではあたはず、古言をえむことは、萬葉をよく明らむるにこそあれ、さる故に、吾はまづもはら萬葉をあきらめんとする程に、すでに年老て、のこりのよはひ、今いくばくもあらざれば、神の御ふみをとくまでにいたることえざるを、いましは年さかりにて、行さき長ければ、今よりおこたることなく、いそしみ學びなば、其心ざしとぐること有べし、たゞし世ノ中の物まなぶともがらを見るに、皆ひきゝ所を經ずて、まだきに高きところにのぼらんとする程に、ひきゝところをだにうることあたはず、まして高き所は、うべきやうなければ、みなひがことのみすめり、此むねをわすれず、心にしめて、まづひきゝところよりよくかためおきてこそ、たかきところにはのぼるべきわざなれ、わがいまだ神の御ふみをえとかざるは、もはら此ゆゑぞ、ゆめしなをこえて、まだきに高き所をなのぞみそと、いとねもころになん、いましめさとし給ひたりし、此御さとし言の、いとたふとくおぼえけるまゝに、いよいよ萬葉集に心をそめて、深く考へ、くりかへし問ヒたゞして、いにしへのこゝろ詞をさとりえて見れば、まことに世の物しり人といふものの、神の御ふみ説(トケ)る趣は、みなあらぬ から意のみにして、さらにまことの意はええぬものになむ有ける、
39 おのれあがたゐの大人の敎をうけしやう[一〇五]
宣長、縣居ノ大人にあひ奉りしは、此里に一夜やどり給へりしをり、一度のみなりき、その後はたゞ、しばしば書かよはしきこえてぞ、物はとひあきらめたりける、そのたびたび給へりし御こたへのふみども、いとおほくつもりにたりしを、ひとつもちらさで、いつきもたりけるを、せちに人のこひもとむるまゝに、ひとつふたつととらせけるほどに、今はのこりすくなくなんなりぬ る、さて古事記の注釋を物せんの心ざし深き事を申せしによりて、その上つ巻をば、考へ給へる古言をもて、假字がきにし給へるをも、かし給ひ、又中ツ巻下ツ巻は、かたはらの訓を改め、所々書キ入レなどをも、てづからし給へる本をも、かし給へりき、古事記傳に、師の説とて引たるは、多く其本にある事ども也、そもそも此大人、古學の道をひらき給へる御いさをは、申すもさらなるを、かのさとし言にのたまへるごとく、よのかぎりもはら萬葉にちからをつくされしほどに、古事記書紀にいたりては、そのかむかへ、いまだあまねく深くはゆきわたらず、くはしからぬ 事どももおほし、されば道を説(トキ)給へることも、こまかなることしなければ、大むねもいまださだかにあらはれず、たゞ事のついでなどに、はしばしいさゝかづゝのたまへるのみ也、又からごゝろを去(サ)れることも、なほ清くはさりあへ給はで、おのづから猶その意におつることも、まれまれにはのこれるなり、
40 師の説になづまざる事[一〇六]
おのれ古典(イニシヘブミ)をとくに、師の説とたがへること多く、師の説のわろき事あるをば、わきまへいふこともおほかるを、いとあるまじきことと思ふ人おほかンめれど、これすなはちわが師の心にて、つねにをしへられしは、後によき考への出來たらんには、かならずしも師の説にたがふとて、なはゞかりそとなむ、敎ヘられし、こはいとたふときをしへにて、わが師の、よにすぐれ給へる一つ也、大かた古ヘをかむかふる事、さらにひとり二人の力もて、ことごとくあきらめつくすべくもあらず、又よき人の説ならんからに、多くの中には、誤リもなどかなからむ、必わろきこともまじらではえあらず、そのおのが心には、今はいにしへのこゝろことごとく明らか也、これをおきては、あるべくもあらずと、思ひ定めたることも、おもひの外に、又人のことなるよきかむかへもいでくるわざ也、あまたの手を經(フ)るまにまに、さきざきの考ヘのうへを、なほよく考へきはむるからに、つぎつぎにくはしくなりもてゆくわざなれば、師の説なりとて、かならずなづみ守るべきにもあらず、よきあしきをいはず、ひたぶるにふるきをまもるは、學問の道には、いふかひなきわざ也、又おのが師などのわろきことをいひあらはすは、いともかしこくはあれど、それもいはざれば、世の學者その説にまどひて、長くよきをしるごなし、師の説なりとして、わろきをしりながら、いはずつゝみかくして、よさまにつくろひをらんは、たゞ師をのみたふとみて、道をば思はざる也、宣長は、道を尊み古ヘを思ひて、ひたぶるに道の明らかならん事を思ひ、古ヘの意のあきらかならんことをむねと思ふが故に、わたくしに師をたふとむことわりのかけむことをば、えしもかへり見ざることあるを、猶わろしと、そしらむ人はそしりてよ、そはせんかたなし、われは人にそしられじ、よき人にならむとて、道をまげ、古ヘの意をまげて、さてあるわざはえせずなん、これすなはちわが師の心なれば、かへりては師をたふとむにもあるべくや、そはいかにもあれ、
41 わがをしへ子にいましめおくやう[一〇七]
吾にしたがひて物まなばむともがらも、わが後に、又よきかむかへのいできたらむには、かならずわが説にななづみそ、わがあしきゆゑをいひて、よき考へをひろめよ、すべておのが人ををしふるは、道を明らかにせむとなれば、かにもかくにも、道をあきらかにせむぞ、吾を用ふるには有ける、道を思はで、いたづらにわれをたふとまんは、わが心にあらざるぞかし、
42 五十連音をおらんだびとに唱へさせたる事[一〇八]
小篠大記御野(ミヌ)といふ人は、石見ノ國濱田の殿のじゆしやにて、おのが弟子(ヲシヘノコ)也、天明八年秋のころ、肥前ノ國の長崎に物して、阿蘭陀人(オランダビト)のまうで來てあるに逢いて、音韻の事どもを論じ、皇國の五十音の事をかたりて、そを其人にとなへさせて聞しに、和のくだりの音をば、みな上にうを帶て、ゐはういの如く、ゑはうえのごとく、をはうおのごとくに呼て、いえおとはひとしからず、よく分れたり、こは何をもて然るぞと問ヒしかば、はじめの和にならへば也とぞいへりける、かの國のつねの音も、このけぢめありとぞ、此事おのが字音かなづかひにいへると、全くあへりとて、いみしくよろこびおこせたりき、なほそのをりの物がたりども、何くれといひおこせたりし中に、おかしき事どもあれど、こゝにはもらしつ、
