荘子より学ぶ!何ものにも束縛されない絶対的な自由を求めて!

古代中国の春秋時代の思想家である老子の唱えた『道(タオ)』の思想は、戦国時代の荘子の無為の思想と並んで老荘思想と言われます。
老荘思想が最上の物とするのは「道」です。
道は天と同義で使われる場合もあり、また天よりも上位にある物として使われる場合もあります。
孔子の説いた『儒教』は、聖人君子の徳治主義を理想とした世俗的な政治思想の側面を持ちますが、荘子の『老荘思想』は、何ものにも束縛されない絶対的な自由を求める思想です。
『老子』『荘子』『周易』は三玄と呼ばれ、これをもとにした学問は玄学と呼ばれました。
『老子』については、こちらを参照ください。
老子より学ぶ!ありのままのあなたへ!
また『周易』は易経に記された爻辞、卦辞、卦画に基づいた占術ですので、以下を参考にしてみてください。
当たるも八卦、当たらぬも八卦 易経って何?
易経 実際に占う方法です
易経 実際に易を占ってみましょう。
易経 本来の在り方を知ることが大事です。
今回はそのうちの『荘子』について、整理してみたいと思います。

荘子は『無為自然・一切斉同』を重んじる超俗的な思想家で、老子の「道」と「無為自然」の哲学を守りながらも、世俗的な政治・名誉から遠ざかって隠遁・諧謔する傾向が濃厚でした。
絶対的に自由無碍な境地に到達した人を”神人””至人”と呼ぶ反面、権力・財力・名誉などを求めて自己の本質を見失い奔走・執着する世俗の人間を超越的視座から諧謔・哄笑した、脱俗の思想家でした。
○無為自然・・作為を弄せず、あるがままの自然に従って生きよ。
○清浄恬淡・・限りない欲望や執着心を捨て去って生きよう。
○柔弱謙下・・水のように柔軟で謙虚な態度を保ち、強さや賢さをひけらかすこともなく、他者と争うことも捨て去って生きよ。
荘子が唱えた『無為自然・清浄恬淡・柔弱謙下』の思想は、その後の『道教・道家』の生成発展にも大きな影響を与え、老子・荘子は道教の始祖とも呼ばれています。

荘子の残した『荘子』は、内篇七篇・外篇十五篇・雑篇十一篇の合計三十三篇、文字数にして六万五千余字の著述です。
その表現は、地味で玄妙で難解な老子の文章と異なり、奇想天外、支離滅裂な誇大表現、一方では誰にも分かりやすい寓話を多用しています。
内編は逍遥遊、斉物論、人間世、徳充符、大宗師、応帝王に分かれますが、特に有名なのは逍遥遊と斉物論です。
逍遥遊は作為を捨てて悠々自適し、何物にもとらわれることない自由の境地を説き、斉物論は万物は全て等しい、この道理によって人は智の呪縛から逃れ、真の自由を獲得できると説きます。
これは、荘子の哲学の基幹にあたります。

これらからもわかるように、老子の思想がより多く処世の智恵であるのに対して、荘子の思想はより多く解脱の智恵でした。
また、老子の思想がより多く現世的な生を問題としているのに対して、荘子の思想はより多く絶対的な生を問題としていた訳です。
世俗の偶像化を寄せ付けない思想としての厳しさと奔放さを、じっくりと味わってみてはいかがでしょうか。

参考までに、逍遥遊と斉物論を現代語訳にて一部抜粋です。

目次:
【内篇】
逍遥遊
斉物論
養生主
人間世
徳充符
大宗師
応帝王
【外編】
駢拇
馬蹄
?篋
在宥
天地
天道
天運
刻意
繕性
秋水
至楽
達生
山木
田子方
知北遊
【雑編】
庚桑楚
徐無鬼
則陽
外物
寓言
譲王
盗跖
説剣
漁父
列禦寇
天下

【逍遥遊】

逍遙游(1)
この世界の北の果て、波も冥(くら)い海に魚がいて、その名は鯤という。その鯤の大きさは、いったい何千里あるのか見当もつかないほどの、とてつもない大きさだ。 この巨大な鯤が(時節が到来し)転身の時を迎えると、姿を変えて鳥となる。その名は鵬という。その背(せな)の広さは幾千里あるのか見当もつかない。 この鵬という巨大な鳥が、一たび満身の力を奮って大空に飛びたてば、その翼の大きいこと、まるで青空を掩(おお)う雲のようだ。 この鳥は、(季節風が吹き)海の荒れ狂うときになると、(その大風に乗って飛び上がり)、南の果ての海へと天翔(あまがけ)る。「南の果ての海」とは天の池である。

逍遥遊(2)
齊諧(セイカイ)という人は世の中の不思議な話をしっている物識りだが、彼の話によると、「鵬が南の果ての海に移る時には、水に撃(う)つこと三千里、つむじかぜに羽ばたいて上ること九万里、六月の風に乗って天がけり去る(飛び去る)のだ」という。 かげろうか、塵埃(ジンアイ)か、生きとし生けるもののひしめきあって呼吸するこの地上の世界。 その遙か上に広がる大空の深く青々とした色は、いったい大空そのものの色であろうか。それとも遠くへだたって限りがないから、そう見えるのであろうか。 鵬が九万里の高みから逆に地上の世界を見下ろすとき、やはりこのように青々と見えているに違いない。

逍遥遊(3)
そもそも水のたまりかたが十分深くなければ、そこに大きな舟を浮かべるのには堪えられない。杯の水をでこぼこのある床(ゆか)の上にくつがえすと、せいぜい塵芥(ちりあくた)ならそのたまり水の舟ともなろうが、そこに杯を置くと底が床についてしまう。たまり水は浅いのに舟は大きいからである。 風の集まりかたがじゅうぶん多くなければ、そこに鵬の大きな翼をのせるのには堪えられない。そこで九万里も上ってこそ翼の下にじゅうぶんな風が集まるのである。さて、そのうえではじめて、今こそ大鵬は風に乗り青々とした大空を背負って何物にもさえぎられず、そのうえではじめて、今こそ南の海を目ざそうとするのである。

逍遥遊(4)
蜩(ひぐらし)と学鳩(こばと)とがそれをせせら笑っていう、「我々はふるいたって飛び上がり、楡(にれ)や枋(まゆみ)の木に勢いよく飛びつくが、それさえ行きつけずに地面にたたきつけられてしまうこともある。それなのに何の必要があって九万里もの高さに翔けのぼり、南に行こうとするのか。(なんとおおげさで無用なことだろう)と。 莽(くさ)の青々としげった近郊の野原に出かける者(ひと)は、三食の弁当だけで帰ってきて、それでもまだ満腹でいられるが、百里の旅に出る者(ひと)は、一晩かかって食糧の米をつき、千里の旅に出る者(ひと)は、三か月もかかって食糧を集めて準備をするのだ。大鵬が図南(トナン)の翼(つばさ)を張るためには九万里の上騰(ジョウトウ)が必要となるのだが、この小さな蜩(ひぐらし)と学鳩(こばと)に、大鵬の飛翔のことなど、いったいどうして理解できようか。 知恵小さきものは、大いなる知恵をもつものには及ばず、短き年寿(よわい)をもつものは、長き年寿(よわい)をもつものにはとうてい匹敵できぬのである。

