戦国策より学ぶ!蘇秦・張儀らに託して劉向が記した縦横家の議論や権謀術策を読み取れ!

「戦国時代」という語の由来ともなっている『戦国策』は、『国策』『国事』『事語』『短長』『長書』『脩書』といった書物を元に、衛の倬公の起こった周の元年(前476)から秦の始皇帝215年(前222)に六国が滅亡するまでの250余年に渡る戦国遊説の士の言説、国策、献策、策謀、その他の逸話を国別に編集しまとめ上げた、全33篇から成る前漢の劉向の著です

「蛇足」「狐借虎威」「漁夫之利」「百発百中」「揣摩憶測」「鶏口牛後」「伯楽一顧」「遠交近攻」「禍転じて福と為す」「百里を行く者は九十を半ばとす」「先づ隗より始めよ」「前事を忘れざるは後事の師なり」といった故事成語の出典、といえば何となくイメージができるでしょうか。
後漢の高誘がはじめて注釈をつけたものの8篇分しか現存しておらず、隋~宋代に異本が多く出て篇数に混乱をきたしたため、唐宋八大家のひとり曾鞏が再校訂を行い33篇にまとめ直したものが現在残るものです。
曾鞏の系統以外には、宋代の鮑彪が国の分類と個々の物語の年次を厳密にし、本文にも大胆な校訂を施した0巻本と、元の呉師道の校注(365刊)があります。

著者の劉向は若い頃から才覚を現していたようですが、神仙方術に造詣が深いことから錬金術を進言し、その失敗が宣王の怒りに触れて投獄されています。
後に赦され『戦国策』を編纂して当時を代表する学者として重用されたようですが、劉向はこの他にも前賢先哲の逸話を記録した『説苑』や、堯・舜の時代より戦国末までの模範や戒めとするに足る婦女の逸話を列叙した『列女伝』を遺しました。

蘇秦・張儀らに託して劉向が『戦国策』に記した権謀術策は、奇知縦横家の議論や言論習錬を意図しており、歴史書と言うよりも、戦国時代の人々の知恵や遊説の士が献策した計略、詐術、陰謀、脅迫、謀略、暗殺などの権謀術数を整理した内容となっています。
ちなみに司馬遷が書いた『史記』の蘇秦や張儀といった謀略家に関する記述は、『戦国策』を元にされていると言われている程で、全編が生き生きとして人間くさく、読めば読むほどに味わいのある、非常に面白い内容になっています。

『戦国策』は、衛の悼公の起こった周の元年(前476)から秦の始皇帝215年(前222)に六国が滅亡するまでの250余年に渡りますが、東周、西周、秦、斉、楚、趙、魏、韓、燕、宋衛、中山に分けられた戦国遊説の士の策謀の辞です。
戦乱の中を生き抜いた「縦横家」達の逸話は、現代のビジネスにおいて、営業、面接、プレゼン等、応用する場は、多種多様にあるはずです。
古人・賢人の智恵と諫言の中身を一度、ご賞味あれ。

『戦国策』の内容については、こちらのサイトも参考にしてみてください。
戦国策を楽しもう
戦国策

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以下、参考までに『戦国策』の内容について、一部抜粋です。

【【戦国策 劉向】】

【西周】
前770年から秦の始皇帝によって周王が滅ぼされる前256年までは洛陽に周王室が存在した「東周」時代であるが、その実態は、周の王権は衰え、地方に有力諸侯が自立してそれぞれ王を称して争う分裂期であった。その前半期は、それでもまだ周王の権威は残っており、諸侯も尊王攘夷を唱えて周王を立て、あるいは周王を利用しようという時代であったが、前5世紀末になると周王は全く有名無実化し、各国でも下克上が進んで中国は有力な七国(戦国の七雄)に分割されることとなる。その前半を春秋時代と言い、その後半の前221年の秦の始皇帝による中国統一までを戦国時代という。

周は黄河の支流渭水流域にあった邑の一つで、はじめ殷の支配を受けていた。文王の時に宰相太公望などの補佐もあって有力となり、前1050年頃、文王の子の武王が殷の紂王を牧野(ボクヤ)の戦いで破り、華北一帯を支配した。都は渭水流域の鎬京(こうけい)に置いたが、殷を滅ぼして中原を支配するようになってからは、中原統治の便を考慮して、河南省の洛陽(かつての洛邑)を副都とした。
 文王、武王に続いて成王の時には王位継承をめぐって反乱が起こったが、武王の兄弟の周公が成王を補佐して乱を鎮め、支配を安定させた。周は殷時代の卜占による神権政治を脱し、封建制を作り上げ、諸侯を各地に封じて長期にわたって華中地方に支配秩序を維持した。
 周は文化史的には殷の青銅器文化や甲骨文字を引き継いだだけで新たな文化的な展開にはとぼしかったが、周王室と血縁関係にある諸侯を各地に封じ、国を建てて統治させるという封建制の体制を作りあげた。後の孔子ら儒家の思想家はこの周の時代を「礼」の理念で統治された理想的な時代ととらえている。