玉勝間三の巻
た ち ば な 三
立よればむかしのたれと我ながら
わが袖あやしたちばなのかげ
これは題よみのすゞろごとなるを、とり出たるは、ことされめきて、いかにぞやもおぼゆれど、例の巻の名つけむとてなむ、
43 から國にて孔丘が名をいむ事[一一二]
もろこしの國に、今の清の代に、その王が、孔子の諱(イミナ)を避(サク)とて、丘ノ字の畫を省(ハブ)きてかくことをはじめて、秦漢より明にいたるまで、夫子を尊むことをしらざりしといひて、いみしげにみづからほこれども、これいとをこなること也、もしまことに孔丘をたふとむとならば、其道をこそよく行ふべきことなれ、その道をば、全くもおこなはずして、たゞいたづらに、其人のみをたふとまんは、なにのいみしき事かあらむ、其道をだによく行ひなば、いにしへよりいむことなくて有リ來つる、其もじは、今さらいまずとて、なでふこたかあらむ、これたゞ道をたふとみがほして、世の人にいみしく思はせむためのはかりこと也、すべてかの國人のしわざは、大かたいにしへよりかくのごとくにて、聖賢といふ物をたふとむを、いみしき事にすなるは、みなまことに尊むにはあらず、名をむさぼるしわざ也、
44 から人のおやのおもひに身をやつす事[一二二]
もろこしの國の、よゝの物しり人どもの、親の喪(オモヒ)に、身のいみしくやつれたるを、孝心ふかき事にして、しるしたるがあまたある中には、まことに心のかなしさは、いとさばかりもあらざりけむを、食物をいたくへらしなどして、痩(ヤセ)さらぼひて、ことさらにかほかたりをやつして、いみしげにうはべを見せたるがおほかりげに見ゆるは、例のいといとうるさきわざなるを、いみしき事にほめたるも又をこ也、うせにし親を、まことに思ふ心ふかくは、おのが身をも、さばかりやつすべき物かは、身のやつれに、病などもおこりて、もしはからず、なくなりなどもしたらむには、孝ある子といふべしやは、たとひさまでにはいたらずとも、しかいみしくやつれたらむをば、苔の下にも、おやはさこそこゝろぐるしく思はめ、いかでかうれしとは見む、さる親の心をば思はで、たゞ世の人めをのみつくろひて、名をむさぼるは、何のよき事ならむ、すべて孝行も何わざも、世にけやけきふるまひをして、いみしき事に思はするは、かの國人のならひにぞありける、
45 富貴をねがはざるをよき事にする諭ひ[一二三]
世々の儒者、身のまづしく賤きをうれへず、とみ榮えをながはず、よろこばざるを、よき事にすれども、そは人のまことの情(ココロ)にあらず、おほくは名をむさぼる、例のいつはり也、まれまれにさる心ならむもの有とも、そは世のひがものにこそあれ、なにのよき事ならん、ことわりならぬ ふるまひをして、あながちにながはむこそは、あしからめ、ほどほどにつとむべきわざを、いそしくつとめて、なりのぼり、富(トミ)さかえむこそ、父母にも先祖にも、孝行ならめ、身おとろへ家まづしからむは、うへなき不孝にこそ有けれ、たゞおのがいさぎよき名をむさぼるあまりに、まことの孝をわするゝも、又もろこし人のつねなりかし、
46 神の御ふみをとける世々のさま[一三三]
神御典(カミノミフミ)を説(トク)事、むかしは紀傳道の儒者の職(ワザ)にて、そのとける書、弘仁より代々の、日本紀私記これ也、そはいづれも、たゞ漢學の餘力(チカラノアマリ)をもて考へたるのみにして、神御典(カミノミフミ)をまはら學びたるものにあらざるが故に、古ヘの意詞(ココロコトバ)にくらく、すべてうひうひしく淺はかにて、もとより道の趣旨(オモムキ)も、いかなるさまとも説(トキ)たることなく、たゞ文によりて、あるべきまゝにいへるばかり也、然れども皇朝のむかしの儒者は、すべてから國のやうに、己が殊にたてたる心はなかりし故に、神の御ふみをとくとても、漢意にときまげたる、わたくし説(ゴト)もをさをさ見えず、儒意(ジュゴコロ)によれる強説(シヒゴト)もなくて、やすらかにはありしを、後ノ世にいたりては、ことに神學といふ一ながれ出來て、もはらにするともがらしあれば、つぎつぎにくはしくはなりもてゆけど、なべての世の物しり人の心、なまさかしくなりて、神の御ふみをとく者も、さかしらをさきにたてて、文のまゝには物せず、おのが好むすぢに引つけて、あるは儒意に、ときまぐることとなれり、さていよいよ心さかしくなりもてゆくまゝに、近き世となりては、又やうやうに、かの佛ごゝろをまじふるが、ひがことなることをさとりて、それをば、ことごとくのぞきてとくこととなれり、然れどもそれは、まことに古ヘの意をさとりて然るにはあらず、たゞ儒意のすゝめるから、いとへるもの也、さる故に、近き世に、神の道とて説(トク)趣は、ひたすら儒にして、さらに神の道にかなはず、このともがら、かの佛に流れたることのひがことをばしりながら、みづから又儒にながるゝことを、えさとらざるは、いかにぞや、かくして又ちかき世には、しか儒によることのわろきをも、やゝしりて、つとめてこれをのぞかんとする者も、これかれとほのめくめれども、それはたいまだ清く漢意をはなるゝことあたはで、天理陰陽などいふ説をば、なほまことと心得、ともすれば、例のさかしらの立いでては、高天ノ原を帝都のこととし、天照大御神を、天つ日にあらずとし、海神(ワタツミ)ノ宮を、一つの嶋也とするたぐひ、すべてかやうに、おのがわたくしの心をもて、さまざまに説曲(トキマゲ)ることをえまぬ かれざるは、なほみな漢意なるを、みづからさもおぼえざるは、さる癖(クセ)の、世の人のこゝろの底に、しみつきたるならひぞかし、
玉勝間四の巻
わ す れ 草 四
からぶみの中に、とみにたづぬべき事の有て、思ひめぐらすに、そのふみとばかりは、ほのかにおぼえながら、いづれの巻のあたりといふこと、さらにおぼえねは、たゞ心あてに、こゝかしことたづぬ れど、え見いでず、さりとていとあまたある巻々を、はじめよりたづねもてゆかむには、いみしくいとまいりぬ べければ、さもえ物せず、つひにむなしくてやみぬるが、いとくちをしきまゝに、思ひつゞける、
