歌舞伎は世界に誇る、日本の伝統芸能です。
しかし、元々400年前に登場したときには、大衆を喜ばせるための一大エンターテイメントだったのです。
なんとなく難しそうなので、ということで敬遠されている方も多いのかもしれませんが、そもそもは庶民の娯楽だったもの。
一度観てみれば、華やかで心ときめく驚きと感動の世界が広がっているのです。
しかも歌舞伎は、単に400年もの間、ただただ伝統を受け継いできただけではありません。
時代に呼応して常に変化し、発展・進化してきているのです。
This is ” KABUKI ” ( ノ゚Д゚) もっと歌舞伎を楽しもう!(4) 演目の分類と一覧について
前回は歌舞伎の演目をざっと整理してみましたので、ここからは具体的な演目の内容について触れてみましょう。
今回は、歌舞伎十八番の中から『景清』です。
この芝居は『牢破りの景清』とも呼ばれ、平家の侍・悪七兵衛景清は鎌倉方に捕らえられ牢に入れられるが、豪勇を奮って堅固な牢を破って飛び出し、荒事芸を見せるものですが、『勧進帳』や『矢の根』のように終始音曲が入ります。
また阿古屋と人丸がそれぞれ箏と胡弓を演奏するのですが、享保17年(1732年)の9月に大坂竹本座で初演された人形浄瑠璃の『壇浦兜軍記』の影響といわれています。
なお現行の舞台は、舞台正面および左右が全て黒い岩組で中央の洞に牢格子がはまるという大道具ですが、古くは『勧進帳』のように能舞台を模した舞台の中央に、土牢の作り物が置かれるというものだたようです。
初演は享保17年中村座、二代目市川團十郎の景清で、その後元文4年(1739年)7月の市村座、『初髻通曽我』の四番目に『菊重栄景清』の外題で市川海老蔵(二代目團十郎)の景清で外記節を使って上演されています。
牢を破るという趣向の景清は團十郎以外の役者も演じていたものの、二代目團十郎が演じて以来『牢破りの景清』は市川家のお家芸となったようです。
天保13年(1842年)3月、河原崎座で五代目市川海老蔵が景清を演じたとき、それまで外記節や大薩摩節を使っていたのを改めて常磐津節としたのですが、景清の衣裳に本物の鎧を着込んでいたことで幕府からお咎めを受け、興行は即刻中止、海老蔵本人は手鎖ののち江戸十里四方追放の処分となり、「景清は牢を破って手錠食い」と世の人から言われるに至ったそうです。
この事件により、市川家にとっては縁起の悪い芝居であるとしてこの『景清』を演じることは無かったのですが、明治41年(1908年)の歌舞伎座で、九代目團十郎の弟子だった七代目松本幸四郎の景清でわずかに上演されています。
昭和48年(1973年)には海老蔵時代の十二代目市川團十郎が常磐津をやめて大薩摩に戻して上演しています。
『景清』
「平家物語」にも出てくる「平 景清」、通称「悪七兵衛 景清」が主人公。
源平の戦が終わって平家が負けたあとも源氏を恨み続け、頼朝をつけ狙いう景清。
平家滅亡後、悪七兵衛景清は捕らえられ、鎌倉問注所にある土牢に押し込められている。
景清は平家の残した重宝の隠し場所を知っているので、白状させたい源氏側。
その景清を源氏の味方につけるため、また平家の重宝である青山の琵琶と青葉の笛の行方を尋ねるために、秩父重忠と岩永宗連が土牢を訪れるが景清は相手にしない。
そこで岩永が景清の妻である阿古屋と娘の人丸、さらに平敦盛の遺児である保童丸も引き出して脅すが、「取り所の無いうつけ」と罵るばかりである。
それを見ていた重忠が箏と胡弓を用意し、阿古屋に箏を、人丸に胡弓を演奏させる。
妻や娘の手になる音曲を聞かせて、心情を和らげようという作戦であった。
すると箏と胡弓からそれぞれ雲気が立ちのぼる。
重忠はこの雲気の行く先にこそ青山の琵琶と青葉の笛があると断じるが、岩永は重忠のすることは手ぬるいと、人丸を責めようとするのでついに景清は怒りを爆発させ大暴れし、牢を破って阿古屋たちを逃がす。
それをやらじとする岩永を、頼朝公より三度までは見逃せとの仰せであると重忠がとどめ、景清は再会を約して去っていった。