前9世紀頃から諸侯の反乱、西北からの異民族の侵入が繰り返されるようになって、周王の権威は次第に弱まっていった。、前770年、北方の遊牧民犬戎が南下して周の都鎬京を占領し、周の幽王は殺されていったん終わった。周王室の一人が諸侯に助けられて都を東方の副都洛陽に逃れ、平王となって周を再建した。これを周の東遷という。またそれ以前を「西周」、以後を「東周」として区別している。

【東周】
周の幽王は西方から侵入した異民族犬戎によって都鎬京を奪われ、殺害された。その子の平王は東遷し、第二の都であった洛邑に移った。これを周の東遷といい、以降を東周という。これ以来、周王の王権は衰退し、「春秋・戦国時代」という分裂時代に突入する。

幽王には皇后の申后とその間に生まれた太子がいたが、褒姒という後宮の美女を寵愛し、申后とその太子を廃して、褒姒を皇后とし、その間に生まれた子を太子にしてしまった。褒姒はすこぶるつきの美人だったが、どういうわけか、「別にぃ」という感じでさっぱり笑わない。幽王はなんとか笑わせようと手を尽くしたが、どうしても笑わない。そこである日、一計を案じた幽王は、烽火を上げさせた。すると諸侯が天下の一大事、敵が攻めてきたとばかりに王宮に駆けつけたが、敵の姿は見えない。その狐につままれたような顔をしてうろうろする様子が面白かったのか、褒姒がはじめて楽しそうに笑ったので、幽王はその後もちょいちょい烽火を上げてるようになった。諸侯はバカらしくなって本気にしなくなってしまった。やがて皇后を廃された申后の一族は、犬戎などと語らって、鎬京を攻めた。幽王は烽火を上げて諸侯を動員しようとしたが、誰も信ぜず一兵も集まらなかったので、王は殺され、褒姒は捕らえられてしまった。こうして申后の産んだ太子が王位につくことになった。この平王が都を洛邑に遷し西周は終わった

周が都を渭水流域の鎬京においていた時期を西周というのに対して、東方の洛邑に都を遷した周の東遷の以降を東周という。周王室の実質的な支配権は失われ、封建諸侯の自立が著しかったが、特にその前半の前403年までを春秋時代、後半を戦国時代という。周王室は戦国時代には一地方政権に過ぎない存在となっていたが、それも前256年に秦に滅ぼされ、周の時代は名実共に終わる。

【秦】
陝西省の西部を基盤とした小国であったが周の東遷の時功績を挙げ諸侯となる。南部の蜀(現在の四川省)に進出。戦国の七雄の中でもっとも辺境にあり、改革も遅れていたが、前4世紀中頃、孝公の時、都を咸陽に定め、法家の学者商鞅を招いて改革を実施(商鞅の変法)し、什伍の制などの新しい地縁原理に基づく国家機構を作り上げ、強大となる。秦が強大となると、他の6国は、連合して秦に当たるか(合従策)、秦と個別に協調するか(連衡策)、いずれの外交策を取るかで論議がされた(縦横家)。秦はまず最も近い魏に侵攻し、最も遠い斉とは和平策をとった。これが有名な遠交近攻策である。戦国時代末期にあらわれた政は、次々と他の戦国諸侯を滅ぼし、前221年中国全土を統一して始皇帝となる。最初の統一王朝としての秦はわずか15年後の前207年に滅亡する。

【斉】
楚の将軍が魏を破って八城を攻略し、勢いに乗じて斉に兵を向けてきた。
斉王の使者として将軍と会見した陳軫は、「蛇足」のたとえを引き、
「あなたはもうすでに充分な功名を立てている。
 でも、これ以上戦って勝っても、あなたは今以上の地位を得ることはできない。
 一方勝ちに乗じて調子に乗りすぎていると、せっかく貰える筈だった爵位を他人に掠め取られるような破滅を招かないとも限らない。ほどほどのところで手を打ったらどうか」
と言いくるめて、戦争を回避した。