ふみみつる跡もなつ野の忘草老てはいとゞしげりそひつゝ
もとより物おぼゆること、いとともしかりけるを、此ちかきとしごろとなりては、いとゞ何事も、たゞ今見聞つるをだに、やがてわすれがちなるは、いといといふかひなきわざになむ、
47 故郷[一五五]
旅にして、國をふるさとといふは、他國(ヒトノクニ)にうつりて住る者などの、もと住し里をいへるにこそあれ、たゞゆきかへるよのつにの旅にていふは、あたらぬ 事也、されば萬葉集古今集などの歌には、しかよめるはいまだ見あたらず、萬葉などには、ゆきかへる旅にては、國をは、國又は家などこそよみたれ、然るを後の世には、おしなべて故郷といひならひて、つねのことなれば、なべては今さらとがむべきにもあらざれども、萬葉ぶりの歌には、なほ心すべきことなるに、今の人心つかで、なべてふるさととよむなるは、いかゞとこそあぼゆれ、
48 うき世[一五六]
うきよは、憂(ウ)き世といふことにて、憂(ウ)き事のあるにつきていふ詞也、古き歌どもによめるを見て知べし、然るをからぶみに、浮世(フセイ)といふこともあるにまがひて、つねに浮世(ウキヨ)とかきならひて、たゞ何となく世ノ中のことにいふは誤り也、古歌を見るにも、憂(ウ)きといふに心をつけて見べし、
49 世の人かざりにはからるゝたとひ[一六五]
皇國と外國とのやうを、物にたとへていはば、皇國の古ヘは、かほよき人の、かたち衣服(キモノ)をもかざらず、たゞありにてあるが如く、外國は、醜(ミニク)き女の、いみしく髪かほをつくり、びゝしき衣服(キモノ)を着(キ)かざりたるがごとくなるを、遠(トホ)くて見る時は、まことのかたちのよきあしきは、わかれずして、たゞそのかざりつくろへるかたぞ、まさりて見ゆめるを、世の人、ちかくよりて、まことの美醜(ヨキアシ)きを見ることをしらず、たゞ遠目(トホメ)にのみ見て、外國のかざりをしも、うるはしと思ふは、いかにぞや、すべて漢國などは、よろづの事、實(マコト)はあしきが故に、それをおほひかくさむとてこそ、さまざまにかざりつくるには有けれ、
50 ひとむきにかたよることの論ひ[一六七]
世の物しり人の、他(ヒト)の説(トキゴト)のあしきをとがめす、一(ヒト)むきにかたよらず、これをもかれをもすてぬ さまに論(アゲツラヒ)をなすは、多くはおのが思ひとりたる趣をまげて、世の人の心に、あまねくかなへむとするものにて、まことにあらず、心ぎたなし、たとひ世ノ人は、いかにそしるとも、わが思ふすぢをまげて、したがふべきことにはあらず、人のほめそしりにはかかはるまじきわざぞ、大かた一むきにかたよりて、他説(アダシトキゴト)をば、わろしととがむるをば、心せばくよからぬ こととし、ひとむきにはかたよらず、他説(アダシトキゴト)をも、わろしとはいはぬ を、心ひろくおいらかにて、よしとするは、なべての人の心なめれど、かならずそれさしもよき事にもあらず、よるところ定まりて、そを深く信ずる心ならば、かならずひとむきにこそよるべけれ、それにたがへるすぢをば、とるべきにあらず、よしとしてよる所に異(コト)なるは、みなあしきなり、これよければ、かれはかならずあしきことわりぞかし、然るをこれもよし、又かれもあしからずといふは、よるところさだまらず、信ずべきところを、深く信ぜざるもの也、よるところさだまりて、そを信ずる心の深ければ、それにことなるずぢのあしきことをば、おのづからとがめざることあたはず、これ信ずるところを信ずるまめごゝろ也、人はいかにおもふらむ、われは一むきにかたよりて、あだし説をばわろしととがむるも、かならずわろしとは思はずなむ、
51 前後と説のかはる事[一六八]
同じ人の説(トキゴト)の、こゝとかしことゆきちがひて、ひとしからざるは、いづれによるべきぞと、まどはしくて、大かた其人の説、すべてうきたるこゝちのせらるゝ、そは一わたりはさることなれ共、なほさしもあらず、はじめより終リまで、説のかはれることなきは、中々におかしからぬ かたもあるぞかし、はじめに定めおきつる事の、ほどへて後に、又ことはるよき考への出來るは、つねにある事なれば、はじめとかはれることあるこそよけれ、年をへてがくもむすゝみゆけば、説は必ズかはらでかなはず、又おのがはしめの誤リを、後にしりながらは、つゝみかくさで、きよく改めたるも、いとよき事也、殊にわが古學の道は、近きほどよりひらけそめつることなれば、すみやかにことごとくは考へつくすべきにあらず、人をへ年をへてこそ、つぎつぎに明らかには成リゆくべきわざなれば、一人のときごとの中にも、さきなると後なると異なることは、もとよりあらではえあらぬ わざ也、そは一人の生(イキ)のかぎりのほどにも、つぎつぎに明らかになりゆく也、さればそのさきのと後のとの中には、後の方をぞ、其人のさだまれる説とはすべかりける、但し又みづからこそ、初めのをばわろしと思ひて、改めつれ、又のちに人の見るには、なほはじめのかたよろしくて、後のは中々にわろきもなきにあらざれば、とにかくにえらびは、見む人のこゝろになむ、
52 人のうせたる後のわざ[一八八]
