人にとって大事なものとは?修練・鍛錬を喚起する理由について

人にとって大事なこと。
それは第一に、人としての本質的要素。
 そして第二に、そこに付随した属性要素
だと、私は考えます。

では、本質的要素とは何だと思いますか?

本質的要素。それは(先日にもちょっと触れましたが)人としての心、精神、道徳、人格といった「特性」です。
 ・明治維新からの見落とし!教育とは何かの原点回帰を始めよう!
わかりやすい言葉で表せば、
・人を愛し、助けること。
・人のために尽くし、報いること。
・困難に耐え、忍び、現実逃避しないこと。
・人を偽ったり、羨むのではなく、尊重し、素直で、清く、明るくいること。
・自己練磨に努め、努力し、胆力を尽くすこと。
・自尊心や自負心を持つこと。
・確たる自己
・責任感
・etc..
挙げればキリがないですが、こういったものは徳目というものです。
そして、これが人の人たる所以の徳であり、これの徳目があってこその人といえるのです。

では次に挙げた、付随した属性要素とは何だと思いますか?

属性要素。それは、知能、知識、技能、技術といった後天的に人が身に付けることのできるものです。

一般では、人と動物の違いはこうした知識、技術を持ち合わせているか否かにあり、知能、技能こそが人の本質であると言われがちですが、実はこれらはあくまで2次的な属性要素に過ぎないものです。

例えば家を例にとると、土台(本質的要素)を徹底的に踏み固めて揺ぎ無いものにした上で、柱や壁(属性要素)を立て堅硬な家を建てることが出来ますよね。
しかし、前出の人としての「特性」「徳」といった土台がぐらぐらしている状態では、どんな優れた知識や技術を詰め込んだところで、メッキはいとも容易く剥がれるのは自明。
テスト前の一夜漬けが一過性の効果しかなく、恒久的な人の人格形成にはさしたる影響をもたらさないのと同義です。

その昔、明治維新は世界的な奇跡と言われる程の成功を収めましたが、このときから日本人は本質的要素と属性要素の優先度を履き違えるという大きな問題を抱えてしまったのではないでしょうか?
やがて、それが国家繁栄と国民の幸福実現の常套手段であるかのごときやり方で、それを完全に仕組み化・枠組み化してしまう中で、大正時代には更に予想しない出来事、第一次世界大戦が起きます。
このときの日本は、米英の連合国側に加わり、地理的な条件を背景にまさに”棚からぼた餅”ともいえる状況で国際的な利を得てしまいます。
それをあたかも自分で勝ち得た実力だと誤解したまま、国内景気は爆発的に好転し、享楽的退廃的で精神性なんぞはますます疎かにしてしまう風潮が根付いてしまいました。
例えて言えば、頭でっかちで知識ばかりの世間知らず・常識知らずの子供が、何の苦労も知らないまま、社会に出た途端にいきなり立て続けに宝くじが当たってしまったような状況です。

こんな状況の中、世界的な不況の波が襲い、それは日本にも大きな混乱と荒廃を齎します。
この時点で人としての「特性」が堅固であれば耐え忍ぶこともできたのでしょうが、その土台が瓦解している状況では、国全体が虚無主義、無政府主義で退廃的破壊的な風潮に陥っていきます。
結果、国としての機能は麻痺し、問題を抱えたまま麻痺状態に流れてしまう。
やがてはそのはけ口を近隣海外に求めて、突き進んでいく訳です。
こうして得た上っ面の成功に理由付けをし、更にその先その先へと利潤を追い求め、挙句は大局を見据えていれば明らかに勝てる訳もない次の大戦へと突き進んで行く訳です。
結果は、ご存知ですよね。
 歴史や古典から学ぶこと!100年前・69年前から日本の未来を見据えてみよう!
前段の例でいえば、せっかく当たった宝くじもあっという間に散財し、だからといって以後改心してマトモに働く訳ではなく、賭け事やら何やら怪しい儲け話などにばかり乗って、結果周りの人達を散々傷付けた挙句我が身を滅ぼす顛末を迎えてしまった、ということです。
人としての本質を履き違えた結果が、国家としての流れの中で如何に愚かな結末を迎えるか、歴史を読み解けば明らかなことです。

冒頭でも問いかけた、人にとって大事なこと。

これを日本人は明治維新以降140年もの間履き違えたままで、それは更に悪化しているように感じます。
言い方は非常に良くないですが、現代では一億総白痴化ともいえる光景が、家庭でも街角でも電車の中でも至る所で繰り広げられています。
人から思索・思考・熟考する力と時間を完全に削ぎ取り、奪い取ることに成功しているとしか思えないこの異様な光景。
片手に握り締めた端末を収めることができず、思慮・深慮・深謀する機会を常に奪われ続け、人生の貴重な時間を享楽的に消耗するばかりのモノや媒体にどっぷりと漬け込まれて気付きもしない、しかもそれを出来る限り気付かせないという、この永続常習性の高い社会の仕組み。
知識に基づく情報を精錬精査し自ら創造する労力や思考、行動に対しては厭うように仕向けられ、受動的に大量の情報を飲み込み続けることにばかり終始させられていては、自らの未来は昨日と何ら変わらない、いやそれどころか後退するばかりの我欲にまみれた色あせた日常でしかありません。

こうした呼びかけが、あなたの日々の歪みに足を止めさせ、人としての本質的要素を取り戻すこと、立ち止まって深慮・熟考することを少しずつでも始めるきっかけになれば幸いです

林羅山

三徳抄 林羅山 1657年以前/儒学の入門書。全2巻で、上巻は「三徳抄」と「理気弁」を下巻は「大学」を記している。三徳抄とは知・仁・勇のことで、五徳(君臣、父子、夫婦、兄弟、朋友)との関係を説明している。理気弁とは理と気の関係について述べたもの。

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