楚の威王は徐州で戦勝し、齊から嬰子(田嬰)を逐うことを望んだ。
田嬰は恐れ、張丑は楚王に言った。
「王が徐州において勝つことが出来たのは盼子(田盼)が用いられなかったからです。盼子は国に功有り、百姓は彼のために働きます。嬰子は盼子と仲が良くないので、申縳を用いました。申縳という者は、大臣は相手にせず百姓も彼のために働こうとはしません、故に王は勝つことが出来たのです。今、嬰子を逐えば、必ず盼子が用いられます。するとまた士卒を整え王と(戦場で)遭うことになり、必ず王は不便なこととなるでしょう」
楚王は嬰子を逐わせなかった。

齊は田嬰を薛に封じようとした。
楚王はこれを聞き、大いに怒り、齊を伐とうとした。
そこで齊王は思いとどまろうとした。
公孫閈は言った。
「奉じられるか否かは齊によっては決まりません。楚で決まります。私が楚王と説き、楚王があなたを封じるように望むことが齊よりも大きくさせましょう」
嬰子は言った。
「願わくば、貴方に委ねたい」
公孫閈は田嬰のために楚王に言った。
「魯と宋は楚に仕え、齊が仕えないのは齊が大国で、魯、宋が小国だからです。王よ、魯、宋が小国であることを利として、齊が大国であることをにくまないのはどうしてでしょうか。この度齊が地を削って田嬰を封じるのは、国が小さくなり弱体化することです。願わくばお留めになりませんように」
楚王は言った。
「その通りだ」
このため田嬰が封じられるのを止めなかった。

靖郭君(田嬰)は薛に城を築こうとした。
客の多くは諫めた。
靖郭君は謁者に言った。
「客を取り次がないように」
齊人で謁見を求める者がいた。
その人は言った。
「三言だけ言わせていただきたい。一言でも多ければ煮殺してくれて結構」
このため靖郭君は会った。
客ははしって進んで言った。
「海大魚」
そして振り返り走り去ろうとした。
靖郭君は言った。
「客人よ、ここへどうぞ」
客は言った。
「私のような賤臣は、死ぬために敢えて戯れをなすなんてことはいたしません」
靖郭君は言った。
「そんなこと(殺すような事は)しない。続きを聞かせていただきたい」
「貴方様は大魚のことを聞いた事がありませんか。網でもとることは出来ず、鉤で釣上げることもかないません。しかしながら波で打ち上げられ水を失えば螻蟻ですらおもうように出来ます。今、齊は貴方様にとっての水です。長く齊にいればよろしいのです。どうしてわざわざ薛にでようとなさるのですか。齊を失えば、薛の城を高くして天にとどいたとしても、無益ではないでしょうか」
靖郭君は言った。
「わかった」
そして薛に城を築くのをやめた。

濮上での戦で、贅子は戦死し、章子(匡章)は敗走した。
盼子は齊王に進言した。
「余った食糧を与えるべきです。さすれば宋王は必ず悦ぶでしょう。梁氏(魏国)は敢えて宋を通過してまで齊を伐つようなことはしますまい。齊はまことに弱いです。ゆえに余った食糧で宋を収めておきます。齊国がまた強くなった時、宋に食糧を返すよう責めれば良いでしょう。返さなければ、それを口実に攻めれば良いのです」

邯鄲の難(魏に攻め込まれ包囲された)にあたり、趙は救いを齊に求めた。
田侯(齊威王)は大臣を召集して謀って言った。
「趙を救うべきか否か」
鄒子(鄒忌)は言った。
「救うべきではありません」
段干綸は言った。
「救わなければ、我等に利はありません」
田侯は言った。
「どうしてか」
段干綸はこたえて言った。
「魏が邯鄲を取れば、齊にとってどういう利があるのでしょうか」
田侯は言った。
「善し」
そして兵を起こして邯鄲の郊外に派遣しようとした。
段干綸は言った。
「私が言う利を求めるのと、趙を救わないことが利とならないこととはそういうことではないのです。邯鄲を救おうとしてその郊外に軍を派遣すれば、魏は趙を抜く事が出来ず軍は無傷でしょう。だからそうせずに、南の襄陵を攻めて魏を疲弊させ、邯鄲が抜かれたら魏の疲弊につけこめばよろしいでしょう。こうなれば趙が破れ魏は弱体化します」
田侯は言った。
「善し」
そして兵を起こして南の襄陵を攻めた。
七月かかり邯鄲は抜かれた。
齊は魏の疲弊につけこみ、桂陵で魏軍に大勝した。