逍遥遊(5)
どうしてそのことが分かるか。朝菌は朝から暮れまでのいのちで、夜と明け方を知らず、?蛄(夏ぜみ)は夏だけの命で、春と秋を知らない。これが短い寿命である。楚の国の南方には冥霊(メイレイ)という木があって、五百年のあいだが生長繁茂する春で、また五百年のあいだが落葉の秋である。大昔には大椿(タイチン)という木があって、八千年のあいだが生長繁茂の春で、また八千年のあいだが落葉の秋であった。 ところが、彭祖(ホウソ)は、わずかに八百年を生きたというだけで、長寿者として大いに有名であり、世間の人々は、長寿のことを話題にする場合は必ず彭祖をひきあいに出す。何と悲しいことではないか。

逍遥遊一(6)
草木も生ぜぬ、北極付近の不毛の地に波冥(くら)き海がある、天の池である。そこに魚がいて、その体の広さは数千里、その長さは誰にも見当がつかない。その名は鯤(コン)という。そこにはまた鳥がいて、その名は鵬(ホウ)という。背中はまるで泰山のようであり、翼は大空いっぱいに広がった雲のようである。さてこの大鵬は、はげしいつむじ風にはばたくと、くるくると螺旋(ラセン)を描いて九万里もの上空に舞い上がり、雲気の層を越え出て青い大空を背負うと、そこで始めて南方を目ざして南の冥(くら)き海にゆこうとするのである。 斥?(うずら)がそれを笑っていうには、「あいつはいったいどこへ行こうとするのだ。おれは力いっぱい跳躍して飛び上がっても五・六仞(ジン)の高さで落ちてしまい、つる草[金谷治 釈]のしげみの中を飛びまわる。これだってすごい飛び方なんだ。それなのに、あいつはいったいどこへ行こうとするのだ」と。 これが小さいものと大きいものとの見解の相違である。

逍遥遊(7)
だから、その知識は一つの官職に任ぜられて功績をあげるにふさわしいというだけ、その行為は一つの郷(むら)を感化して睦(むつ)みしたしませてゆくというだけ、そのすぐれた徳と秀でた才能が一国の君主の思し召しにかない、召し出されて知遇を受けるというだけの、あの人々(世間でいう秀才たち)が、自分のことをふりかえるとき、この蜩(ひぐらし)・学鳩(こばと)・斥?(うずら)がおのれの小さき飛翔を至上のものと思うその卑小さと似ているのである。 そこで、(無抵抗主義・反戦主義の思想家)宋栄子(ソウエイシ)は、ニタリニタリと、(世間の価値づけに一喜一憂する、善良なる常識人である)彼らを冷笑するのである。そして、世間のすべての人々に誉められても、そのためにさらに励むということもなく、世間のすべての人々に誹(そし)られても、そのためにがっかりするということもなく、世間の毀誉褒貶に心を動かされず、おのれに本質的なもの(内)と然らざるもの(外)とを見分け、人間にとって何が真の栄誉であり、何が真の恥辱であるかを明らかにするだけの主体性を、いちおうは持った人間である。そしてその意味では宋栄子は世俗を超える(あくせくしない)人間である。しかしそれはあくまで、それだけのものであって根本の確立したものではない。宋栄子は世俗を笑いながら、なお世俗にこだわるところがある。彼の足はなお世俗を離れていないのである。真の超越者は現実を飛翔するのである。 列子は風にうち乗ってかけめぐり、軽やかですばらしい。(風が変わる)十五日がたって、はじめて戻ってくる。彼は世間的な幸福の追求に汲々(キュウキュウ)としていない。これは自分で歩くわずらわしさから解放されているという点では宋栄子よりもすぐれているのであるが、まだ頼みとするものを残している。列子の飛翔はなお風に依存し、彼の超越はなお外に在るものにとらわれている。つまり彼の超越はまだ真に自由自在な絶対の境地には達していないのである。 ところが天地の正常さにまかせ自然の変化にうち乗って、終極のない絶対無限の世界に遊ぶ者ともなると、彼はいったい何を頼みとすることがあるだろうか。彼は、大自然の生成変化の極まりなきがごとく、一切の時間と空間を超えた絶対自由の世界に逍遥するから、何ものにも依存することなく、何ものにも束縛されることがない。 そこで、「至人には私心がなく、神人には功績がなく、聖人には名誉がない」というのである。つまり絶対者は世俗を遙かなる高みに超えるから世俗的な自我にとらわれることも、世間的な価値に左右されることも、人間的な言葉によって栄誉づけられることもないのである。

逍遥遊(8)
堯(ギョウ)、が天下を許由(キョユウ)に譲ってこういった。「太陽や月が出て明るいのに、まだ炬火(たいまつ)を消さずにいるのは、明るさについて、なんとむだなことではありませんか。季節にかなった雨が降っているのに、まだ潅漑で水をかけているのは、その潤(うるお)いについて、なんとむだ骨ではありませんか。先生が即位されたなら天下はよく治まるでしょうに、先生のような人格者をさしおいて、わたしのような人間が天下を主宰しています。わたしではとても不十分です。わたしは自ら省みてわが身の拙さが恥ずかしいのです。どうか天下をお譲りしたいのですが」と。 許由が答える「あなたが天下を治めて、天下はすでによく治まっている。それなのに私があなたに代われとは、名誉が欲しかろうとでもおっしゃるのか。名誉(名目)などというものは実質の客(一時的な仮りのもの)にすぎない。わたしに、実質をともなわない仮りの客となれといわれるか。 鷦鷯(みそさざい)は深い林の中に入って巣をつくっても、わずか一枝のことであるし、偃鼠(むぐらもち)は大きな川で水を飲んでも、その小さな腹を満たすだけだ。君よ、帰って休息するがよい。このわたしが天下をもらい受けたとて何としよう(何もすることがないのだ)。たとい料理人が料理を怠ろうとも、神主がお供えの酒器や肉台(まないた)を持ってきてその代わりをしたりはしないものだ。

逍遥遊(9)
肩吾(ケンゴ)が連叔(レンシュク)に問いかけていうには、「わしは接輿(セツヨ)から話を聞いたが、とても大げさで、夜空にはてしなくひろがる天の河のように遠く遙かでつかまえどころがない。世間一般の話とは懸け離れていて、常識ではとても受け入れられないほど現実ばなれしているよ」と。