人の死(ウセ)たる後のわざ、上ツ代にはいかに有けむ、神代に天若日子(アメワカヒコ)のみうせにし時、八日八夜遊(アソブ)と有て、樂(ウタマヒ)して遊びし事などの、わづかに見えたるのみにして、こまかなる事は、すべて知がたし、但し音樂して遊びしことは、なべてのさだまり也、そのよしは古事記ノ傳にいへるがごとし、さて死(シニ)を穢(ケガレ)とすることは、神代より然り、されどそれも、日數のかぎりの定まりしは、後なるべし、又忌服は、から國をまねびたる、後の事也、書紀の仁徳天皇の御巻に、素服といふ字など見えたれど、例の漢文のかざりにこそあれ、そのかみさる事有しにあらず、仲哀天皇崩(カムアガ)りましまして、いくほどもなく、神功皇后の、重き御神わざの有しにても、服なかりけむことしられたり、そもそも漢國に、喪服といふことのかぎりを、こまやかにさだめたるは、ねもころなるに似たれども、中々に心ざし淺き、うはべのこと也、親などにおくれたらんかなしさは、その月の其ころまでと、きはやかにかぎりの有べきわざにはあらざるに、しひてかぎりをたてて、きはやかに定めたるは、かの國のなべてのくせにて、いひもてゆけば、人にいつはりを敎るわざ也、親を思ふ心の淺からむ子は、三年をまたで、はやくかなしさはさめぬ べきに、なほ服をきて、かなしきさまをもてつけ、又こゝろざし深からんは、三とせ過たらむからに、かなしさはやむべきならぬ に、ぬぎすてて、なごりなくしなさむは、ともにうはべのいつはりにあらずや、さるを皇國に比服といふことのなかりしは、きはやかなるかぎりのなきかなしさのまゝなるにて、長くもみじかくも、これぞまことにかなしむには有でる、服はきざれども、かなしきはかなしく、きても、かなしからぬ はかなしからねば、いたづらごと也、さればかの國にても、漢の文帝といひし王は、こよなく服をちゞめたりしを、儒者は、いみしくよからぬ ことに、もどきいへども、ことわりある事ぞかし、皇國にならひまねばれたるにも、ちゞめて、おやのをも、一とせと定められたり、さるはいと久しく、身のつとめをかゝむも、えうなきいたづらごとなれば、かなしながらに、出てつかへんに、なでふことかあらむ、さてかくいふは、服てふ事のありなしの、本のあげつらひにこそあれ、ふでにその御おきてのあるうへは、かたく守りて、をかすまじき物ぞかし、すべて何わざも、いにしへをたふとまむともがら、おのが心にふさはしからず思はむからに、今の上の御おきてにたがひて、まもらざらんは、いみしくかしこきわたくし也かし、
53 櫻を花といふ事[一九〇]
たゞ花といひて櫻のことにするは、古今集のころまでは、聞えぬ事なり、契沖ほうしが餘材抄に、くはしくいへるがごとし、源氏ノ物語若菜ノ上の巻に、梅の事をいふとて、花のさかりにならべて見ばやといひる事あり、これらはまさしく櫻を分て花といへり、
54 為兼卿の歌の事[二〇九]
六條ノ内大臣有房公の野守の鏡の序に云ク、此ごろ為兼ノ卿といへる人、先祖代々の風(フウ)をそむき、累世家々の義をやぶりて、よめる歌ども、すべてやまと言の葉にもあらず、と申侍しかど、かの卿は、和歌のうら風、たえず傳はりたる家にて侍れば、さだめてやうこそあらめ、と思ひ侍しほどに、くはしくとふ事もなくてやみにき、今又これをうれへ給へるにこそ、まことのあやまりとは思ひしり侍ぬ れといふにかの僧あざわらひて、堯舜の子、柳下惠がおとゝ、皆おろかなりしうへは其家なればとて、かならずしもかしこかるべきにあらず、又佛すでに、わが法をば、我弟子うしなふべしとて、獅子の身の中の蟲の、獅子をはむにたとへさせ給へり、そのむねにたがはず、内外の法みな、其道をつたふる人、其義をあやまるより、すたれゆく事にて侍れば、歌の道も、歌の家よりうせむ事、力なきことにて侍る、かの卿は、御門の御めぐみ深き人にて侍るなるに、これをそしりて、みつしほのからき罪に申シしづめられん事も、よしなかるべきわざにて侍れば、くはしく其あやまりを申しがたし、たゞこの略頌にて心得給へ、それ歌は、心をたねとして、心をたねとせず、心すなほにして、心すなほにせず、ことばをはなれて、ことばをはなれず、風情をもとめて、風情をもとめず、姿をならひて、すがたをならはず、古風をうつして、古風をうつさざる事にてなん侍る、を申すに云々、
55 もろこしの經書といふものの説とりどりなる事[二一一]
もろこしの國の、經書といふ物の注釋、漢よりよゝのじゆしやのと、宋の代の儒者のと、そのおもむきいたく異なること多く、又其後にも、宋儒の説を、ことごとくやぶりたるも有リ、そもそも經書は、かの國の道を載せたる書にて、うへもなく重き物なめれば、そのむね一ツに定まらではかなはぬ 事なるに、かくのごとく昔より定まりがたく、とりどりなれば、ましてそのほかの事の、善惡是非(ヨサアシサ)のいさゝかなるけぢめをば、いかでかよく定めうべきぞ、たゞ皇國のいにしへのごと、おほらかに定めて、くだくだしき論ひには及ばぬ こそ、かへりてまさりてはありけれ、又かの宋儒の、格物致知窮理のをしへこそ、いともいともをこなれ、うへなく重き經書のむねをだに、よく明らめつくすことあたはずして、よよに其説とりどりなるものを、萬の物の理リを、誤りなくは、いかでかよくわきまへつくす事をえん、かへすかへすをこ也、
56 もろこし人の説こちたくくだくだしき事[二一二]
すべてもろこし人の物の論ひは、あまりくだくだしくこちたくて、あぢきなきいたづら言(ゴト)多し、宋儒の論ひを、こちたしとてそしる儒者も多けれど、それもたゞいさゝか甚しからぬ のみにこそあれ、然いふものもなほこちたし、
57 初學の詩つくるべきやうを敎ヘたる説[二一七]
ちかきころあるじゆしやの書る物を見れば、初學(ウヒマナビ)の輩の、から歌を作るべきさまを敎ヘたる中にいへるやう、所詮(ショセン)作りならひに、二三百もつくる間(アヒダ)の詩は、社外の人に示すべきにまあらず、後に詩集に収録すべきにもあらざれば、古人の詩を、遠慮なく剽竊して、作りおぼえ、なほ具足しがたくは、唐詩礎明詩礎詩語碎錦などやうの物にて、補綴して、こしらゆるがよき也といへるは、まことによきをしへざま也、歌よむも、もはらさる事にて、はじめよりおのが思ふさまを、あらたによみ出むとすれば、歌のやうにもあらぬ 、ひがことのみ出來て、後までも、さるくせののぞこりがたき物なれば、うひまなびのほどは、詞のつゞきも、心のおもむきも、たゞふりたる跡によりてぞ、よみならふべきわざ也ける、
58 歌は詞をえらぶべき事[二一八]
童蒙抄に、「水のおもにてる月なみをかぞふればこよひぞ秋のもなかなりける、もなかとよめるを、時の人、和歌の詞とおぼえずと難じけるを、歌がらのよければ、えらびにいれりとあり、
59 兼好法師が詞のあげつらひ[二三一]
