明治維新からの見落とし!教育とは何かの原点回帰を始めよう!

明治維新は日本の大きな転換点でありグローバル化の一歩として評価されていますが、私達はそこに大きな落とし穴があったことにも気付くべきです。
今回は、その落とし穴の経緯と原点回帰の重要性について触れてみたいと思います。

明治維新に起きたこと。
それは、260年以上の天下泰平な世界が、近代西洋文明でパンデミック化されたということです。
これは、今の時代では想像もできないくらいの大きな衝撃でした。
衝撃的で価値観がひっくり返るくらいの驚きは恐れと畏敬を生み、やがてそこからくるギャップにより卑屈さ、自己卑下、自己軽蔑へと変遷していくものです。
しかもそれは一個人の深層心理としてだけでなく、日本全体の群集心理・大衆心理という形で更に複雑化していきます。
畏怖畏敬や卑屈さは、反面で西洋文明に追いつき追い越せという自負心、自尊心を喚起させ、死に物狂いでその対象を意識するようになっていきました。
結果はご存知のとおりです。

しかし明治時代においては、江戸時代までに受け継がれてきた長い歴史や伝統に培われた自尊心や自負心がまだ残っていたため、西洋文明に対しての尊敬と猛追の意識があったにしても、精神や道徳という観点においては西洋人には譲らない確たる芯があったはずです。
要は、日本古来の歴史的伝統的精神・道徳の元に、西洋の知識や技術を習合(取り入れる)すればよいという自覚や信念を抱いていたはずなのです。
それがどういう訳か大正時代に移ると、西洋かぶれというか西洋崇拝のような方向に傾いていき、それが西洋を真似た帝国主義、植民地主義を踏襲するという歪んた形になっていく訳です。
その反動はそのまま昭和の時代に出てくることとなり、異様なまでの国粋主義、熱にうかれたような愛国主義が台頭し、結果大いなる敗戦という顛末を迎えてしまいました。
こうした心理状態は、来年(2015年)には敗戦70年を迎えるという今の時代にあっても尚残っており、過去を忘れて同じようなことが繰り返される萌芽があちこちで芽生えつつあることを危惧しています。

では、こうした傾向はどう変えていけばよいのでしょう?
ここからは、私なりの私案をまとめてみたいと思います。

その発端は明治維新以降の教育制度にあると、私は考えます。
当時は、西洋文明に追いつき追い越せで必要な知識や技術を習得した人材が大量に必要でした。
そのため、それまで続いてきた寺子屋や私塾だけではとても賄えないということで、欧米並みの大規模な学校をつくり、高い技能を持った人材を養成しようとしたのです。
・必要な人材を育成するために大学を作ったものの、一足飛びでいきなり大学に入れて教育する訳にはいかない。
・そのため、その前段の高等学校を設けるものの、それだけでも足りないので、更にその前段の中学校、小学校をひとつの教育体系として設置する。
・そのため、国民は皆最終目標の大学に入るために、小学校、中学校、高等学校といったそれぞれの準備機関でその目標に向かって○×式の均一化した勉強体系を習い、その順位を争うことに蒙昧していく。
これが、今だに続いている学校教育というものです。
確かに、当時は天下泰平な社会から急激に西洋文明に追いつかねばならなかったため、ひとりひとりの人間育成というよりは、国家の底上げのための優秀な歯車、高度な技術者を大量に養成する必要がありました。
これは右肩上がりの国家構築には、必須の要件です。
しかし、こうした結果、人としての精神、人格、道徳といった学問や教育といったものは、必然的に疎かになっていきます。

当たり前のことといえば当たり前ですが、既に140年以上の間こうした学問や教育はないがしろにされてきたことに私達は気付いていないし、気付かされないようになってしまっているのです。
しかし、今のひとりひとりが個で孤でしかなくなってしまった殺伐とした時代だからこそ、私達は人としての心、精神修養、道徳教育、人格修練が如何に大切であるかを皮膚感覚で理解できるはずです。
人口が先細りの現在から俯瞰してみれば明白で、これまでの教育や学問というのは子供を学校に入れて上へ上へと押し上げることばかりを目的としていました。
そのため、子供の教育や学問というものを学校という枠だけに押し込めてしまい、家庭における精神修養、道徳教育、人格修練というものがすっかり抜け落ち、切り捨てるような事態を引き起こしてしまっています。
家庭でそのようなことを行うぐらいなら、親は国家繁栄のために歯車となって必死に労働に従事せよ、という刷り込みが長らく続いてきた訳です。
しかも大学が教育や学問の最終目的になっているため、社会に出てからが教育や学問修養の大事な時期だという意識が希薄で、労働に従事することにのみ蒙昧して人生を完遂し、それが更に次の世代へと引き継がれる。
しかし、人口減少が甚だしい現代においては、こうした悪しきスパイラルをそろそろ断ち切り、寺子屋や私塾そして家庭で行ってきた精神修養、道徳教育、人格修練へと原点回帰する時期に来ていると思えるのです。

単なる一過性の維新の流行に流されたり過激な思想や活動にばかり重きを置くのでなく、人間形成に必要な修練・鍛錬という観点で私達が何をすべきか、考えていく年になれば幸いです。

藤原惺窩・・・「人倫を絶って仁義を無視する仏教は間違いではないか」

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