逍遥遊(10)
連叔がたずねた、「その話とはどんな内容だったのか?」と。肩吾が答えて「『はるかなる姑射の山には仙人が棲んでいる。肌(はだえ)は氷か雪のように真っ白で、しなやかな肢体(シタイ)をういういしいなまめかしさに包んだ処女(おとめ)のように清浄無垢である。穀物などは食べることなく、風を吸って露を飲み、雲気の流れにまかせて飛龍にうち乗り、天地宇宙の間を自由自在に飛翔して回り、この世界の外で遊んでいる。ひとたびその精神が凝集すれば、災禍なく疫病なく、一年の実りを成熟させて飢餓をなからしめ、その宇宙的な精神のはたらきが、生きとし生けるものに生の安らかなる歓喜を謳歌させる。』というのだ。わしはこのようにとほうもない話はとても信用できぬのだ。

逍遥遊(11)
連叔は言った、「なるほど、『視力のない人には文章(あやいろどり)の観(ながめ)をみるすべはないし、聴力のない人に鐘鼓(ショウコ=音楽)の声(ねいろ)をきくすべはない。けれどもそれは、形骸(からだ)の能力だけに限ったことではなく、知識についても同じことがいえる。』といわれるが、お前こそ、まさにそれだ。この「神人」は、万物をあまねく包みおおう究極的な「一」の世界に立ち、無為自然の「徳」によって一切存在を感化してゆくのだ。世間の人々が平和を願うからといって、天下のために苦労をして勤めるようなことをするだろうか。人為的な作為である政治の世界からは高く超越するのだ。この神人は、なにものにも傷つけられることがない。大水が出て天にとどくほどになっても溺れることがなく、大旱魃(おおひでり)(旱魃=干魃)で金属や岩石が溶けて流れ、大地や山肌が焦(こ)げるほどになっても熱さをかんじない。この神人は、その体の塵(ふけ)と垢(あか)のような「かす」や食いかすからでも堯舜くらいは簡単に作り出すことができるのだ。”孰(な)んぞ肯えて物(よのなか)をおさむることを以て事(しごと)と為(せ)んや”わざわざ人為的な作為である政治の世界に身をおくことはないのだ」と。

逍遥遊(12)
宋の国の人が章甫(ショウホ)の冠を仕入れて、南の越(エツ)の国へ売りに行った。ところが越の人はざんばら髪で、体には入れ墨をするのが一般的な風俗であるから、宋の国で珍重される章甫の冠も、越の国では全く用をなさなかった。堯は天下の民を統治し、世界の政治を安定させてから、藐姑射の山を訪ねて、四人の神人に逢ったが、都の郊外、汾水の北のあたりまで帰ってきて失神(茫然自失)し、自分が天下の王者であることを忘れてしまった。

逍遥遊(13)
恵子が荘子にむかって話した、「魏の王が私に大きな瓢の種をくださった。私はそれを植えて実がなったのだが、なんと五石(ゴセキ)もの量が入るのです。それに飲み物を容(い)れたら、とてもたやすく持ちあげられず、それを割って柄杓(ひしゃく)を作ったを作ったら、底が平たくて何も入らない。本当にばかでっかくて、使いようがないので、それをぶちこわしてしまったのですよ。(あなたは、いつもおおげさなことばかり言って役立たずですなあ) 荘子はいった。「あなたは、やっぱり大きなものの使い方がへたですなあ。宋の人であかぎれ止めの薬を上手に作る人がいて、(その薬を手につけて)絹わたを水で晒(さら)すのを代々の家業としていたのだが、旅人がそれを聞いて、薬の作り方を百金で買いたいと言ってきた。親族を集めて相談したところ『わしらは、代々絹わたを晒す仕事をしてきたが、たったの五・六金をもうけただけだ。それが、今すぐこの技術が百金で売れるというのだから、(この技術を)譲ることにしたい』旅人はその作り方を教えられると、それを呉王に説明して、水上戦に利用することをすすめた。やがて越(エツ)の国との戦争がおこったので、呉王はこの男を将軍にとりたてて、冬の最中(さなか)に越の軍隊と水上戦をまじえて越軍を大いにうち破った。(越軍の方ではあかぎれに悩まされてじゅうぶんな働きができなかったから。呉王は功績をたたえて)国土を分割して、この人を大名にとりたてた。さて、あかぎれを止めることができるという点では同じなのに、一方は大名にとりたてられ、一方は一生にわたって絹わたを晒す仕事からのがれられないというのは、そのあかぎれ止めの使い方が違ったからです。今、あなたに五百石のものが入る瓢があるなら、それを大樽(おおだる)の舟にしたてて、長江のひろき流れか湖のはるかなる波に浮かんで、心ゆくまで水と空の大自然のなかに自己を遊ばせたらよいものを。それをしないで、『これは無用だ』と絶叫するとは、蓬(よもぎ)のように、ボサボサとして、すっきりしない男だなあ・・・」と。

逍遥遊(14)
荘子曰わく、「子は独(ひと)り狸牲(リセイ)を見ざるか。身を卑(ひく)くして伏し、以て敖者(ゴウシャ)を候(うかが)い、東西に跳梁(チョウリョウ)して高下を避(さ)けざるに、機辟(キヘキ・わな)に中(あ)たりて、罔罟(モウコ・あみ)に死す。今、夫(か)の?牛(リギュウ)は、其の大なること垂天(スイテン)の雲の若(ごと)し。此れ能く大たるも、而(しか)も鼠(ねずみ)を執(とら)うること能(あた)わず。今、子に大樹ありてその無用を患(うれ)う。何ぞこれを無何有(ムカユウ)の郷(キョウ)、広漠(コウバク)の野(ヤ)に樹(う)え、彷徨乎(ホウコウコ)として其の側(そば)に無為(ムイ)にし、逍遥乎(ショウヨウコ)として其の下に寝臥(シンガ)せざるや。斤斧(キンフ)に夭(たちき)られず、物の害する者なし。用うべき所なきも、安(なん)ぞ困苦する所あらんや」と。 恵子が荘子にむかって話しかけた、「私のところに大木があって、人はこれを樗(おうち)とよんでいますが、その幹はふしくれだったこぶだらけで直線はひけず、その小枝は曲がりくねって、規(ぶんまわし=コンパス)や矩(さしがね)は使えない。だから道ばたに立てておいても大工はふりむきもしません。ところで、あなたの話も大きすぎて用いようがないから、人々みんなにそっぽを向かれるのですなあ」と。 荘子はいった、「あなたは、あの狸牲(いたち)を見たことがないのですか、世間の人間なら誰でも見ていることだから、あなただけが知らないはずはあるまいに。身を低めて隠れていて、ふらふらと出てくる小さな獲物(えもの)にねらいをつけ、あちこちと跳びはねて高い所へも低い所へもゆくけれども、結局はその器用さがわざわいして機辟(わな)に中(はま)り、罔罟(あみ)にかかって殺されます。ところであの?牛(からうし)は、その大きいことはまるで大空いっぱいに広がった雲のようで、とても大きいけれど、小さな鼠(ねずみ)をつかまえたりはしないのですよ。今あなたのところに大木があって、それを使いようがないとご心配のようですが、どうして、それを物一つない世界、人ひとりいない曠野の真中に立てて、その側(かたわ)らに一切の人間的なるものを超越して自由なる孤独を彷徨し、その下に満ち足りた安らかさをねそべって豊かな生の充溢を逍遥しないのですか。世間から無用のレッテルをはられ、大工からも見捨てられたこの樗(おうち)の大木は、自己の天然のよわいを全うして、「斤斧」すなわち、まさかりやおのに刈り倒されることもなく、すべての物から安全な自己を確保するでしょう。世間的に無価値とされるからといって、何も気に病むことはないではありませんか」と。

