なせば為る、成さねば為らぬ何事も!最も尊敬される日本人・上杉鷹山公の三大改革!

かのジョン・F・ケネディ元アメリカ大統領や、ビル・クリントン元アメリカ大統領から「最も尊敬する日本人政治家」と言われている上杉鷹山公。
上杉鷹山(上杉治憲)公は、江戸時代中期の大名にして出羽国米沢藩の第9代藩主で、領地返上寸前の米沢藩建て直しに成功した名政治家で、戦前は小学校の修身教科書にも登場していた程の、江戸時代屈指の名君として知られている人物です。

「なせば為る、成さねば為らぬ何事も。
 成らぬは人の為さぬなりけり」
鷹山のこの有名な言葉は、
「やろうと思えば何でもできる。できないのはやろうと思わないからだ。
 やろうとすることは他人のためではなく、自分のためになるのである。」
という深い意味合いが含まれています。

では鷹山は、当時窮地に追い込まれていた米沢藩をどのようにして救ったのでしょうか。
そこには、「3つの大きな改革」のキーワードが存在しています。
鷹山はその3つの大改革を行うことで米沢藩を見事に建て直し、今も残る素晴らしい藩を作り上げているのです。

そもそも上杉家は、関が原の合戦で石田三成に味方したため、会津120万石から米沢30万石に減封され、さらに3代藩主が跡継ぎを定める前に急死したため、家名断絶はまぬがれたものの、更に半分の15万石に減らされていました。
しかし、120万石当時の格式を踏襲し出費も削減しなかったことから、藩の財政は傾き、年間6万両ほどの支出に対し収入はその半分程度で、借金の総額は11万両に達していたそうです。
そんな中、17歳で第9代米沢藩主となった鷹山は、早急な改革を講じ、現代でも通じるような的確な方法で乗り切っていったのです。

【三大改革その1 財政の再建】
鷹山は、自らが率先して節約した生活を行い、透明な会計を実施しました。

まず自ら進んで倹約をし、江戸での一年の生活費をそれまでの七分の一の209両程として、衣服や食事、本などをまかなったそうです。(米沢での生活費は、それよりも更にに少ないものだったようです)
日常の食事は一汁一菜、衣服は上等な絹ではなく綿で作られたものだけで、奥女中は50人から9人に減らしました。

次に、財政難を克服するため、財政の全体を明らかにする目的から「御領地高並御続道一円御元払帳」という一年間の米沢藩の収入、支出、借金などを詳しく記載した帳簿を作成します。
これは、役人たちに質素倹約の協力と理解を求めるために作成したものとみられています。

更には、寛政の改革でより多くの人々の意見を聞くことを大事にしました。
その方策として、追手門前政治所脇に「上書箱」(目安箱)という意見を投げ入れるための箱が設置され、所属を明確にすれば、藩士だけでなく、百姓や町人も意見書を入れることができるようにしたのです。

【三大改革その2 産業の開発】
当時の米沢藩には、明確な特産品がなかったため、他国との差別化を図る方策として焼き物から木彫り彫刻、織物までさまざまな産業を特産品化しました。

その上で藩の財政を安定させるために、農業生産を増やし安定させることが重要と考え、農民だけでなく藩士に対しても田畑の開墾や治水のための土手修理を実施させています。
なんと、藩士の次男・三男が農村に移り住み、田畑を開墾することまで勧めたといいますから、随分と大胆な政策であったことは確かです。

また、藩の財政は、飢饉・凶作などが続きかなり苦しいものであったことから、こうしたことに備える蔵を各村に立て、毎年一人一升ずつの籾を蓄えさせたそうです。

更には、飢饉に対して人々を救うため、野草などを食料にする知恵をまとめた「飯粮集」米沢藩を作成します。
「飯粮集」には125種類もの植物が記載されており、なんと食感まで事細かに書かれていたそうです。
また飯粮集を元に「かてもの」という、84種類の植物をいろは順に並べてよりわかりやすく、実践的な救荒書としたものを1575冊出版したそうです。

【三大改革その3 精神の改革】
江戸時代は昔からのしきたりが数多く残されていましたが、鷹山はしきたりの一部を見直し、質素倹約を第一とした政策を進めました。
また鷹山は、「民の父母」となることを自分に言い聞かせ、改革においては重臣であっても処罰するという厳しい態度で律してきました。