けんかうほうしがつれづれ草に、花はさかりに、月はくまなきをのみ見る物かはとかいへるは、いかにぞや、いにしへの歌どもに、花はさかりなる、月はくまなきを見たるよりも、花のもとには、風をかこち、月の夜は、雲をいとひ、あるはまちをしむ心づくしをよめるぞ多くて、こゝろ深きも、ことにさる歌におほかるは、みな花はさかりをのどかに見まほしく、月はくまなからむことをおもふ心のせちなるからこそ、さもえあらぬ を歎きたるなれ、いづこの歌にかは、花に風をまち、月に雲をねがひたるはあらん、さるをかのほうしがいへるごとくなるは、人の心にさかひたる、後の世のさかしら心の、つくり風流(ミヤビ)にして、まことのみやびごゝろにはあらず、かのほうしがいへる言ども、此たぐひ多し、皆同じ事也、すべてなべての人のねがふ心にたがへるを、雅(ミヤビ)とするは、つくりことぞおほかりける、戀に、あへるをよろこぶ歌は、こゝろふかゝらで、あはぬ をなげく歌のみおほくして、こゝろ深きも、逢見むことをねがふから也、人の心は、うれしき事は、さしもふかくはおぼえぬ ものにて、たゞ心にかなはぬことぞ、深く身にしみてはおぼゆるわざなるは多きぞかし、然りとて、わびしくかなしきを、みやびたりとてねがはむは、人のまことの情(ココロ)ならめや、又同じほうしの、人はよそぢにたらでしなむこそ、めやすかるべけれといへるなどは、中ごろよりこなたの人の、みな歌にもよみ、つねにもいふすぢにて、いのち長からんことをねがふをば、心ぎたなきこととし、早く死ぬ るを、めやすきことにいひ、此世をいとひすつるを、いさぎよきこととするは、これみな佛の道にへつらへるものにて、おほくはいつはり也、言にこそさもいへ、心のうちには、たれかはさは思はむ、たとひまれまれには、まことに然思ふ人のあらんも、もとよりのまごゝろにはあらず、佛のをしへにまどへる也、人のまごゝろは、いかにわびしき身も、はやくしなばやとはおもはず、命をしまぬ ものはなし、されば萬葉などのころまでの歌には、たゞ長くいきたらん事をこそねがひたれ、中ごろよりこなたの歌とは、そのこゝろうらうへなり、すべて何事も、なべての世の人のま心にさかひて、ことなるをよきことにするは、外國(トツクニ)のならひのうつれるにて、心をつくりかざれる物としるべし、
60 うはべをつくる世のならひ[二三二]
うまき物くはまほしく、よきゝぬきまほしく、よき家にすままほしく、たからえまほしく、人にたふとまれまほしく、いのちながゝらまほしくするは、みな人の眞心(マゴコロ)也、然るにこれらを皆よからぬ 事にし、ねがはざるをいみしきことにして、すべてほしからず、ねがはぬかほするものの、よにおほかるは、例のうるさきいつはりなり、又よに先生などあふがるゝ物しり人、あるは上人などたふとまるゝほうしなど、月花を見ては、あはれとめづるかほすれども、よき女を見ては、めにもかゝらぬ かほして過るは、まことに然るにや、もし月花をあはれと見る情(ココロ)しあらば、ましてよき女には、などかめのうつらざらむ、月花はあはれ也、女の色はめにもとまらずといはんは、人とあらむものの心にあらず、いみしきいつはりにこそ有けれ、しかはあれども、よろづにうはべをつくりかざるは、なべてのよのならひにしあれば、これらは、いつはりとて、さしもとがむべきにはあらずなん、
61 學者のまづかたきふしをとふ事[二三四]
物まなぶともがら、物しり人にあひて、物とふに、ともすればまづ、古書の中にも、よにかたきこととして、たれもときえぬ ふしをえり出て、とふならひ也、たとへば書紀の齋明御巻なる童謠、萬葉にては、一の巻なる莫囂圓隣云々と書る歌、などやうのたぐひなり、かうやうのかたきことを、まづ明らめまほしく思ふも、學者のなべての心なれども、しからばやすき事どもは、皆よくあきらめしれるかと、こゝろむれば、いとたやすき事どもをだに、いまだえよくもわきまへず、さるものの、さしこえて、まづかたきふしをかきらめんとするは、いとあぢきなきわざ也、よく聞えたりと思ひて、心もとゞめぬ ことに、思ひの外なるひがこゝろえの多かる物なれば、まづたやすき事を、いく度もかへさひかむかへ、とひも明らめて、よくえたらん後にこそ、かたきふしをば、思ひかくべきわざなれ、
玉勝間五の巻
枯野のすゝき五
秋過て、草はみながらかれはてて、さびしき野べに、たゞ尾花のかぎり、心長くのこりて、むらむらたてるを、あはれと見て、よめる、
かれぬべきかれ野の尾花かれずあるをかれずこそ見めかれぬかぎりは、かゝるすゞろごとをさへに、とり出たるは、みむ人、をこに思ふべかめれど、よしやさばれとてなん、
62 あやしき事の説[二四〇]
もし人といふもの、今はなき世にて、神代にさる物ありきと記して、その人といひし物のありしやう、まづ上つかたに、首(カシラ)といふ所有て、その左リ右に、耳といふもの有て、もろもろの聲をよくきゝ、おもての上つ方に、目といふ物二つありて、よろづの物の色かたちを、のこるくまなく見あきらめ、その下に、鼻といふものも有て、物のかをかぎ、又下に、口と云フ物ありて、おくより聲の出るを、くちびるをうごかし、舌をはたらかすまゝに、その聲さまざまにかはりて、詞となりて、萬の事をいひわけ、又首(カシラ)の下の左リ右に、手といふもの有て、末に岐(マタ)ありて、指(オヨビ)といふ、此およびをはたらかして、萬ヅのわざをなし、萬の物を造り出せり、又下つかたに、足といふ物、これも二つ有て、うがかしはこべば、百重(モモヘ)の山をものぼりこえて、いづこまでもありきゆきつ、かくて又胸(ムネ)の内に隠(カク)れて、心(ココロ)といふ物の有つるこはあるが中にも、いとあやしき物にて、色も形もなきものから、上の件(クダリ)耳の聲をきゝ、目の物を見、口のものいひ、手足のはたらくも、皆此心のしわざにてぞ有ける、さるに此人といひし物、ある時いたくなやみて、やうやうに重(オモ)りもてゆくほどに、つひにかのよろづのしわざ皆やみて、いさゝかうごくこともせずなりてや(止)みにき、と記したらむ書を、じゆしやの見たらむには、例の信ぜずして、神代ならんからに、いづこのさるあやしき事かあるべき、すべてすべて理リもなく、つたなき寓言にこそはあれ、とぞいはむかし、