【斉物論】

斉物論(1)
南郭子綦(ナンカクシキ)が机にじっと隠(よ)りかかって、天を仰いでゆったりと大きく息をついた。うつろな心に身も世も忘れたかのようである。弟子の顔成子游(ガンセイシユウ)がその前に立ってひかえていたが、質問してこう言った「いかがなされましたか、肉体はもちろん枯れ木のようにすることができるし、心はもちろん『死(つめた)き灰』 ─ 火の消え失せた灰のようにすることができるというのはこのことなのでしょうか。今日の机にもたれたお姿は、今までのお姿とは違って格別でございますが」と。 子は答えた、「偃(エン)よ、よい質問だ。鋭い観察ができているよ。今の場合は、私は自分の存在を忘れたのだ。お前にはそれがわかるかな。お前は人籟(ジンライ)を聞いているとしても、まだ地籟(チライ)を聞いたとはいえない、地籟を聞いたとしても、まだ天籟(テンライ)を聞いたことはないであろう」と。

斉物論(2)
子游が言った、「ぜひともそのことについてお教えください」と。子?は答えて言った、「そもそも大地のあくびで吐き出された息、それを風という。この風は、吹き起こらなければそれまでだが、一たび吹き起これば、すべての穴という穴が激しく音をたてはじめる。お前は、その音を聞いたことがないか。山の木立がざわめき揺れて、百囲(かか)えもある大木の穴は、鼻の穴のような、口のような、耳の穴のような、枅(ますがた)のような、杯(さかずき)のような、臼(うす)のような、深く狭い窪地(くぼち)のような、広い窪地のような形のものに風が吹きあたれば、水のいわばしる音、高々とさけぶ音、するどい声で叱りつけるような音、吸い込むような音、金切り声で叫ぶような音、泣きさけぶような音、こもった音、咬(とおぼえ)する音がして、前のものが于(ううっ)とうなると、後のものは?(ごうっ)とこたえる。そよ風のときには小さく和(こた)え、つむじ風が舞いあがるときには大きく和(こた)える。そして大風一過して天地がもとの清寂に帰ると、もろもろの穴はひっそりと静まりかえる。お前はあの、風の中の樹々が、ざわざわ、ゆらゆらと揺れ動くさまを見たことがないか」と。

斉物論(3)
子游が言った、「地籟(地のふえ)とは、もろもろの穴のこと、人籟(人のふえ)とは竹管のことですね。恐縮ですがおうかがいします、天籟(天のふえ)とは何かをお教えください」と。子?が答えた、「全ての穴や竹管など、音をたてるものはさまざまで同じではないが、それぞれに自分の音を出しているのだ。すべて自己自身の原理によって響きとなる。背後において響きとならしめる何者かが存在するであろうか」と。

斉物論(4)
大知のあるものは、ゆったりとして落ち着いているが、小知のものはこせこせとして、こまごまと穿鑿(せんさく)する。偉大なことばは、あっさりと淡泊であるが、つまらぬことばは、いたずらに口数が多く煩わしい。その寝ているときは魂が外界と交わって夢にうなされ、その目覚めているときは肉体が外界に開かれ身体の感覚がはたらいて心が乱され、落ち着きがなくなる。そのため相互に他と交渉しあってトラブルを惹き起こし、日ごとに心の闘争をくりかえす。 無頓着なものがあり、深刻なものがあり、こせこせと細かいものがある。小事をおそれるものは、たえずびくびくしているが、真に大きなおそれをもつものは、かえっておおらかで余裕があるように見える。 その発動が石弓のひきがねを引くようにすばやいというのは、凡人が是非を立てて争うさまをいったものである。その頑固さが神の詛盟(ちかい)をまもるときのようだというのは、その勝利の立場を守り通そうとすることをいったものである。その殺(しぼ)み枯れるさまが秋や冬のようだというのは、凡人が日ごとに衰えていくことをいったものである。このようにして凡人は、いよいよ深みに溺れてゆき、死に近づいた精神は、もとのように蘇(よみが)えらせることは不可能なのだ。

斉物論(5)
或いは喜び或いは怒り、或いは哀しみ或いは楽しみ、或いはまだ訪れぬ未来を取り越し苦労し、或いは返らぬ過去に愚痴にをこぼす。移り気と執念(シュウネン)深さ、浮き浮きしたりだらけたり、あけすけにしたり、わざとらしく取りつくろったり。その巨木の万竅(バンキョウ)にも似た人間心理の種々相は、あたかも笛の音が虚(うつ)ろな管(くだ)から鳴り響き、菌(きのこ)が蒸せた湿気から生まれるように、昼となく夜となくわが眼前に入れかわり立ちかわり生滅するが、しかもそれが何にもとづいて生起するのか、その原因は知る由もない。さてさて、もどかしいかぎりよ。人間の旦(あ)け暮(く)れの生活は、このような心の万籟を内容として営まれるものにほかならず、人間が生きるとは、じつは喜び怒り哀しみ楽しむことにほかならないのである。人間の心の万籟を万籟として成り立たせるものがあるだろうか。 この喜怒哀楽、慮嘆変?(リョタンヘンシュウ)等の心的現象を除いては具体的な自己はどこにも存在しないのであり、自己が存在しなければ、喜びも怒りも哀しみも楽しみも、現れようがないのである。このような自己の本質と自己の現象形態の相関性に刮目する時、初めて人間存在の実相に近づくことができるであろう。しかし、喜怒哀楽はそれ自体が生の具体的内容であり、人間存在の現実であるとしても、人間の心を、その外もしくは上から支配する絶対者=真宰(シンサイ)が存在するといえるだろうか。それれが「はたらき」そのものとして存在し得ても、人間の感覚や知覚では、その実体を捉えることはできない。真宰(シンサイ)とは、自然すなわち天ということにほかならない。 このことは人間の体(からだ)について考えてみても同じであろう。人間の体には百の骨節と、九つの竅(あな)と、六つの臓腑とが備わっているが、そのどの部分を特に親しみ愛して全体の支配者とすることができようか。お前はそれらのすべてを愛するというのであろうか、それともそのうちのどれか一つを特に愛するというのであろうか。身体の有機的な全体は一つの自然であるから、そこには人間の愛憎親疎の情を挿(さしはさ)む余地は全くないであろう。ところで身体の一部分が全体の支配者であり得ぬとすれば、身体の一切の構成部分は、支配者なしの臣妾、すなわち被支配者だけということになるのであろうか。しかし臣妾だけで統率者がなければ、互いにうまく治めてゆくことができぬというのであろうか。身体の各部分が交互に君となり臣となって治めてゆくというのであろうか。それともどこかに真君すなわち真の支配者ともいうべきものが存在しているというのであろうか。そんなことはどうでもいい問題であろう。我々がその相互関係、因果関係の実相を把握し得なくとも、別に何の不都合も起こらない。一切は結構うまく治まってゆくのである。 人間の精神と肉体の営みの背景には、その営みを支配する絶対者が存在するかのごとくであるが、しかしその絶対者は、「はたらき」そのもの、変化それ自体であり、その真宰とは、自然(天)ということにほかならないのである。人はこの「自然」を自然として受け取る時にのみ真の自己となることができる。自然の世界の万籟をそのまま天籟として聞くように、人間の生の営みの一切を、ただ天(自然)として受け取る時に、人はその人間的な一切のものから超越することができるのである。