鷹山は「民の父母」としての根本方針を、次の「三助」としてます。
・ 自ら助ける「自助」
・ 近隣社会が互いに助け合う「互助」
・ 藩政府が手を貸す「扶助」

「三助の功績」

・武士における「自助」と「互助」、「扶助」
 鷹山は米作以外の殖産興業を積極的に進め、寒冷地に適した漆や楮、桑、紅花などの栽培を奨励していました。
 鷹山は「自助」の実現のために、自ら率先し、また藩士達にも自宅の庭でこれらの作物を植え育てることを命じました。
 この平和の世には、武士も農民の年貢に徒食しているのではなく、「自助」の精神で生産に加わるべきだということを、身をもって示したのです。

 こんな逸話があります。
 米沢城外の松川にかかっていた福田橋は傷みがひどく、大修理が必要であったのに、財政逼迫した藩では修理費が出せずに、そのままになっていた。
 もうすぐ鷹山が参勤交代で、江戸から帰ってくる頃、この福田橋をある日突然2,30人の侍たちが、肌脱ぎになって修理を始めた。
 橋がこのままでは、農民や町人がひどく不便をし、その事で藩主は心を痛めるであろう。それなら、自分たちの無料奉仕で橋を直そう、と下級武士たちが立ち上がったのであった。
 やがて江戸から帰ってきた鷹山は、修理なった橋と、そこに集まっていた武士たちを見て、馬から降りた。
 鷹山は「おまえたちの汗とあぶらがしみこんでいる橋を、とうてい馬に乗っては渡れぬ。」と言い、橋を歩いて渡った。(武士達の感激は言うまでもなかったであろう)

 鷹山は、武士達が自助の精神から更に一歩進んで、「農民や町人のために」という互助の精神を実践し始めたことを何よりも喜んだのでしょう。

・農民における「自助」と「互助」、「扶助」
 鷹山は「互助」の実践として、農民には、五人組、十人組、一村の単位で組合を作り、互いに助け合うことを命じています。
特 に、孤児、孤老、障害者は、五人組、十人組の中で、養うようにさせ、一村が火事や水害など大きな災難にあった時は、近隣の四か村が救援すべきことを定めています。

 また鷹山は、働けず厄介者として肩身の狭い思いをしていた老人達に、米沢の小さな川、池、沼の多い地形を利用した鯉の養殖を勧めます。
 やがて美しい錦鯉は江戸で飛ぶように売れ始め、老人たちも自ら稼ぎ手として生き甲斐をもつことができるようになっていくのですが、これも「自助」の一つです。
 さらに鷹山は、90歳以上の老人をしばしば城中に招いて、料理と金品を振る舞ったといわれています。
 子や孫が付き添って世話をすることで、自然に老人を敬う気風を育てることを意図していたようですが、鷹山の父重定の古希(70歳)の祝いには、領内の70歳以上の者738名に酒樽を与えたのが、31年後の鷹山自身の古希では、その数が4560人に増えていたといわれています。

・藩政府における「自助」と「互助」、「扶助」
 藩政府による「扶助」は、天明の大飢饉の際に真価を問われました。
 天明2年に、長雨が春から始まって冷夏となり、翌3年も同じような天候が続いた結果、米作は平年の2割程度に落ち込んでいます。
 しかし、当時の藩政府の動きは素早く、鷹山は陣頭指揮を執りながら、以下のような対応を実施しました。
・ 藩士・領民の区別なく、一日あたり、男、米3合、女2合5勺の割合で支給し、粥として食べさせる。
・ 酒、酢、豆腐、菓子など、穀物を原料とする品の製造を禁止。
・ 比較的被害の少ない酒田、越後からの米の買い入れ
 当時、近隣の盛岡藩では人口の2割にあたる7万人、人口の多い仙台藩にいたっては、30万人の餓死者、病死者が出たとされていますが、米沢藩ではこのような扶助、互助の甲斐あって、餓死は一人も出ていません。
 それだけでなく、鷹山はこのような苦しい中でも、他藩からの難民に藩民同様の保護を命じています。
 また、当日は江戸にも飢えた民が押し寄せたようですが、幕府の調べではそこに米沢藩出身のものは一人もいなかった、といわれています。
 米沢藩の業績は、幕府にも認められ、「美政である」として3度も表彰を受けています。

・「自助」と「互助」から実を結ぶ学校建設
 鷹山は、領内の学問振興にも心を砕きました。
 藩の改革は将来にわたって継続されなければならず、そのための人材を育てる学校が必要だと考えたのです。
 しかし、当時それだけの資金がなかった鷹山は、学校建設の趣旨を公表して、広く領内から募金を募ります。
 武士たちの中には、先祖伝来の鎧甲を質に入れてまで、募金に応ずる者が出てきており、また農民や商人の子も一緒に学ばせることとしていたことから、これらの層からの拠出金が多く集まったといわれています。
 農民を含めた自助・互助の精神が、学校建設を可能とした訳です。

後世、鷹山が家督を譲るに当り、藩主の心得として伝授した『伝国の辞』というものが残されており、これは上杉家代々の家訓となっています。
わずか3カ条だけのものですが、鷹山が考える藩主像が良く分かるものですので、ここに記しておきます。

一、国家は先祖より子孫へ伝え候国家にして、我私すべき物にはこれなく候
二、人民は国家に属したる人民にして、我私すべき物にはこれなく候
三、国家人民のために立たる君にて、君の為に立たる国家人民にはこれなく候

一は、国家は先祖から子孫に伝えるところの国家であって、自分で身勝手にしてはならない、というものです。
 国家は今の藩主が作ったものではなく、代々の先祖から受け継がれてきたものだから、思い誤らないように、ということです。

二は、人民は国家に属している人民であって、自分で勝手にしてはならない、という意味です。
 領民は家来だと思い誤っていた藩主がいたようですが、鷹山は人民はあくまで国家に属しているという明確な考え方を持っていました。

三は、国家と人民のために立てられている君主であって、君主のために立てられている国家や人民ではない、というものです。
 一と二について、更に念を押しているものですね。
 鷹山は、藩主とは国家(=藩)と人民を私有するものではなく、「民の父母」としてつくす使命がある、と考えていましたが、それは同時に決して民を甘やかすことではなかったということです。

明治の初年の頃、イギリスの女流探検家イザベラ・バードが米沢を訪れた際、
「ここはアジアのアルカディア(桃源郷)である。
 自力で栄えるこの豊沃な大地は、すべて、それを耕作している人びとの所有するところのものである。
 ・・・・・・
 美しさ、勤勉、安楽さに満ちた魅惑的な地域である。
 山に囲まれ、明るく輝く松川に灌漑されている。どこを見渡しても豊かで美しい農村である。」
と言い残しています。

この桃源郷を作り上げたのは、鷹山の55年にも及ぶ改革に端を発した武士・領民達の自助・互助努力の賜物に他なりません。
病人や障害者は近隣で面倒をみ、老人を敬い、飢饉では富裕な者が競って貧しい者を助けるという姿は、美しく豊かなのは土地だけではなく、それを作り出した人々の精神も豊かで美しいことを表しています。
鷹山が種を蒔いた自助、互助、扶助の「三助」の方針が、物質的にも精神的にも美しく豊かな米沢藩を作り出したといても過言ではないでしょう。

こうした国造りは、現代の日本全国に十分通用するあり方です。

ジョン・F・ケネディ元アメリカ大統領や、ビル・クリントン元アメリカ大統領が鷹山を尊敬したのは、自助・互助の精神が、豊かで美しい国造りにつながることを見事に実証した稀有な政治家であったからでしょう。
戦前は小学校の修身教科書にも登場していた程の名君鷹山を、この国の戦後教育はことさら無視してきました。
それは「扶助」のみを訴える戦後の社会風潮からは、「自助・互助」とのバランスをとる鷹山の姿勢は受け入れがた
いものがあったからかもしれません。

しかし、現代の日本国の借金は2014年末で1029兆9205億円(国民1人当たり811万円)、2015年3月末には1143兆9000億円に上るといわれています。
これほどまでに大きな問題となっている財政再建も、また○×式でしかない量産生産型の教育の見直しや、足の引っ張り合いと既得権益優先の政治の改革も「自助・互助」の精神こそが復活の鍵であるに違いありません。
それを教えてくれる人物は、歴史に息づく多くの賢人達です。

現代において、鷹山ほどの優れた政治家の登場を渇望するのは、私だけではないはずです。
これを機に、上杉鷹山公の人となりを、学んでみてはいかがでしょうか。

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