日暮硯より学ぶ!恩田杢の示す改革のお手本!

『日暮硯』は、江戸中期の信濃国松代藩家老・恩田木工民親(恩田杢)の藩政改革の事績を説話風に記した経綸書です。(後年に馬場正方という藩士が記したとされていますが、定かではありません)
倹約奨励、綱紀粛正、半知借上廃止、月割貢納制実施、先納年貢分切捨て、未進年貢分免除などにより藩財政再建に大成功したという内容で、民を愛し、誠実一筋に政治を行い、藩財政を見事に建て直した政治家の姿が描かれている仁政(情け深い政治)の物語でもあります。

戦後、江戸時代中期の藩政改革が日本企業再生のヒントに繋がるとも考えられ、恩田木工は上杉鷹山などと共に注目されてきた人物です。

そこで『日暮硯』です。
信州松代藩は戦国の名将・真田昌幸の家系でありましたが、藩の財政は逼迫しており、六代藩主・真田幸弘がわずか13歳で家督を相続した折に、木工を藩主に代わり会計や事務全般を取り仕切らせたとされています。
当時の木工の改革は成果をもたらし、幸弘は松代藩中興の名君と称されるようになるのですが、そこに至る数々の逸話が収められているのが『日暮硯』です。

例えば、藩主幸弘の「鳥籠の教訓」と言われる逸話があります。

幼君幸弘が家督を継いでからまだ僅か1、2年の頃、御側衆が藩主の関心を引こうと鳥を飼うように進言しました。
財政逼迫の中、大きな鳥籠が誂えられます。
進言した御側衆
「殿、見事な鳥籠ができました。これより立派なものはどこにもないでしょう。早速、中に入れる鳥を求めてまいりましょう。」
藩主幸弘
「鳥を飼うなら食物も与えねばならん。そちに任せるから献立を作ってきてくれ。」
御側衆は城中の料理人などと相談して献立を作り殿に差し出し、主君幸弘は早速翌日その献立通りに料理を作らせました。
藩主幸弘
「鳥籠に入って中の様子を調べろ。」
「そこで煙草でも吸って気楽にして、話でもしよう。」
と言い、献立の料理を運ばせます。
進言した御側衆
「殿、もうお許しください。この中で食べるのは嫌でござりまする。」
藩主幸弘
「良いからその中で食べよ。他にも好きなものを頼んで、腹一杯食べてくれ。」
進言した御側衆
「もうご勘弁ください。何か私にお気に障ることがあったら、心からお詫びいたします。」
藩主幸弘
「その中に一生涯いてくれ。望むものは何なりと申せ。」
とし、何度も嘆願を繰り返すものの一向にお許しが出ないままでした。
最後に精も魂も尽き果てた御側衆は、涙ながらの必死の嘆願で、やっと外に出してもらえます。
藩主幸弘は家臣たちを集め、
「私が鳥籠の中で過ごせと言い、何の不自由もなく望み通りに何でも与えるから、外には出るなと言えば、涙を流して詫びを言う。」
「余の慰みにと勧めた鳥は、本来自由に空を飛び回り、好きに餌を探して生きておる。」
「鳥の身になって考えると、こんな豪勢な鳥籠など迷惑千万。
 相手の苦しみを我が身の慰めにするのはおかしい。よく考えて、自らを慎むべきであろう。」と諭し、
進言した御側衆には
「その方は忠義者で、いつも何の不都合もなく仕えてくれておる。
 余に鳥を飼えと言ったのは、ちょっとしたはずみの間違いじゃった。」
「しかし、その方が苦しんでくれたお蔭で、もう余に鳥を飼えと言う者はおらん。
 その方がやったことはこの上ない忠義である。」
「その方が身を以て示してくれたお蔭で、今後余に間違いがあれば家中の者も諫言してくるであろう。
 この上なき大きな功じゃ、働きあっぱれであった。」と、褒美に金十両も下賜されたというもの。

この時、藩主幸弘はまだ十五歳。
幼い頃から先ず自らの姿勢を正し戒めるという名君であったということが分かる逸話です。
この君主なくしては恩田木工民親の功績もなかったといえるでしょう。