斉物論(6)
人は一たび自然としての生をこの世に受けて人間となった以上、この自然としての生を、自然としてそのまま受け取り、これを亡(うしな)うことなく、命の果てる日を待つほかないであろう。しかるに世俗の人間は、徒らに外界の事物に引きずられ、他と争い傷つけあって、自己を耗(す)りへらして、その人生を早馬のように走りぬけ、これをとどめるすべを知らないのは、なんと悲しいことか。 その生涯をあくせくと労苦のうちにすごしながら、しかもその成功を見ることもなく、ぐったりと疲労しきって、落ち着く所を知らない有様である。哀(あわ)れというほかないではないか。 人はそれでもなお、「俺は生きている」というかもしれないが、これほど無意味な人生がまたとあろうか。その肉体がうつろい衰えて、心もそれと同時に萎(しぼ)んでしまったのである。これを大きな哀(かな)しみといわずにいられるであろうか。 人の生涯というものは、もともとこのように愚かなものなのか。それとも自分だけが愚かで、世人のうちには愚かではない者もいるのだろうか。

斉物論(7)
もし、自分に自然にそなわている心に従い、これをわが師とするならば、だれもがそれぞれに師を持つことになるだろう。何も、天地宇宙の生成変化の理法を悟って、自(み)ずから正しい判断を為し得る賢者だけが所有しているのではなく、この心の師は、愚者にもおのずから具わっているのである。 ところが、すべての人間が自己の内に本来もつところの心に従わず、いたずらに(己れを是とし、他を非とする)是非の論議によって問題を解決しようとする限り、その本末を顛倒した愚かさは、たとえば数千里隔たった南の越の国に、「今日旅立って、昨日に到着した」という詭弁をもてあそぶことになる。このような有り得べからざることを有り得ると主張する愚かさに対しては、あの神の如き知恵を持つという古(いにしえ)の帝王、禹(ウ)の聡明さをもってしても、施すすべがないのである。ましてこの私にそれをどうすることができようか。

斉物論(8)
さて、ことばというものは、口から吹き出す単なる音ではない。ものを言った場合には言葉の意味がある。その言った言葉の意味がまだあいまいでさだかでないなら、はたしてものを言ったことになるのか、それとも何も言わなかったことになるのか。たとえ単なる雛鳥(ひなどり)のさえずりとは違うといったところで、はたして区別がつくかつかないか。 (本来、真でも偽でもない)道に、何故真と偽との区別が生ずるのか。(本来是も非もない)言語に、何故是と非の対立が生ずるのか。道はあらゆる場所に存在するし、ことばはどんな場合でもそのすべてが「可」である。道は小さな成功を求める心によって真偽の対立を生み、ことばは虚栄とはなやかな修飾によって是非の対立を生んだ。 だからこそ、そこに儒家と墨家の是非の対立が生まれる。こうして相手の非とするところを是とし、相手の是とするところを非とするようになる。相手の非とするところを是とし、相手の是とするところを非とすることを望むのは、真の明智(明明白白の理)に立脚する立場には及びもつかないのである。

斉物論(9)
物は彼(かれ)でないものはないし、また物は此(これ)でないものもない。己れを「これ」とよび、他を「かれ」とよぶ時、他を「かれ」とよぶその己れもまた、他者の立場からみれば一つの「かれ」であるから、一切存在は皆「これ」であるとも「かれ」であるともいえる。人間の判断はとかく一方的なもので、「彼れ」の立場からは蔽(おお)われて見えない道理も、「是れ」の立場からは明らかに知り得るものであるから、「彼れ」という概念は己れを「是れ」とするところから生じたものであり、「是れ」という概念は、「彼れ」という対立者をもととして生じたものである。つまり「彼れ」と「是れ」というものは、相並んで生ずるということであり、たがいに依存しあっているのである。論理学者、恵施(ケイシ)の主張がこれである。 しかしながら、この「あれ」と「これ」の相対性は、天地間のあらゆる価値判断についてもいえるのであって、生と死、可と不可、是(ゼ)と非(ヒ)の対立も、じつは互いに相い因(よ)り、相俟(ま)って成立する相即的な概念であり、一切の矛盾と対立の姿こそ、そのまま存在の世界の実相なのである。万物は生じては滅び、滅びては生ずるこの方生方死(ホウセイホウシ)、方死方生(ホウシホウセイ)の変化の流れのみが絶対であって、これを「生」とよび「死」とわかつのは、人間の偏見的分別にすぎない、同様にまた、すべての存在は、それを可(カ)とみる立場からすれば可でないものはなく、それを不可(フカ)とみる立場からすれば不可でないものはないが、この方可不可、方不可方可の実在の世界を、あるいは可としあるいは不可とするのは、全く人間の心知の妄執にほかならないのである。 だから、実在の真相を看破する聖人は、このような万物の差別と対立の諸相に心知の分別を加えることなく、あるがままの万物の姿をそのまま自然として観照し、これを絶対的な一の世界に止揚するのである。聖人もまた是(ゼ)による。しかし、其の是はもはや因非因是の是、すなわち非と対立する相対の是ではなくして、一切の対立と矛盾をそのまま包み越える絶対の是なのである。そこでは、是(こ)れもまた同時に彼れであり、彼れもまた同時に是れである。そこでは、彼のなかにも是と非が一つになって含まれ、此れのなかにも是と非が一つになって含まれる。このような一切の差別と対立を超えた絶対の世界においては、もはや彼是の対立などどこにもあり得ない。そして、このような彼れと是れとが互いに自己と対立するものを失い尽くした境地を、道枢(ドウスウ)─ 実在の真相というのである。枢(とぼそ)とは扉(とびら)の回転軸のことであるが、この枢(とぼそ)がそれを受けとめるまるい環(わ)の中心にぴったり嵌(は)まって、扉が自由に開閉するように、道の枢もまた一切の対立と矛盾を超えた絶対の一に立脚して、千変万化する現象の世界に自由自在に応ずるのである。そしてこのような道枢(ドウスウ)の境地においては、是もまた一つの窮まりなき真理を含み、非もまた一つの窮まりなき真理を含む、そこではもはや、「此」と「彼」、「是」と「非」など一切の対立は、その相対性の根源において一つとなるのである。「明(メイ)を以てする」とは、このような環中(カンチュウ)の道枢(ドウスウ)、すなわち万物斉同の実在の真相を観照する叡智を自己のものとすることにほかならないのである。

