武士道より学ぶ!新渡戸稲造の表す思想と陽明学の精神!

今回は2回程に渡って、『武士道』について整理しています。
前回は、『武士道』としての精神性についてでした。
※)『武士道』より学ぶ 大和魂編!ますらをの道を行く

海外の方がイメージとして持っているブシドーと、私達日本人の血脈として流れている『武士道』精神。
そしてその精神が陽明学として息づいていくプロセス。
このあたりの切り口が今回のポイントです。

まずは『武士道』の根幹にある武士の役割からです。

【武士の役割と穢れ】
以前、神道における考え方※)にふれたことがありますが、神道の神は、実は穢れを非常に嫌う存在です。
※)このあたりの整理した内容については、以下を参考にしてください。
 ・神道と仏教 神仏習合って何でしょう?
 ・神道、仏教、儒教 事始め

穢れというのは、諸悪の根源であり、精神的な汚れであり、簡単に洗い流すことができるものではなく、禊やお祓いを行うことでしか取り除くことができないものです。
従って、穢れが付くと神様に嫌われ疎まれることになるため、禊やお祓いをしなければならなくなる訳です。
特に大きな穢れは人の死であり、その穢れに触れると、魂が穢れて大きな不幸を招くと考えられています。
身内に不幸があって喪中に入るということは、穢れが身についているということ。
それを払い落とすには時間を要するため、喪中の間に神社に立ち入ったりハレの場に出ることは、その場を穢すことから嫌われるために、立ち入りを禁止する、という考え方になるのです。
これはあくまで神道としての考え方、信仰によるもので、科学的には一切実体がないものですが、それが存在すると信じている人達にとっては大きな問題です。
穢れとは、神様と同様、信じるものにとっては影響がある宗教的な概念ということなのです。

こうしたことから古来から日本人というものは、穢れを嫌い、穢れていないもの、汚れていないこと、清く正しく美しいものを美徳としてきました。
怨霊なども同義で、これは恨み、妬み、憎しみを具現化したものですから、明らかに穢れたものです。
そして、穢れは禊やお祓いを行うことでしか取り除くことができないものですから、神様の力によって強制的に打ち倒すのではなく、なだめふせた上で祓い、消滅させるのではなく、清い神、正しい神へと変えていこうという発想になっていくのです。

こうした日本人の精神の根底に流れる神道の穢れの考え方ですが、これが古来の戦、戦乱の中においては大きな矛盾を生みます。
それは、戦乱ですから敵が襲い掛かってくれば槍や刀を持って相手を殺傷し、倒さなければなりません。
しかし、人を殺傷するということは、穢れを生み、それは自らに降りかかるということです。
神道の思想がない他国では、こうした穢れの考え方がないので、戦いともなれば自分や家族を守るために自らが剣を持って敵を殺傷するのは当たり前の発想です。
だから、武士、という存在は決して生まれません。
しかし、穢れの考え方のある日本では、位が高くなれば、こうした殺傷行為は他者に任せて、自らは穢れから出来る限り遠い位置に居ようと考える。
そのためには、自分に代わって穢れを引き受ける存在、武士が必要となってくる訳です。

【新渡戸稲造の『武士道』】
こうした武士の存在ですが、そのあり方を明確にするために、新渡戸稲造は1899年に刊行された英文『武士道』で、武士(=サムライ)というものを再定義しました。
穢れの考え方以上に必然とされるのは、国家の治安維持のために組織立った軍隊が必要で、戦が起きたときには攻め込んでくる敵を打ち倒さない限り、平和は維持できないという発想です。
それを、国家に対する忠節という言葉で包んでわかりやすく説いたのが『武士道』というものだったと考えられます。
「日本に『武士道』あり」と世界に広く示した新渡戸稲造の『武士道』が、当時の日本人が想像する以上に西洋で受け入れられたのは、サムライの論理が非常に西洋的で、彼らにとってわかりやすく理解しやすい発想だったからに相違ないからでした。

そもそも『武士道』を示した新渡戸は、キリスト教徒の多いアメリカの現実に衝撃をうけ、同時にキリスト教の倫理観の高さに感銘を受けたそうです。
新渡戸は、近代において人間が陥りやすい拝金主義や唯物主義の根っこにある個人主義に対して、封建時代の武士は社会全体への義務を負う存在として認識していたようです。
同時に新渡戸にとっての武士とは、国際社会において日本人の倫理感の高さ、国民一人一人が社会全体への義務を負うように教育されていると説明するのに最適のモデルであったと考えたようです。