【楚】

齊と楚が陣を構えようとした。
宋は中立したいと請うた。
齊は宋を脅迫し、宋はしかたなく出兵する事となった。
子象は楚のために宋王に言った。
「楚が緩かったために宋を失いました。なので次からは齊に倣って脅迫するようになるでしょう。齊は脅迫によって宋の援兵を得る事が出来たなら、今後、常に脅迫してくるでしょう。宋は齊に従って楚を攻めることになりますね。それは必ずしも利があることではございませんよ。齊が戦って楚に勝てば、勢い宋は危うくなります。勝たなければ、弱い宋が強い楚をおかすことになります。而して万乗の両国に、いつも脅迫に乗って要求に従えば、国は必ず危うくなるでしょう」と。

邯鄲の難(魏軍が趙の首都邯鄲を包囲した事)に際して、昭奚恤は楚王に言った。
「王は趙を救うことなく魏を強くするべきです。魏が強ければ、必ず趙に多く土地を割譲させるでしょう。趙が割譲要求を呑まない場合はすなわち堅く守る事になります。これは両国とも疲弊するということです」
景舎が言った。
「そうではりません。昭奚恤はわかっておりませぬ。魏が趙を攻めるに際し、魏は楚が背後を衝く事を恐れております。今、趙を救わなければ、趙は滅ぶ様相をていしており、魏は背後を衝かれる憂いが無いことになります。これは楚は魏とともに趙を攻めるのと同じことでございます。つまり魏は大きく土地を割譲させることが出来ます。どうして両国が疲弊するなんてことになりましょうや。また魏は楚への備えの守備軍と侵攻軍を合わせて趙から大きく土地を割譲させれば、趙は滅ぶ様相をていしていながら、楚が自分達を救わないのを知れば、必ず魏と協力して楚を侵攻しようと謀るでしょう。ですから王よ、少しの兵を出してやり趙を援けてやるにこしたことはありません。趙は楚の勁さを恃んで必ず魏と戦うことでしょう。魏は趙の勁さに怒り、而して楚の救援が畏れるに足りないと見れば、必ず趙から撤退はいたしません。趙と魏は共に疲弊し、齊と秦が楚に呼応すれば、魏を破る事が出来ましょう」
そこで楚は景舎に兵を率いさせて趙を救援させた。
そして楚は睢、濊両水の間の土地を手に入れた。

江乙は魏のために使者として楚に赴き、楚王に言った。
「私が国境を越えてから、こういうことを聞きました、『楚の風俗では、人の善を覆わず、人の悪を言わない』と。本当でしょうか」
「本当だ」
「そうであるなら白公の乱が起きたのもしかたのないことです。本当にそうであるなら臣等の罪は免れます」
「どうしてか」
「州侯は楚の宰相として貴いことは甚だしい事でございます。そして国政を壟断しております。王の左右の者達は言っております『そのようなことはありません』と。まるで一つの口から出たようです」

荊の宣王は群臣に問うて言った。
「私は北方の国々では昭奚恤を畏れていると聞くが、これは本当であろうか」
群臣で答えるものはいなかった。
そこで江乙が答えて言った。
「虎は百獣を求めてこれを食らいます。あるとき狐を捕らえました。狐は言いました。『貴方は敢えて私を食らってはいけない。天帝は私を百獣の長とされました。今、貴方が私を食らえば、天帝の命に逆らう事になります。貴方が私を信用できないのならば、私は貴方のために先行しましょう。貴方は私の後ろからついてきて、百獣が私を見て敢えて逃げようとしないかを御覧なさい』虎はその通りだと思った。なので狐と一緒に行った。獣はこれを見て皆逃げ出しました。虎は獣が自分を畏れて逃げるのをわかりませんでした。そして思いました狐を畏れて逃げるのだと。今、王の領地は方五千里、帯甲は百万もいますが、もっぱら昭奚恤に属しております。故に北方の国々が昭奚恤を畏れるのは、実際には王の甲兵を畏れているのと、百獣が虎を畏れるのは同じことでございます」