斉物論(10)
詭弁学派のうちには、まず指という個物の存在を認めたあとで、指が指でないことを論証しようとするものがある。しかしそれは、最初から指という個物を越えた一般者から出発して、そのあとで指が指でないことを論証するのには及ばない。 また、まず馬という個物の存在を認めたあとで、馬が馬でないことを論証しようとするものがある。しかしそれは、最初から馬という個物を越えた一般者から出発して、そのあとで馬が馬でないことを論証するのには及ばない。 無差別の道枢の立場からみれば、天地は一本の指であるともいえるし、万物は一頭の馬であるともいえるのである。

斉物論(11)
世俗の人間は、本来一つである万物を可と不可に分かち、その可を可とし、その不可を不可として固執するが、(一体、このような可と不可の区別は何によって生ずるのであろうか) それは人間の習慣的な思考と価値的な偏見にもとづくのであって、恰も道路が本来何もない野原に人の往来(ゆきき)とともにでき上がり、また、本来何の名前も持たない事物が、人間生活の便宜のために、これこれだと名づけられるのと同じであろう。(世間の人びとがそういっているからという理由で、習慣的にそのやり方を認めているにすぎないのだ) しかし彼らはいったい何を根拠に、あるものを「然り」とし、また「然らず」と断定するのか。彼らはただ世間の常識と習慣に従って、世間の人間が然りとするものを自己もまた然りとし、世間の人間が然らずとすることを自己もまた然らずとしているにすぎない。彼らの断定は決して絶対的なものではないのである。ところで、絶対的な立場、すなわち万物が一馬であり、天地が一指である究竟的一の世界では、可もなく不可もなく、然もなく不然もないから、一切は可でもあり不可でもあり、然でもあり不然でもある。そこでは、すべての「然り」が「然り」として肯定されるだけでなく、「然り」を否定する「然らず」もまた今一たび否定されて、「然らざるはなし」と肯定されるのである。この大いなる一切肯定の世界が、道樞(ドウスウ)すなわち実在の世界にほかならない。

斉物論(12)
一切存在は、物として然らざるはなく、物として可ならざるはない。その例として、横にわたす梁(はり)と縦に立つ「柱」、癩病患者と絶世の美女「西施」とを対照して示すと、とても奇怪ないぶかしい対照ではあるが、真実の道(一切の差別と対立がそのまま一つである実在の世界)においては、縦もまた横であり、美もまた醜と斉しく一つのものである。 この道の立場からみれば、分散し消滅することは、そのまま生成することであり、生成することは、そのまま死滅することでもある。すべてのものは、生成と死滅との差別なく、すべて一つである。ただ道に達した者だけが、すべてが通じて一であることを知る。だから達人は分別の知恵を用いないで、すべてを自然のはたらきのままにまかせるのである。庸(ヨウ)とは用の意味であり、自然の作用ということである。自然の作用とは、すべてを通じて一である道のはたらきである。すべてに通じて一であるものを知るとは、道を体得(自得)することにほかならない。この道を体得した瞬間に、たちまち究極の境地に近づくことができるのである。 究極の境地とは何か。是非の対立を越えた是(ゼ)に、いいかえれば自然のままの道に、ひたすら因(よ)り従うことである。ひたすら因り従うだけで、その因り従っているという意識さえもなくなること、この境地をこそ道というのである。

斉物論(13)
世俗の人間は徒らに精神を苦しめて是非の論争に憂き身をやつし、万物の差別と対立が言論心知によって統一されるかのごとく錯覚して、本来一つである実在の真相を悟らないが、彼らのこのような愚かさこそ、「朝三(チョウサン)」と呼ぶのである。それでは「朝三」とは何か。 昔ある所に狙公(ソコウ)、すなわち猿回(まわ)しの親方がいて、多くの猿を飼っていたが、ある朝、彼は猿どもに餌(えさ)として?(とち)の実(み)を分けてやりながら、こういった。
「朝は三つずつ、夕方には四つずつやろう」すると猿どもは歯をむいていきり立った。そこで猿回しの親方がさらに、
「それならば、朝は四つずつ、夕方には三つずつにしよう」といったところ、多くの猿どもはキャッキャッと喜んだ。 結局同じ内容の、異なった表現にすぎず、いくら名(ことば)を変えてみたところで実質には何の変化もないのであるが、猿どもは勝手に喜怒の情を用いて騒ぎ立てている。世俗の学者先生たちの愚かさが、この浅はかな猿どもとどれほど違うというのであろう。 彼らの狂態も、是非の相対を超えた絶対の是(ゼ)、すなわち万物斉同の実在の真相に大悟すれば、静かなる正気にその精神を安らげることができるのだ。 だから聖人は、是非の価値的偏見を是(ゼ)もなく非(ヒ)もない実在の一に調和し、心知の分別を放下して「天鈞(テンキン)」すなわち絶対的一の世界に安住する。そこでは、一切万物の矛盾と対立の相(すがた)は、矛盾と対立のまま、「両(ふた)つながら行(おこ)なわる」、同時に存在し得るから、この境地をまた「両行」ともよぶのである。

斉物論(14)
昔の絶対者は、最上の知恵を所有していた(到達した境地があった)。最上の知恵(到達した境地)とは何か。「はじめからいっさいの物は存在しない」とする「無」の立場であって、彼は「天鈞」としての道、「両行」としての実在とそのまま一つになって、これが道だと意識し判別することさえもなかった。この渾沌と一体になった境地、知を忘れた境地こそ、至高最上の境地なのであり、もはやつけ加えるべき何ものもない。 これに次ぐ境地は、物は存在すると考えるが、その物には、他と区別される境界がないとするものである。最上の境地、すなわち体験そのものの世界が、一歩人間の認識の世界に引き寄せられると、そこに「物有り」という判断が成立し、道の実在性が意識されるに至る。しかしこの段階ではまだ道の実在性は意識されながらも、その意識された道は、なお雑然たる異質的連続、すなわち渾沌であって、そこにはまだなんらの「封」すなわち、境界ないしは秩序も発見されない。いわゆる道と一つである自己が意識されている境地であって、これは最上の境地ではないが、それに次ぐ境地といえよう。 さらに第三の境地は、境界があるとは考えるが、是と非との区別、価値の区別はまったくないとするものである。「封有りと為す」、渾沌は次第にその境界秩序を認識の世界の中に明らかにし、道は本来自ずからの中に渾沌と包んでいた万物の形として現れる。すなわち、一が多となり、絶対が相対の諸相として展開する境地である。ここでは、道の「一」は万象の「多」に分たれ、心知を絶した実在の世界は、人間の認識世界の埒(ラチ)内に位置づけられるが、「しかも未だ是非あらず」、何(いず)れを是、何(いず)れを非とする価値判断はまだ施されていないのである。そして、この境地は、第一の「未だ始めより物有らざる」境地、の「未だ始めより封(ホウ)有らざる」境地には及ばないが、それでもなお、道の純粋性は僅かに保たれているということができる。 ところが、「是非の影(あら)わるるや道の虧(そこな)わるる所以」、是非の価値判断が確立されると、道の完全さがそこなわれることになる。「道の虧(そこな)わるる所以は、愛の成る所以」、道の完全さがそこなわれるところには、人間の愛憎好悪(コウオ)の妄執が簇(むらが)り生ずる。 ところで、いま道の完全さがそこなわれるといったが、はたして道には完全と毀損(キソン)ということがあるのだろうか。それとも道には完全も毀損もないのであろうか。 このように考えてみる時、真実在としての道は、本来「成」もなく「毀」もない絶対の一なのである

