今日(7月24日)は、関東大震災から東京を復興させた「国家の医師」後藤新平の生誕158回目の日です。
後藤新平は苦学して医師となり、その後、内務省衛生局長、台湾総督府民生長官、南満州鉄道総裁などを歴任、政治の世界に転じ、逓信大臣、内務大臣、外務大臣、東京市長などを務め、1923年9月1日に発生した関東大震災の翌日に成立した第2次山本権兵衛内閣の内務大臣兼帝都復興院総裁として東京復興計画策定を指揮、現在のNHKが創設された際には東京放送局長も務めた程の人物です。
今から100年前の東京復興計画においては、時代をこえた事業構想力をもって、東京を世界に通用する偉大な都市に改造しようと100年先の未来を見据え“見果てぬ夢”を追いかけた男といわれています。
「3・11」東日本大震災から4年以上が経っても現れない、自ら泥をかぶって計画を実行に移す強いリーダーを求める時、私達は“近代日本の羅針盤”とも言われ、当時日本人離れした壮大なビジョンとして「人の生命と健康を守る」人中心の機能をそなえた「都市作り」を打ち上げ、“大風呂敷”と強く批評された後藤新平を思い浮かべるのです。
10歳にして論語を学んだ新平は、12歳に肥後熊本藩出身の大参事(副知事)安場保和の給仕の職を得ます。
「あの少年には、みどころがある。きっと大物になるだろう」
安場は新平を引き立て、横井小楠の「政治は、万民のためを判断基準とする王道を歩むべきで、権謀術数による覇道は排すべきだ」という言葉を良く口にしていたそうです。
このパブリックの精神が後の新平の核を作り上げていきます。
その後、地元の医学校で猛勉強し医師となった新平は、24歳で愛知県病院長となります。
翌年、自由党総裁の板垣退助が暴漢に襲われた事件で新平はその手当てにあたり、板垣は新平の人物を見抜き、政治家への道を進めたそうです。
26歳のとき「個々の病人をなおすより、国をなおす医者になりたい」という思いの元、新平は内務省衛生局に入りますが、33歳でドイツに留学、帰国後衛生局長となり、東京の下水道整備をはじめとする公衆衛生行政の基礎を築くと共に、日清戦争の帰還兵のためのコレラ上陸阻止プロジェクトで世界的な実績をあげ、1898年から8年間、台湾総督府民政局長を務めることになります。
「台湾はいま病人としてよこたわっている。これを健康体にすることが自らの使命である」
「民心の安定なくして統治なし」
「生物学の原則でやる」
当時、日本による台湾経営は、地元有力者とつながった抗日ゲリラの跳梁跋扈、治安維持の機能停止、深刻な阿片吸飲の習慣といったことから、財政は破綻寸前で危機的状態でした。
こうした状況下で新平は、台湾の風土、風習、風俗などを十分に理解し、現地住民を尊重した上で、それまでの軍人統治とはまったく違うやり方で思い切った政策を次々に打ち出し、台湾を蘇らせていきます。
― 投降し、協力する場合には、罪を問わず、抵抗する場合には軍事力で制圧する、という硬軟両様の抗日ゲリラ・土匪対策。さらに地元民からなる「自治組織」への武器提供。
― 現地社会がメリットを感じることができる、鉄道、道路、水道、病院、教育施設など社会インフラへの大型投資。
― 新渡戸稲造を口説いて米国から呼び戻し、農業政策を抜本的に見直し。その献策に基づいた近代的製糖業育成策。
― 上記のような政策を実行する資金を確保すべく、政府・議会を動かして、公債発行法案発効、台湾銀行設立。
台湾での実績を買われた新平は、1906年に日露戦争の勝利で得た南満州鉄道の初代総裁となり、満州の「都市づくり」や鉄道立ち上げに取り組むことになります。
「妄想するよりは活動せよ。
疑惑するよりは活動せよ。
話説するよりは活動せよ。」
新平は漢学、近代科学、西洋哲学・政治学といった多岐に渡る広範の学問的教養を備えており、植民地経営の際には、農業、工業など諸分野の優秀な人材を抜擢・登用し、都市計画を考える際には、科学的分析と社会学的考察の両方の視点を持ち、機能的かつ美しい都市を長い時間軸で作るという発想を得ていたと思われます、
そのため、こうした教育的バックボーンと広範な知見をベースにした上で、即断即決の行動力を発揮するリーダーの姿は、今の混沌とした21世紀の日本において、強く求められるに違いないのです。
1920年には汚職で疲弊しきっていた東京市の市長となり、1923年の関東大震災には山本権兵衛内閣のもとで、帝都復興院総裁として震災後の復興にあたり、帝都建設に着手します。
しかし、権利意識ばかりが強い反対勢力によるすさまじい抵抗にあい、新平の構想が大きく縮小されていきますが、結果的には、後世に昭和通り、日比谷通り、晴海通りなどの主要幹線道路が復興案に従って建設され、東京市長時代からの構想であった環状線計画は、この21世紀に至っても未だに建設が続いています。
昭和天皇は、自ら体験した関東大震災の60年後に、つぎのようなお言葉を遺しています。
「震災ではいろいろな体験はありますが、… 復興にあたって後藤新平が非常に膨大な復興計画を立てた。
もし、それがそのまま実行されていたら、おそらく東京の戦災(東京大空襲)は非常に軽かったんじゃないかと思って、
いまさら後藤新平のあのときの計画が実行されなかったことを非常に残念に思います。」
新平は終生こう言い続けました。
「国家は生きものである」
もしも国が病にかかったら治す手立てを講じなければならないし、その “血管”である道路網や鉄道網、それに下水道の整備も不可欠と考えるのは、如何にも医師らしい発想です。
「地震は何度でもやってくる」
「大きな被害を出さないため、公園と道路をつくる」
100年先の日本を見据えた災害対策についても、新平の変わらぬ哲学が脈々と息づいています。
あれこれ想像して懐疑的になったり、先の見えない問題に捉われて前に進めずにいたり、人と議論ばかりして何も結論が出ないままいるのではなく、具体的な結果を出すためにとにかく行動せよ、活動せよという新平の言葉は、今の私達にも強く響いてきます。
新平の悪い評価ばかりをあれこれ物知り顔で言うのは簡単です。
しかし、挫折しながらでも終生何かを残そうとした前向きな姿勢に、私達ははるかに多くのものを学ぶべきでしょう。
新平が示していた「自治三訣」の書にはこうあります。
「人のお世話にならぬよう、
人のお世話をするよう、
そしてむくいを求めぬよう」
“近代日本の羅針盤”と呼ばれ、明治・大正のリベラルアーツと呼ばれた後藤新平に私達が学ぶべきことは数多あります。