【趙】

智伯(智罃)、韓、魏の兵を従えて趙を攻め、晋陽を包囲して城に水をそそぎ、晋陽城は三板(約六尺)を残して水没した。
郗疵は智伯に言った。
「韓と魏の君主は必ず裏切ります」
「どうしてわかるのかね」
「人事をもってわかります。現在、韓、魏の兵を従えて趙を攻めております。趙が滅べば、難は韓、魏に及ぶでしょう。趙に勝てばその領地を三等分しようと約束しています。今、城で水没していないのは三板を残しているのみです。臼竃に蛙が生じ、人馬相食む状態で、城が落ちるのは旦夕に迫っています。しかしながら、韓と魏の君主は喜ぶ様子は無く、憂えた表情をしております。これは裏切り以外にありましょうか」
翌日、智伯は韓と魏の君主に言った。
「郗疵が君達が裏切ると言っているんだ」
韓、魏の君主は言った。
「趙に勝てばその領地を三等分するのです。城は今にも陥落しそうです。両家とも愚かではありますが、目の前の美利を棄てて、信盟の約に背いて、危難にして成し難いことをしたりはいたしません。勢いを見ればわかることです。これは郗疵が趙のために計り、貴方に我等を疑わせて、趙への攻撃をおこたらせようとしているのです。今、貴方が讒臣の言葉を聴いて、我等との交誼を離すのは貴方のために残念に思います」
そして言い終わると走って出て行った。
郗疵は智伯に言った。
「貴方はどうして私の言葉を韓、魏の君主に告げたのですか」
「君はどうしてそれを知ったのだ」
「韓、魏の君主は私を険しく見ては走りさる様も速かったからです」
郗疵は自分の進言が入れられないことを知り、齊へ使者として向かいたいと請うた。
智伯は郗疵を使者として派遣した。
果たして韓、魏の君主は寝返った。

智伯は趙、韓、魏を率いて、范氏と中行氏を討伐して滅ぼし、数年休息した後、人をやって韓に土地の割譲を請うた。
韓康子(韓虎)は与えないでおこうとした。
段規は諫めて言った。
「駄目です。そもそも智伯の人となりは利を好んで残忍です。使者を送ってきて土地を要求しました。与えなければ必ず韓に兵を送ってくるでしょう。殿はお与えなさい。彼は狃れて他国に土地を割くよう要求するでしょう。他国が聴かなければ、必ず兵を差し向けるでしょう。ですから韓は患難を免れて、事態の変を待つべきです」
康子は言った。
「そうだな」
そして使者を遣って一万戸の邑を一つ智伯に贈った。
智伯は悦び、又人を遣わして土地を魏に請うた。
魏桓子(魏駒)は与えないでおこうと思った。
そこで趙葭が諫めて言った。
「彼は土地を韓に請い、韓は与えました。土地を魏に請い、魏が与えなければ、これはすなわち内で強がって外で智伯を怒らせることになります。そうなれば智伯の兵を魏が迎えることは必定です。これは与えるしかありません」
桓子は言った。
「その通りにしよう」
そして人を遣って一万戸の邑一つを智伯に贈った。
智伯は悦び、又使者を遣わして趙に藺と皐狼の地を請うた。
趙襄子(趙無恤)は与えなかった。
智伯は密かに韓、魏と結び趙を伐とうとした。
趙襄子は張孟談を召して彼に言った。
「彼の智伯の人となりは表では親しんでいるが、陰では疎んじている。韓、魏には三度使者を遣っておきながら私にはもう音沙汰が無い。私に兵を向けてくることは必定だろう。今私はどこに居るべきなのだろうか」
「かの董安于は簡子(張襄子の父の趙鞅)の有能な臣でした。彼が代々晋陽を治め、尹鐸が続いて治めましたので、その政教はまだ残っております。殿は心を決めて晋陽に籠もってください」
「わかった」
そして延陵君に車騎を率いさせて先行して晋陽に行かせて、趙襄子は遅れて続いた。
城に入ると、城郭をめぐり、府庫を調べ、倉廩を見てから張孟談を召して言った。
「我が城郭は完璧で、府庫は用いるのに十分で、倉廩は満ちている。しかし矢がないのをどうしたら良いだろうか」
「私はこう聞いております。董子(董安于)が晋陽を治めると公宮の垣はすべて荻(おぎ)や蒿(よもぎ)や苦(やがら)や楚(いばら)を廧として、その高さは一丈を越えております。殿はこれを刈り取って用いなされ」
刈り取って試してみると、その堅さは箘簬の勁さを上回っていた。
趙襄子は言った。
「これで矢は足りた。しかし銅が少ないどうしたら良いだろうか」
張孟談は言った。
「私はこう聞いております。董子が晋陽を治めると公宮の室は皆、錬銅の柱としたと。これを取り出して用いましょう。さすれば余分な銅ができるでしょう」
「善し、そうしよう」
号令がすでに定まり、守備はすでに具わった。
三国の兵が晋陽城に攻め込み、戦う事三ヶ月を過ぎても抜く事が出来なかった。
なので攻撃を緩めて城を包囲し、晋水を決壊させて城に注いだ。
晋陽を包囲する事三年、城内では木のうえに居住し、釜を吊り下げて炊飯し、財も食料もつきようとして、士卒は病み倒れた。
趙襄子は張孟談に言った。
「糧食は乏しく財力は尽き、士大夫は病んでいる。私はこれ以上守る事が出来ない。城を差し出し降伏しようと思うがどうだろうか」
「私はこう聞いております。亡びかかっているものを存続させることが出来ず、危うきを安んじることが出来なければ、知士を貴ぶ必要は無いと。殿は以降この計を棄てて二度と言ってはなりません。私が韓、魏の君主にまみえることを願います」
「よろしい」
そこで張孟談は密かに韓、魏の君主にまみえて言った。
「私はこう聞いております。唇滅べば則ち歯寒しと。今、智伯は二国の君主を率いて趙を伐ち、趙は亡ぼうとしております。趙が亡べば次はあなた方の番でございますよ」
「それはわかっている。かの智伯のひととなりは麤中(心中粗暴)で親しみの心が乏しい。自身の謀がならずに知られたら禍が必ずやってくる。どうすれば良いだろうか」
「謀は二君の口から出て私の耳に入っただけです。これ知る者は他におりません」
二君は張孟談と密かに三軍を投じることを約束し期日を決めて言った。
「夜、晋陽に入らせよう」
張孟談は趙襄子に報告した。
趙襄子はこれを再拝した。
張孟談はこの機会に智伯に朝見しようと出て、轅門で智過に出くわした。
智過は入って智伯にまみえて言った。
「二主はまさに変事をなそうとしています」
「どうしてか」
「私は張孟談と轅門の外で出くわしました。その志は矜り、歩き方は意気揚々としておりました」
「それは違うな。私は二主と謹んで約束した。趙を破ってその地を三等分しようとな。私は親しくしている。必ず欺かないだろう。君はこれを捨て置きなさい。また口外しないように」
智過は出て二主を見、入って智伯を説いて言った。
「二主は顔色が変わって変心しております。必ず殿に背くでしょう。殺すにこしたことありません」
「晋陽に進軍して三年になる。すぐにも城を抜いてその利益を受けることが出来る。他心あるわけないではないか。貴方はこれ以上言わないで貰いたい」
「殺さないのであれば親密になさってください」
「親密になるならどうしたら良いか」
「魏駒の謀臣を趙葭といい、韓虎の謀臣を段規といいます。彼等はその主君の計を変えることが出来ます。殿は二君と約束なされませ。趙を破ったら先の二人に各々万戸の県一つに封じると。このようにすれば二主の心を変えることが出来、而して殿の望みもかなうことでしょう」
「趙を破ってその土地を三等分し、さらにその二人に各々万戸の県一つに封じれば私が得るものがほとんど無いではないか。駄目だ」
智過は計が用いられず、進言を聴き入れてもらえないと見て、退出し、姓をかえて輔氏となり、遂に智伯の下を去って二度とまみえなかった。
張孟談はこれを聞いて、入って趙襄子にまみえて言った。
「私は智過と轅門の外で遇いました。私への視線は疑心がみえました。入って智伯にまみえ、出てその姓をかえました。今夕撃たなければ必ず手遅れとなるでしょう」
「わかった」
張孟談を韓、魏の君主にまみえさせ、その日の夜に申し合わせて堤防を守る吏を殺し、堤防を決壊させて智伯の陣に灌いだ。
智伯の軍は水を防ぐために混乱した。
韓と魏はこれを挟撃し、趙襄子の将卒はその正面から攻め、大いに智伯の軍を破り智伯を禽にした。
智伯は死に、その国は亡び、地は分けられて、天下の笑いものとなった。
これは貪欲で厭くことがなかったからである。
また智過の言葉を聴かなかったのも亡びた所以である。
智氏はことごとく滅び、ただ輔氏だけがのこった。