続いては、木工本人の逸話があります。

木工が勝手御用兼帯を受けるときの覚悟も凄まじく、家中全体の了解を強く求め、妻子や親族どころか家臣にまで縁切りを迫ります。
木工の一大決心は、
「私は今後一切嘘はつかない。もしも身内や家来が嘘をついたとしたら、二枚舌と疑われ、この大役は勤まらない。」という固いもので、「平素、飯と汁以外は漬物さえ食わない。今の着物を着古すまで着たら、後は木綿の着物しか作らない。家族も家来もご馳走が食いたかろうし、いい服も着たいだろう。最低限の経費より余るものはお上に返納する。」と、改革への凄まじい決意を述べたのです。
しかし、妻・子供・家来・親戚一同とも「自分たちも同様の生活をする」と、「誓詞を入れて確約する」として、その命に従わず、誰一人として縁を切る者がいなかったといいます。
ここまでの覚悟を示し、嘘を言えば直ちに腹を切るという凄みは、これまで不正を働いていた奉行や役人などをも突き動かし、松代藩から不正は根絶されていくのです。
先代の時の贈賄・横領などの汚職横行があったため、余計に誰もが眉唾モノと感じたに違いないのですが「嘘をついたら腹を切る」という木工の覚悟の凄さの前ではそれも無力だったということです。
わが身を滅ぼそうとも、孤立無援で闘い続ける決意を示し、実際に志し半ばで倒れていく木工ですが、藩主の信頼に対して、全身全霊を傾けて応えたその堂々たる姿を現した逸話です。

更には木工の逸話が続きます。

木工はこうした覚悟の上で公式の場に領内の百姓・町人つまり領民を呼び出し、これから(為政者たる)自分は嘘をつかず、いったん決めたことを変更することはない、と約束します。
その上で藩は年貢の未納分を棒引きにし、一方領民側はいままでに前納・前々納の形で前払いしていた年貢を棒引きにする代りに、来月から今年の年貢は規定どおり毎月月割りで納めてくれよ、と持ちかけるのです。
木工の思慮深いところは、これらの施策を藩の名において頭ごなしに強制するのではなく、あくまでも領民が村なり町なりに帰ってその支配下の末端の者たちひとりひとりと協議の上、請けるか請けないかの判断を領民にゲタを預けてしまうことにありました。
しかも、今年の年貢を納めてもらう代りに、以前は税金滞納の督促のために村に出していた多数の足軽をこれからは出さない、と約束したりするのです。
百姓側にしてみれば、督促に来られれば、接待もしなければならず、物入りになって百姓の大負担になっていたものが、以後接待しなくていい、だから費用の節約になる、と聞けば、木工の提案を喜んで受け入れる訳です。
また、それまでは領民の無料奉仕で賄われていた公共工事も、以後は一部必要最小限の土木工事を除いて、無料の労働奉仕はさせない、と約束するのです。
木工は、これだけの改革を一気に行えば、必ずや一揆や打ち壊しなどの騒動に発展し兼ねない政策を、自らを引き締め、家族・郎党を引き締め、藩の家臣団を引き締め、さらには百姓・町人などの領民全体を最後に引き締めることによって、政策の実を挙げていくことであったのです。

木工の改革の優れたところは、質素倹約を錦の御旗に掲げて苛烈を極め無理を強いた訳ではなく、悪徳役人を処罰する際にも「これらの者どもは善い指導者が使えば善くなり、悪い指導者が使えば悪くなる」と藩主を説き伏せ、彼らの能力を最大限に活かし切るという手法を取ったことにあります。
また領民に対しても「相応に楽しみをせよ。慰みには博打なりとも何にても好みたることをして楽しめ」と、日々の生活が窮屈な意識で捕らわれないように配慮していくのです。

木工の真骨頂は、このような現実に則した徹底したバランス感覚に優れた手法を繰り出していったところにありました。
恐らく木工が意識したことは、進んで慈悲と厳格を平等に適用して、たとえ身分が低い者といえども、正直者が馬鹿を見なくて済む政治を積極的に実現しようとした、というところなのでしょう。
当時の領主と領民という身分制度の厳しかった封建時代においては、これは実に稀有の事例であったといえます。
「日暮硯」では、その後木工の為政が効果を挙げ、領民からの年貢は月割方式でおおむね滞りなく、それも喜んで納められ、藩の財政も豊かになったと暗示されています。

物事に当たる際には、常に細心の注意ときめ細かい配慮を払いながら、私心は捨て判断・決断し、自ら見本となり実践していく。
組織を革新するにあたっては、システム(=仕組み)を入れ替えるだけでなく、人の心の琴線に触れるよう、その心を揺り動かすことから始める。

こうした、当たり前のようでありながら、なかなか自らのビジネスの中で活かし切れていない現実の解決方法を、木工は私達に教えてくれているような気がするのです。

恩田木工に学ぶ点は多いです。

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