『武士道』は成文化された法律という訳ではありませんが、武士が守るべきものであり、道徳の作法です。
つまり、戦士たる高貴な人の本来の職分のみならず、日常生活における規範をもそれは意味しているのです。
日本に『武士道』があるように、ヨーロッパには騎士道がありますが、新渡戸が表現した『武士道』とは「騎士道の規律」であり、「高貴な身分に付随する義務」でした。
そのため『武士道』は、儒教や仏教の長所だけを継承していながらも、義を中心にして勇・仁・礼・誠と名誉を深く重んじるのはむしろ騎士道とも共通するところを狙ったのだと思われるのdす。
その影響は欧米に広く行き渡り、アメリカ第26代大統領セオドア・ルーズベルトは、この本に大きな感銘を受け、5人の我が子と、当時の大臣や上下両院の議員などに分配し「これを読め。日本『武士道』の高尚なる思想は、我々アメリカ人が学ぶべきことである」と言ったという逸話まで残っているのです。

更に新渡戸は、『武士道』が日本人の感情生活を支配している二つの特徴をあわせ持っていると述べています。
それは、すなわち忠節という言葉に表される愛国心と主君への忠誠心です。
これらのものは教義というより、その推進力として作用した。というのは、中世のキリスト教の教会とは異なり、神道はその信者にほとんど何も信仰上の約束事を規定しませんでしたが、代わりに行為の基準となる形式を与えたのです。

【『武士道』と陽明学】
儒教と『武士道』を比べると、儒教が「仁」を徳目の最上位に置いたのに対し、『武士道』はその中心に「義」を置いています。
そのため、武士の行動基準はすべてこの義を基とし「仁」「義」「礼」「智」「信」の五常の徳を「仁義」「忠義」「信義」「節義」「礼儀」などに読み替えた上で「廉恥」「潔白」「質素」「倹約」「勇気」「名誉」といったものを加えながら、武士の行動哲学としたのです。
そして、これらの道徳律の集大成として、「誠」の徳が最高の位置にすえられたのです。

このように『武士道』とは儒教のアレンジであったとしても、『論語』や『孟子』は武家の若者にとって大切な教科書となり、大人の間では議論の際の最高の拠り所となっていました。
また、知性そのものは道徳的感情に従うものと考えられた『武士道』は、知識のための知識を軽視した知識は本来、目的ではなく、智恵を得る手段であるとしました。
このように知識は、人生における実際的な知識適用の行為「知行合一」と同一のものとみなされていたのです。
新渡戸稲造によれば、日本人の心はこうした王陽明による陽明学の教えを受け入れるために、特に開かれていたといいます。
陽明が人間性の根本に「良知」というものを考えたことは、単なる学説としてみれば一つの理論にすぎません。
しかし、この理論は「知行合一でなければならない」という信念に支えられており、その信念が時代の要求に応じて武士の生き方を規定していったのです。
陽明学※)が極端なまでに精神的なものを持つ理由もそこにありました。
※)陽明学については、以下に幾つか整理したものがありますので、参考にしてください。
 ・朱子学と陽明学の違い、日本陽明学とは!
 ・伝習録より学ぶ!心を統治、練磨することの大切さ!
 ・吉田松陰の命日に想う

そもそも『武士道』なるものは、その人間の生死の関わるところに生まれてきたのです。
”その死が後背に退いたといっても、自分を律する規範がそこで霞むようなことがあってはならない。
 宗教的な信念によるものでなければ、自分の心による絶対的な判断力なのである。”
陽明学はこれを「良知」と名づけ、それを発動することに最高の意味を与えたのです。
生死をかけて武士の道を教える方法が、時代とともに古くなるにつれて、陽明学がそれに代るものとして位置付けられ、当時の日本における精神至上主義を強めていったのです。
明治維新の立役者でもある吉田松陰は陽明学を学び、その教えは高杉晋作や久坂玄端を始めとする多くの幕末維新の志士へと受け継がれ、それは西郷隆盛にまで至ります。
明治の時代を切り開いた『武士道』は、その原点は陽明学とともにあったのです。

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