【魏】

智伯(智瑶、荀瑶)は魏桓子(魏駒)に土地の割譲を求めた。
魏桓子はあたえなかった。
任章は言った。
「どうしておあたえにならないのですか」
「理由もなく土地を求めてきた。だからあたえなかったのだ」
「理由無く土地を求めれば、隣国は必ず恐れるでしょう。欲を重ねて厭くことが無ければ、天下(の諸侯が)必ず懼れることになりましょう。殿は彼に土地をお与えになってください。智伯は必ず驕ります。驕って敵を軽んじれば、隣国は恐れて互いに親しむでしょう。互いに親しむ兵で。敵を軽んじる国を相手にすれば、智氏の命脈は長く無いでしょう。周書に『これを敗りたいと思ったら、必ずしばらくこれをたすけなさい。これを取ろうと思ったら、必ずしばらくこれを与えなさい』とあります。殿は土地をおあたえになって智伯を驕らせるべきです。殿はどうして天下の諸侯をひきいて智氏を倒す事を謀らないで、一人わが国を智氏の攻撃対象になさるのですか」
「その通りだな」
そのため万戸の邑を智伯にあたえ、智伯は大いに悦んだ。
そして智伯は蔡、皐狼の土地を趙にもとめたが、趙はあたえなかった。
なので晋陽を包囲した。
韓と魏は外で離反し、趙が内から呼応して智氏は遂に滅んだ。