斉物論(15)
昔の琴の名手である昭文が琴をかきならせば、そこには確かに妙なるメロディーが成立する。しかし彼の手に成立するメロディーの背後には、彼の手に成立しない無限のメロディーが存在し、彼のメロディーはその無限なるメロディーの一つにすぎないのである。彼がいかに努力しようとも、彼の手には常にかきならし切れない無限のメロディーが残されている。彼の手は一つのメロディーを「成す」ことによって無限のメロディーを「虧(うしな)」っているのであり、この意味において、彼の「成」は同時に「虧」であるともいえる。だから、すべてのメロディーをすべてのメロディーとして成り立たしめるためには、メロディーなきメロディー(無声の声)を聴くほかはない。メロディーなきメロディーとは、琴をかきならさぬということである。─ 「成(セイ)と虧(キ)と無きは故(もと)より昭氏の琴を鼓(コ)せざればなり」 このことは同じく昔の音楽家である師曠(シコウ)、論理学者である恵施(ケイシ)についてもいえよう。昭文が琴をかきならし、師曠が瑟(シツ・琴の一種)の調べをととのえ、恵施が几にもたれて詭弁をふるうさまは、いずれも人知の極至であって、これらは確かに人間の作為の偉大さを示すものであり、さればこそまた、物の本にも書き記されて後の世まで伝えられるのである。─ 「故に之を末(のち)の年(よ)に載(しる)す」 しかし、なるほど彼らは道を好み芸を愛する者ではあるが、「彼」すなわち真に道を好む絶対者とは同じくない。というのは、彼らは道を好みながら、その道を人間の作為(知と巧)で究め明らかにしようとするが、道とは本来人間の知巧を超えたものであり、人間の作為では明らかにすることのできないものであるから、彼らは、不可能を可能とする誤謬の上に立っているのである。─ 「明らかにする所に非ずして之を明らかにする」ここに、彼らの倒錯がある。 だから、恵子のように「堅白同異(ケンパクドウイ)」の弁などという愚にもつかない議論を、倦(あ)きもせず死ぬまで繰り返すのであって、たんに彼のみか、その論理学を受け継いだ彼の子もまたついに道を悟ることなく、その生涯を空しく終っているのである。要するに彼らのいとなみは、その偉大さにも拘わらず、至高至大の道の前では殆んど無にもひとしい。だから、若(も)し、この無にもひとしい昭文と師曠と恵子の三人のいとなみが「成」─ 道を究めたもの ─ といえるなら、我々凡俗と雖もまた「成」といえるであろうし、逆にまた、もしこの三人の偉大ないとなみでさえ「成」といえないとすれば、いかなる物、いかなる人間にも「成」ということはあり得ないのである。

斉物論(16)
だからこそ聖人(絶対者)は、人間のあらゆる作為を放下して、暗く定かならぬ耀(ひか)り、すなわち「不明の明」を、自己の知恵とすることを図るのである。不明の明とは、人間の価値的偏見を捨てて生きたる渾沌としての道を渾沌として生かすことであり、是非の分別を用いずに万物の庸(ヨウ)、すなわち一切存在の自然性に随順することにほかならない。そしてこの滑疑の耀(不明の明)こそ真の明智であって、はじめに「明(メイ)を以てするに若(し)くは莫(な)し」といった意味も、この真の明智を自己のものとすることにほかならないのである。

斉物論(17)
絶対の一としての道には是もなく非もないと言った。しかしこの言(主張)は、いったい「是れ」すなわち世間の是非の議論と同じ種類のものであろうか、それとも異なった種類のものであろうか。 「道に是非なし」という主張は、確かに「是非あり」とする世俗の議論とは異なっている。しかし、また「道に是非なし」という主張も一つの議論である限り、それが一つの議論であるという点では、「是非あり」とする世俗の議論と異ならないのである。 結局、この主張が世俗の議論と同類のものであるにせよ、異類のものであるにせよ、問題を言論心知の世界で解決しようとする限り、同じ穴のむじなとならざるを得ないのであって、彼すなわち世俗の議論と何の変わりもないことになる。道とは本来言論心知などでは捉えることのできないもの、体験するよりほか仕様のないものであるから、絶対者はただ体験のみを至上として、生きたる渾沌と遊ぶほかないのである。けれども、我々が何かを説明する場合、言語を媒介とすることなしには不可能であるから、この言語の限界性を十分念頭におきながら、今少しく道と言 ─ 実在と認識の関係について考えてみよう。

斉物論(18)
万物には、その「はじめ」があるはずである。「はじめ」があるとするならば、さらにその前の「まだはじめがなかった時」があるはずである。さらにはその「『まだはじめがなかった時』がなかった時」があるはずである。 また、「有」があるからには、まだ有がなかった状態、すなわち「無」があるはずである。さらにその前に「まだ無がなかった状態」があるはずである。さらにはその「『まだ無がなかった状態』がなかった状態」があるはずである。 このようにして、ことばによって有無の根源をたずねようとすると、それははてしなくつづき、けっきょくその根源をつきとめることはできない。 それにもかかわらず、現実世界では、われわれは確実な根源を知らないままに、いきなり有とか無ということを口にするのである。このような不確実な有無のとらえ方では、その有無の、どちらが有で、どちらが無であるのか、わからない。 ところで、私は、「有 ─ 無」の概念について説明してきたが、それが何かを言い表したことになるのか、何事をも言い表したことにならないのか、わからない。 (何事をも言い表したことにはならないのである)