63 歌の道 さくら花[二六一]
しき嶋の道又歌の道といふこと、後の世には常まれど、古今集ノ序を見るに、かの御世や歌のこゝろをしろしめしたりけむ云々、こゝにいにしへのことをも、歌のこゝろをも、しれる人云々、人まろなくなりにたれど、歌のこととゞまれるかななどあるは、後の世の文なりせば、かならず歌の道とぞいはましを、かく歌のこゝろ、歌のことなどいひて、道とはいはず、眞字序には、斯(コノ)道とも吾道ともあるを、かな序には、すべて歌に道といはること見えず、又櫻の花を、さくら花といふこと、これも後の世にはつねなれど、古今集には、詞書には、いづこもいづこも、さくらの花と、のもじをそへてのみいひて、たゞにさくらばなといへることは、歌にこそあれ、詞には一つも見えず、おほかたこれらになずらへて、歌よまむにも、文かゝむにも、古ヘと後ノ世とのけぢめ、又漢文と御國文とのけぢめあること、又歌と詞とかはれることもあるなどを、いさゝかのことにも、心をどゞめて、わきまふべきわざぞ、こは古今集をよむとて、ふと心つけるまゝに、おどろかしおく也、
64 いせ物語眞名本の事[二七四]
伊勢物語に、眞名本といふ本あり、萬葉の書キざまにならひて、眞字(マナ)して書たる物也、六條ノ宮ノ御撰と、はじめにあげたれば、その親王(ミコ)の御しわざかと、見もてゆけば、あらぬ 僞(イツハリ)にて、後の物也、まづすべての字(モジ)のあてざま、いとつたなくして、しどけなく正しからず、心得ぬ ことのみぞ多かる、そが中に、闇(クラ)うを苦勞(クラウ)、指之血(オヨビノチ)を及後(オヨビノチ)などやうにかけるは、たはぶれ書キにて、萬葉にもさるたぐひあり、又東(アヅマ)を熱間(アツマ)、云々にけりを迯利(ニケリ)など書るも、清濁こそたがへれ、なほゆるさるべきを、なんといふ辭に、何ノ字を用ひ、ぞに社、とに諾ノ字を用ひたるたぐひ、こと心得ず、しかのみならず、思へるを思惠流(オモエル)、給へを給江(タマエ)、又こゝへかしこはなどのへをも、みな江(エ)とかき、身をも、これをやなどの、をもをやといふ辭を、面 親(オモオヤ)と書、忘(ワスレ)を者摺(ハスレ)と書るなど、これらの假字は、今の世とても、歌よむほどのものなどは、をさをさ誤ることなきをだに、かく誤れるは、むげに物かくやうをもわきまへしらぬ 、えせもののしわざと見えて、眞字(マナ)はすべてとりがたきもの也、然はあれども、詞は、よのつねの假字ほんとくらべて考ふるに、たがひのよきあしきところ有て、かな本のあしきに、此本のよきも、すくなからず、そを面 へば、これもむかしの一つの本なりしを、後に眞名には書キなしたるにぞ有べき、されば今も、一本にはそなふべきもの也、然るにいといと心得ぬ ことは、わが縣居ノ大人の、此物語を解(トカ)れたるには、よのつねの假字本をば、今本といひて、ひたふるにわろしとして、此眞名本をしも、古本といひて、こちたくほめて、ことごとくよろしとして用ひ、ともすれば此つたなき眞字(マナ)を、物の鐙(アカシ)にさへ引れたるは、いかなることにかあらん、さばかり古ヘの假字の事を、つねにいはるゝにも似ず、此本の、さばかり假字のいたくみだれて、よにつたなきなどをも、いかに見られけむ、かへすかへすこゝろえぬ ことぞかし、さて又ちかきころ、ある人の出せる、舊本といふなる、眞名の本も一つ有リ、それはかのもとのとは、こよなくまさりて、大かた今の京になりての世の人の、およびが
たき眞字の書キざまなる所多し、さればこれもまことのふるき本(マキ)にはあらず、やがて出せる人の、みづからのしわざにぞ有ける、然いふ故は、まづ今の京となりての書(フミ)どもは、すべて假字の清濁は、をさをさ差別 (ワキ)なく用ひたるを、此本は、ことごとく清濁を分ケて、みだりならず、こは近く古學てふこと始まりて後の人ならでは、さはえあらぬ こと也、又かきつばたといふ五言を、句の頭にすゑてとかける、これむかし人ならば、五もじとこそいふべきを、五言といひ、歌のかへしを和歌(カヘシ)、瀧を多藝(タギ)、十一日を十麻里比止日(トヲマリヒトヒ)と書るたぐひ、時代(トキヨ)のしなを思ひはからざるしわざ也、十一日など、此物語かけるころとなりては、十一日とこそ書べけれ、たとひなごめてかくとも、とをかあまりひとひとこそ書クべけれ、それをあまりのあをはぶけるは、古學者のしわざ、又とをかのかをいはざるは、さすがにいにしへのいひざまをしらざるなり、又うつの山のくだりに、よのつねの本には、修行者あひたりとあるを、此本には、修行者仁逢有(ニアヒタリ)と、仁(ニ)てふ辭をそへたるなども、古ヘの雅言(ミヤビゴト)の例をしらぬ 、今の世の俗意(サトビゴコロ)のさかしら也、かゝるひがことも、をりをりまじれるにて、いよいよいつはりはほころびたるをや、
65 いせ物がたりをよみていはまほしき事ども一つ二つ[二八〇]
初のくだり、男のきたりける云々、男ののもじひがこと也、眞名本になぞよろしき、男のとては、云々(シカシカ)して歌を書てやる事、女のしわざになる也、月やあらぬ てふ歌の條(クダリ)、ほいにはあらで、此詞聞えず、眞字本に、穗(ホ)にはとあるも、心ゆかず、ほにはいでずなどこそいへ、ほにはあらでなどは、聞つかぬ こゝちす、猶もじの誤リなどにや、うつの山のところ、わがいらむとする道は、いとくらう細きに、つたかへではしげりて云々、かへではのはは、てにをは也、上の道はのはと重ねて、かうやうにいふ、一つの格(サマ)也、「秋はきぬ 紅葉は屋どにふりしきぬ道ふみ分てとふ人はなしなど、三つも重ねていへる、此類多し、眞名本に葉と書るによりて、然心得ては、いとつたなき文になる也、「君がためたをれる枝は云々、此歌は、君にわが心ざしの深きにかなひて、春ながらも、秋のごとく色ふかく染たり、といふ意なるべし、注どもに、秋といふ言になづみて、女の心のうつろふことにこゝろえたるはいかゞ、さてはかへしの歌めづらしげなし、又女の心をうたがふべきよしも、上の詞に見えず、「いでていなば心かろしと云々、此出ていぬ るは、女とはおしはからるれども、上の文のさま、女とも男とも分りがたし、いさゝかなる事につけてといへる上に、女とあるべき文也、さて此歌の次に、云々此女とあるは、心得ず、此女といふこと、こゝに有ては、聞えず、こゝは男とあるべきところ也、かくのごとくまぎらはしきによりて、或人は、出ていにしは、女にあらず、男也といへれども、すべてのさま、男の出ていにしとは聞えず、又男にしては、かの此女とあるは、よくかなへれども、下なる「人はいさの歌の次に此女いと久しう云々とある、此女てふこと、彼ノ男とあらではかなはず、「つゝ井づゝ云々、妹見ざるまには、妹が見ざるまに也、妹を見ざるまにはあらず、上におのが長(タケ)だちの事をいへるにて、それを妹が見ざるまになること知ルべし、さて此ノ條(クダリ)は、下に、かの女やまとのかたを見やりてとも、やまと人云々ともあれば、井のもとみあそびたりしも、大和ノ國にての事也、さればはじめに、むかしやまとの國に、などあるべきことなるに、たゞゐなかわたらひしける人と、のみにては、京の人とこそ聞ゆれ、よろこびてまつに、度々過ぬ ればといへる所、詞たらず、其故は、まつにといふまでは、たゞ一度のさまをいへる文なるに、たびたび過とつゞけていひては、俄也、さればこは、よろこびてまつにこず、さること度々なりければ、などやうに有べき所なり、むかし男かたゐなかに住けり、眞名本に、昔男女とあるぞよき、男とのみにては、次なる男といふこともあまり、又まちわびたりけるにといふも、上に女といふことなくては、聞えず、「梓弓眞弓つき弓云々、此歌、初メ二句、いかなる意にか、さらにきこえず、又眞名本に、神言忠令見とかけるは、もとより借字ながら、いとつたなき書ざま也、下句は、むかしわがうるはしみせしが如く、今の男に、うるはしみせよといへる也、「見るめなきわが身を云々、此歌のこと、古今集の遠鏡にいへり、さて此歌をこゝに出せるは、下句、はしの詞にかなはず聞ゆ、又色このみなる女といふことも、こゝに有べき詞にあらず、これらによりて思ふに、これは、「秋の野にてふうたの次に、おほく詞落て、もと上とは別 條(ベツクダリ)にぞ有けむ、ええずなりにけることと、わびたりける人の云々、眞名本には、わびを慙とかけり、ともにかなへりとも聞えず、歌によりて思ふに、おぶらひたりける人の、など有べきにや、「おもほえず袖に云々、袖に湊のといふこと、聞えず、又眞名本に、袖に浪渡(ナミダ)のと書るは、下句とむげにかけあはず、ひがこと也、浪渡は、異所(コトトコロ)にもかく書て涙也、されば思ふに、こは袖の湊のなるべし、たとひ袖の湊といふ名所はなくとも、涙の深きことを、下ノ句の縁に、然いひつべきもの也、のをにに誤れるなるべし、女の手あらふところに云々、こゝの文きこえず、眞名本にて聞えたり、但しかの本も、なく影のうつりけるを見ててふ下に、女といふことなくてはいかゞ、たち聞ても、彼本にきゝつけてとあるぞよき、「水口に我や云々、此歌の初二句の注ども、いづれもいさゝかたがへり、こはさだめてわが泣(ナク)影も、ともに見えやすらんといへる也、かやうに見ざれば、下句にかなはず、わが影のみゆるにやあらむといふとはこと也、「ならはねば云々、此歌、詞たらはで、聞えぬ 歌なり、とかくなまめくあひだに、かのいたる螢を云々、かくては、なまめくは、いたるにはあらで、異(コト)人と聞えていかゞ、とかくなまめきつゝ、螢をとりて、などこそ有べけれ、此ほたるのともす火にや云々、こゝは眞名本に、此螢の、ともしびにや似(ニ)むと思ひて、けちなんとすとて、男よめる、とあるぞよろしき、但し上に、車なりける人とあれば、下なる男といふことは、なくてあらまほし、もし又、ともし火にやにんと思へるを、女の心とせば、思ひければ、などこそ有ルべけれ、思ひてといひては、かなはず、「出ていなばたれか別 れの云々、此歌、上と下と縁なし、又はしの詞にもいとうとし、眞名本に初ノ句、いとひてはとあるも聞えず、又眞名本に、此歌の次に、女辺爾付而、「いづくまでおくりは云々、此歌もをさなし、なほおもひてこそ、聞えず、眞字本に、なほざりにとあるにて聞ゆ、今の翁まさにしなんやは、為(シ)なんやにてさるすける物思ひをば為(シ)なんやの意なり、死なんやにては、からうして息出たり、といふにかなはず、「いでていなばかぎりなるべし云々、いにしへの人も、かばかりつたなき歌よみけるにや、これは上にいふべかりけるを、おとしたる也、なほはたえあらざりける中なりければ、此詞あまりて聞ゆ、眞名本には、さりとてはた、いかではえあらざりける中なりければと有、心にとゞめてよますはらに云々、聞えぬ こと也、眞字本は聞ゆ、うまのはなむけせんとて、人をまちけるに云々、人をといふこと、あまれり、眞字本にはなし、但し上なる、物へいく人にといふ詞の、なき本もあり、それは人をまちけるにてよろし、又男、「行水と過るよはいと云々、此歌此ノ條(クダリ)にかなはず、眞名本になきぞよき、又男女のしのびありきしける云々、此詞も、此くだりにかなはず、人しれぬ 物思ひけり、此詞いたづら也、むかし心つきて云々、心つきて、聞えず、眞名本に、榮而とあるも心得ず、田からんとては、男の事にて、此男の田からむとてあるを見て、といふ意也、かくてものいたくやみて云々、此事、上の詞歌に似つかず、別 