韓と趙が互いに開戦した。
韓が魏に援軍を求めて言った。
「願わくば師(兵二千五百)を借り、それで趙を伐ちたく思います」
魏の文侯(魏都)は言った。
「私は趙とは兄弟の間柄である。故に従うわけにはいかない」
趙もまた兵を借りて韓を攻めたいと言ってきた。
文侯は言った。
「私は韓とは兄弟の間柄である。故に従うわけにはいかない」
二国とも援軍を得られなかった。
使者は怒って帰った。
やがて文侯が自分に味方したことを知り、皆魏に入朝した。

樂羊は魏の将となって中山を攻めた。
樂羊の子は中山にいた。
中山の君主はその子を煮殺して羹にして樂羊におくった。
樂羊は幕下でこれを啜って、一杯を飲み干した。
文侯は堵師賛に言った。
「樂羊は儂のために我が子の肉を食べてくれた」
堵師賛はこたえて言った。
「我が子の肉すら食べるのですから、誰の肉でも食べるでしょうな」
樂羊が中山から帰還すると、文侯はその功績を賞して、心を疑った。

西門豹は鄴の令となって、魏の文侯に赴任の挨拶をした。
文侯は言った。
「行きなさい。必ず功を立て、名を成しなさい」
「敢えて聞きます。功を立て名を成すのに、方法はありますでしょうか」
「ある。郷邑の老人で最初に席をすすめられる人物には、自ら進み出て賢良の士を問うて、これに師事せよ。その人の美点を覆い、醜聞を揚げるのを好む者を探し、これを参考にしろ。物の多くは似ているようで違う。幽莠の幼いのは禾に似ている。驪牛の黄色いのは虎に似ている。白骨は象牙と疑われ、武夫(石)は玉ににている。これらは皆似て非なるものである」

文侯は虞人と狩猟の約束をした。
その日、酒を飲んで楽しんでいて、雨が降っていた。
文侯は出かけようとした。
左右は言った。
「今日は酒を飲んで楽しみ、雨が降っております。貴方はどこへ行かれるのですか」
「私は虞人と狩猟の約束をした。楽しんでいるとしても、一度は会いに行かねばならない」
そして行って自ら狩猟を取りやめることにした。
魏はここにおいてからはじめて強くなった。

魏の文侯は田子方と酒を飲み音楽をかなでさせた。
文侯は言った。
「鐘の音があっていないな。左が高い」
田子方は笑った。
文侯は言った。
「何を笑われるのか」
「私はこう聞いております。君主が明であれば官の和を楽しみ、不明であればを楽しむと。今、殿は音域については審らかです。私は、殿が官のことに暗いことを恐れます」
「その通りだ。つつしんでお教えを受けましょう」

【韓】

三晋が智氏を破り、その領地を分割しようとしていた。
段規は韓王に言った。
「分割される土地ですが、必ず成皋をお取りになるべきです」
「成皋は石溜の地だ。私には使いようが無い」
「そうれは違います。私はこう聞いております『一里の重厚な地で、千里の権勢を動かせるのは、地の利だ。千人の部隊で三軍を破れるのは、不意をつくからだ』と。王よ、私の進言を用いれば、韓は必ず鄭を取れます」
「よかろう」
果たして成皋を取った。
韓が鄭を攻略するにいたり、果たして成皋を起点としたのである。

【燕】

奉陽君は蘇秦とどうしても蘇秦と親交をもとうとしなかった。
そのため、李兌は蘇秦のために奉陽君に言った。
「燕と齊が離れれば、趙が重要になり、齊王と燕が合従すれば趙は軽くなります。今貴方が燕を齊と近づけさせようとするのは、趙の利ではありません。私はひそかに貴方のためにやめるべきだと思います」
奉陽君は言った。
「どうして私が燕と齊を合従させようとしているのか」
「そもそも燕を制しているのは蘇子です。しかしながら燕は弱国です。東は齊に及ばず、西は趙にかないません。どうして東の齊を無視し、西の趙を無視することが出来ましょうか。そうであるのに貴方は蘇秦と仲がよろしくありません。蘇秦は弱国である燕を抱いて、天下で孤立するわけにはまいりません。これは燕を駆り立てて齊と合従させるのと同じです。且つ燕は亡国の子孫の国です。権謀術数で立ち、外国を重んじ、尊貴の国につかえます。ですから貴方のために計れば、蘇秦が善ければ親交を結び、善くなくても親交を結び、燕、齊を疑わせるのです。燕と齊が疑えば趙は重きをなします。齊王が蘇秦を疑えば、貴方に贈り物が多く来るでしょう」
「よろしい」
そして使いを送り蘇秦と親交を結んだ。