條(コトクダリ)なりしが、詞共落て、亂れたるなるべし、昔としごろ音づれざりける女、昔の下に、男のといふことなくては、たらず、又よさりこの有つる云々の上にも、その男、或はその人など有べきこと也、「これやこの我に云々、此歌、あふみをといふこと、聞えず、近江にいひかけたりとせんも、しひごとなり、もし然らば、上に近江ノ國のことなくては、とゝのはず、又下句も、これやこのといへるにかなはず、むかしよごゝろつける女云々、これは、女にてはかなはず、眞名本に、嫗女(オンナ)とあるぞよろしき、假字の亂れたるより、かゝるまぎれも有也、女はを、嫗はおの假字にて、分るゝ也、又つけるといふ詞もいかゞ、眞名本に、世營とかけり、よごゝろあると訓(ヨム)べし、色好む心のある老女也、あひえてしも、同本に、あひ見てしとあるよろし、その次の詞も、かの本よろし、出たつけしきは、男のなさけ有て、嫗のがりゆかむと思ひて、出たつ也、いづくなりけん、けんといふ詞いかゞ、いづくなるらんと、などあるべきにや、もし又けんをたすけていはば、物語の地の詞として、いづくにての事なりけんと見べし、昔男いせの國なりける女云々、眞字本に、女乎(ヲ)とあるよろし、むかしそこには云々、眞字本に、昔男とあり、むかし男、いせの國にゐていきて云々、こは本トは、いせの國なる女に、京にゐていきて云々、と有しが、にもじの重なれるによりて、京にといふことの、後に落たる也、次なる歌ども、必ズ伊勢なる女とこそ聞えたれ「いはまより云々、此歌の四の句、ときえたる人なし、しほひしほみちは、とまれかくまれといふ意なるを、海の詞にていへるのみ也、今はともかくもあれ、末つひにはかひ有て、逢ふこともあらんといへる也、けふの御わざを題にてのけふのは、その日のとあるべきこと也、やよひのつごもりに、その日云々、その日といへる詞、いたづらにてつたなし、紅葉のちくさに見ゆるをり、此詞いかゞ、眞名本になきぞよき、もみぢもとあらば、有てもよからんか、板敷のしたに、したはしもなるべし、板敷のうちのしもつかたをいふなり、板じきのしたには、人の居るべきにもあらず、みちの國にいきたりけるにとは、此物語の作者(ツクリヌシ)の、みづから行たるよしにや、もし此歌よめる翁の事ならば、かの翁といふこと、みちの國にの上になくてはいかゞ也、かりはねんごろにもせで、上に狩に來ませるよしをいはざれば、此詞ゆくりなく聞ゆ、これによりて思ふに、櫻花を見ありくを、櫻がりといふなれば、此條に狩といへるは、皆櫻がりの事にやあらん、上にも下にも、たゞ櫻のことをのみいへれば、かたののなぎさの家その院の云々、こは聞えぬ 詞也、眞名本に、かたののなぎさの院のと有よろし、かのうまのかみよみて奉りける、かのうまのかみといふこと、なくてあらまほし、「思へども身をし分ねばは、分ケぬ にといふ意也、此例古き歌には多し、身を分るは、身を二つにわくる也、めかれせぬ は、雪故にえかへらで、そこにあるをいふ、さてそれを、わが本意也といへる也、「今までに云々、とてやみにけりといふ詞、上に心ざしはたさむとや思ひけむ、といへるに、かなへりとも聞えず、此くだり、眞字本はよくきこえたり、昔男ありけり、いかゞ有けむ、その男云々は、眞名本に、昔男女云々とあり、さらではたらず、さてやがて後つひに、此所詞重なりて、くだくだし、眞名本には、さてつひにと有、さてこゝは、作者(ツクリヌシ)の語なれば、けふ迄といへるもいかゞ也、然れば、さて後つひによくてやあらん云々、とこそ有べけれ、むくつけきことといふより、おはぬ ものにやあらんといふまでは、のろひごとを評(サダ)したる語也、むくつけきことは、むくつけきことよといふ意也、かくて今こそ見めといふ一句は、さかでうちたる男の、のろひていへる言なるを、評(サダ)する語の中へ引出ていへる也、よき酒ありときゝて、此下に詞落たる也、さらでは、下にその日はといへるも、より所なし、こゝろみにその落たる詞をおぎなはば、よきさけ有リときゝて、うへにありける人々、のまんとてきけり、左中弁云々、などや有けむ、あるじのはらからなるの下に、男などあらまほし、なくなりにけるを、眞名本に、なくなりたる女をと有、よろし、かへし「下ひもの云々、又かへし「戀しとは云々、かへし「下ひもの云々とあり、よろし、今はさることにげなく云々、たれともなくて、かくいへること聞えず、眞名本には、なま翁の今は云々と有リ、よろし、されど歌の上に、中將なりける翁とあるはわろし、かの翁とこそいふべけれ、又は上を、中將なりける翁いまはさること云々といひて、歌の所には、何ともいはでも有リなん、大鷹のたかがひを、眞名本に、大方之(オホカタノ)鷹飼とあるは、ひがこと也、西宮記にも、鷹飼ノ王卿、大鷹飼ハ者、着ス二地摺ノ獵衣ヲ一、綺ノ袴玉 帶、鷂飼者(コタカガヒハ)云々とある、こゝによくかなへるをや、昔みかど住吉に云々、此條すべて詞たらず、他條(コトクダリ)の例に似ず、「我見てもの歌も、たが歌ともわきまへがたく、大神の現形も俄也、他條の例にならひていはば、昔男、みかどの住吉に行幸し給ひける、御供につかうまつりてよめる、「我見ても云々、とよめりければ、大神云々、などこそ有べけれ、「むつましと云々の歌は、何事ぞや、二の句を、君はしたずやとすれば、大かた聞ゆるやうにはあれど、猶いとつたなし、むかし男久しう云々、眞名本に、いへりければの下に、女とあり、むかし女の、あだなる男の云々、女のののもじ、ひがこと也、すべてのてふ辭は、心得有て、おくべき所と、必ズおくまじきところとのあることなるを、これはさるわきまへをもしらぬ 、後の人の、何心もなくくはへたるなるべし、眞名本に、女のといふことなし、それも女といふことたらず、むかし男、女のまだ世へずと云々、此くだり詞とゝのはず、物聞えたるを、後に聞て、などこそ有べけれ、
66 業平ノ朝臣のいまはの言の葉[二八二]
古今集に、やまひして、よわくなりにける時よめる、なりひらの朝臣、「つひにゆく道とはかねて聞しかどきのふけふとは思はざりしを、契沖いはく、これ人のまことの心にて、をしへにもよき歌也、後々の人は、死なんとするきはにいたりて、ことごとしきうたをよみ、あるは道をさとれるよしなどよめる、まことしからずして、いとにくし、たゞなる時こそ、狂言綺語をもまじへめ、いまはとあらんときにだに、心のまことにかへれかし、此朝臣は、一生のまこと、此歌にあらはれ、後の人は、一生の僞リをあらはして死ぬ る也といへるは、ほうしのことばにもにず、いといとたふとし、やまとだましひなる人は、法師ながら、かくこそ有けれ、から心なる神道者歌學者、まさにかうはいはんや、契沖法師は、よの人にまことを敎ヘ、神道者歌學者は、いつはりをぞしふなる、