【宋】

公輸般は楚のために攻城兵器をつくり、それで宋を攻めようとした。
墨子はこれを聞き、一日百舎(一舎=十二里)を行き、足に出来た肉刺のうえにまた肉刺が出来るほど歩いて行って、公輸般に会い、彼に言った。
「私は宋で貴方の事を聞きました。私はあなたの力を借り王を殺したいと思います」
「私は義として王を絶対に王を殺しません」
「貴方は雲梯をつくり、宋を攻めると聞きました。宋にどんな罪があるのでしょうか。義として王を殺さないで國を攻めるのは、少数を殺さないで大衆を殺す事です。敢えてお聞きします。宋を攻めるのはどういう義なんでしょうか」
公輸般は屈服した。
墨子に頼んで(楚)王に会見させた。
墨子は楚王にまみえて言った。
「今、ここにこういう人がいるとします。飾りのついた車をすてて、隣のくたびれた車を盗もうとし、錦繍をすてて、隣の粗末な衣服を盗もうとし、良い肉をすてて、隣の糟糠を盗もうとしました。これはいったいどういう人でしょうか」
「必ず盗癖がある者であろうな」
「荊の地は方五千里、宋は方五百里で、これは飾りのついた車とくたびれた車の関係と同じです。荊には雲夢沢があり、犀、兕、麋、鹿が満ちています。長江、漢水の魚、鼈、黿、鼉は天下の饒です。宋は所謂、雉、兎、鮒、魚もいません。これは良い肉と糟糠の違いのようなものです。荊には長松、文梓、楩、楠、豫章といった良質の木があります。宋には長木はありません。これは錦繍と粗末な衣服と同じような関係にあります。私は、王の吏が宋を攻めるのはこれら(先にあげた盗癖ある人)と同類だと思います」
「よろしい、宋を攻めることはしないであろう」

【衛】

衛の霊公は癰疽(雍疸)、彌子瑕を側近として寵愛した。
二人の君主の権勢をたの左右を覆っていた。
復塗偵は君主に言った。
「昨晩、私は君の夢を見ました」
「どんな夢かね」
「夢で灶君を見ました」
衛君は忿然として色をなして言った。
「私こう聞いている。夢で人君を見る者は日を夢を見ると。今あなたは夢で灶君を見たと言うが、さっきは君と言った。どういうことか説明できるなら良いが出来ないのであれば死んでもらう」
「日は天下をあまねくてらすもので、一つの物で覆うことは出来ません。しかしながら灶はそうではありません。前の人が燃る者がいれば、後ろの人は見ることが出来ません。今、私は人君の前で燃る者がいるのではないかと思われます。そのため夢に灶君を見たのでしょう」
「なるほど」
ここにおいて癰疽、彌子瑕を遠ざけ、司空狗をとりたてた。

【中山】

中山君は都の士大夫を饗応した。
司馬子期がいた。
羊の羹がいきわたらなかった。
司馬子期は怒って楚に走り、楚王を説いて中山を伐たせた。
中山君は逃亡した。
二人、矛をひっさげその後ろに随う者がいた。
中山君は顧みて二人に言った。
「貴方達は何ものかね」
「臣には、父がいて餓えて死にそうでした。君は一壺の食料を下賜していただきました。臣の父は死ぬ間際に言いました『中山に事が起これば、お前は必ず国のために死ぬのだぞ』と。だから来て君のために死のうと思っております」
中山君は喟然として仰ぎ嘆息して言った。
「ものを与えるのは多い少ないのではなく、困っているか否かなのだな。怨みの深い浅いは関係ない。その人の心を傷つけるか否かだ。私は一杯の羊の羹で國を亡ぼし、一壺の食料で二人の士を得た」

魏の文侯は中山を滅ぼそうとした。
常荘談は趙桓子に言った。
「魏が中山を併合すれば、必ず趙も無くなることになりましょう。殿、どうして公子傾をもらって正妻とし、これを中山に封じられないのですか。これで中山がまた存立つことになります(ゆえに趙も安泰です)」

樂羊は魏の将となって中山を攻めた。
その子は当時中山にいた。
中山の君主はその子を煮て羹を作り、樂羊におくった。
樂羊はこれを食べた。
古今、これをほめて言う。
「樂羊は子を食らって自らの信義を守ったのは、明らかに父の道を害して法を全うする事を求めたのだ」