斉物論(19)
道とは大小長短など一切の対立と矛盾を斉(ひと)しくする「天鈞(テンキン)」、すなわち絶対の一にほかならないから、そこでは極小もまた極大であり、瞬間もまた永遠である。 そこでは、常識が小さいものの極致とする、あの秋の動物の毛 ─ 秋の動物の毛は冬にそなえて細く密生するのであるが ─ その細い秋の動物の毛の先端ほど大きいものはなく、常識が大きなものの極致とする巨大な泰山(タイザン)ほど小さいものはないのである。 そこでは幼くして死んだ子供もこの上なく長寿であり、八百歳を生きたという彭祖(ホウソ)の長寿も短い命にすぎない。 悠久なる天地も一瞬の我が生命とひとしく、万物の多も我が存在と一つである。 道とは、このような、あらゆる時間がそこでは一つであり、あらゆる空間がそこでは同じである絶対の一にほかならない。

斉物論(20)
道が一切の対立と矛盾を超克する絶対の一であるとすれば、果たしてこれを「一である」と判断し論定することはいかにして可能であるか。そこでは、一という言(概念)をさえ挿(さしはさ)む余地はないはずである。 しかし、それを「一である」と判断し論定するからには、そこには一という言(概念)がその論理的前提として肯定されなければならない。 ところで一という言(概念)は、その内容として一とよばれる概念実体(道)を摂取するから、既に道を一と判断するからには、一という概念そのもの(言)と、一という概念の内容として摂取される実質(いわゆる一)との二元の対立を生ずるわけであり、この二元の対立を抽象して考えると、ここに二という数が成立するのである。 ところでこの二という数字に、真の一すなわち判断以前の純粋体験としての実在そのものを加えれば、ここにさらに三という数が成立する。 未だ始めより物有らざる 「無」としての道は、人間の判断を加えられることによって一となり二となり、さらに三となるのであり、それから先の、三から千となり万となり億となる個別の世界の無限の展開は、「巧歴」すなわち、いかにすぐれた天文学的計算の名人でも計算し尽くすことはできない。まして、数学の天才ならぬ我々凡人においてはなおさらだろう。 道が言によってその実在性を確立されただけでも、渾沌の一は三になるとすれば、個別から個別へ進む存在世界の知的把握が、収拾することのできない混乱として分裂することはいうまでもあるまい。 だから絶対者は、この混乱と分裂のなかに身を置くことなく、せいぜい 物有りとするも未だ始めより封(ホウ)あらざる 渾沌の世界に踏み止まって、「是(ゼ)」すなわち絶対の一である実在そのものと冥合し、ただひたすら道の自然に随順してゆくのである。

斉物論(21)
道とは、本来何の境界秩序もない渾沌であった。また道に対する言も、本来それだけでは何ら一定の内容をもたない純粋形式にしかすぎない。ところが、この渾沌としての道が、言の内容として摂取される。実在が概念的認識の世界にもたらされると、そこに道の「畛」すなわち境界秩序が成立する。今、参考までにその境界秩序をあげてみよう。 まず成立するのは、右と左という秩序づけ、すなわち対偶の観念である。次に成立するのは論議すなわち両者に関する比較討論であり、次には、この両者の弁別と価値づけであり、次には、価値づけられたもの相互の対立と闘争である。 この「左と右」「論と議」「分と辯」「競と争」を八徳という。

斉物論(22)
ところで、聖人すなわち絶対者は、心知の分別を放下して絶対の一に逍遙する存在であるから、この宇宙を超絶する神秘な世界に関しては、たといその神秘が存在するとしても、その存在するに任せ、それについて論を立てることはしない。この宇宙の中の出来事に関しては、普遍的な問題は論議するが、細かい問題は詮索しない。また、『春秋』という書物は、世を治めた昔の王者の歴史的記録であるが、聖人はそのなかに記された具体的な事実は細かく論議するが、その事実に対する独断的な価値づけは行わないのである。 (しかるに、世俗の人間は、自己の分別を絶対のものであるかのごとく錯覚して、何かといえば直ぐに安易な価値批判を喚(わめ)きたてるが、それは、彼らの分別と称するものが、真の分別でないことに気づかないからである) 真の分別とは、分別することのない分別である。分別することのない分別とは何か。それは一切の差別と対立を、差別と対立のまま自己のふところに抱きとる智恵にほかならない。すなわち、「聖人は懐(いだ)く」のである。 これに反して、衆人は自己の分別をこれ見よがしに振りまわす。 だから、「いかに細かく分析して論じようとも、他人に真理をあますところなく示すことは不可能である」というのである。

斉物論(23)
大道すなわち真の実在には、名づけるべきことばがなく、真の偉大な弁舌は、無言のままのものである。真の仁愛は仁としてはあらわれず、真の廉譲は謙譲の徳を示さず(自己を卑下せず)、真の勇猛は人を害(そこな)うことのないものである。 だから道が明示されれば、その道はもはや真の道ではなく、ことばも弁じたてれば、いよいよ真実に遠ざかり、仁愛が特定の対象に固定されれば、もはや普遍性を失い、清廉も潔癖すぎるとごまかしが生じ、勇気も暴力化すれば真の勇気ではなくなる。 この五つの弊害は、より完全にしようとして招いた逆効果であり、ちょうど円を描こうとして四角に近づいていくよなものである。

斉物論(24)
最上の智恵とは、是非の偏見によって害われず、認識の限界を知って、その限界の外に止まる智恵にほかならない。絶対の真理とは、これを知れりとするところにはもはや絶対の真理ではなくなり、これを知らずとするところに却って絶対の真理としてあらわれる逆説的存在なのだ。だからこの逆説の意味を真に理解する者があれば、彼の前には無限に豊かな生命の宝庫が開かれるであろう。「ものいわざる雄弁」、「真理を否定する真理」この言葉の意味を真に会得することのできる者があれば、彼をこそ「天府」すなわち天然自然の宝庫を心にもつ人とよぶのである。 彼の胸中には注げども満たず、酌めども竭(つ)きず、しかも何処(いずこ)から来て何処へ去ってゆくともしれない、果てしなき生命の大海原が打ち開ける。彼はその生命の大海原に限りなき自由を戯れて、一切の人間的な矮小さを超克する。そして、このような境地、つまりあらゆる人間的な思慮分別と、人間的な思慮分別に成立する万籟の響き ─ 喧々囂々たる是非の争論が本来の清寂にしずまる境地を、「葆光(ホウコウ)」というのである。葆光とは「包まれた宝(たから)の光」、すなわち絶対の智恵という意味にほかならない。

斉物論(25)
昔、聖天子の堯が、当代随一の有徳者として聞こえた舜に質問した。 「わたしはこれから、まつろわぬ三つの国、宗(スウ=崇)と膾(カイ)と胥敖(ショゴウ)とを征伐しようと思う。しかし、やむを得ない処置とはいえ、天下の支配者となって武力を用いなければならぬ自分に、何ともいえぬ割り切れない気持ちを感じるのだ。この割り切れない気持ちはいったいどうしたわけであろう」 すると舜は答えた。 「あの三国はまだ雑草が生(お)い繁るような未開の地に住む野蕃(ヤバン)の民(まだ天子の徳の何たるかも知らない哀れむべき人間たち)です。このようなものどもに対して、うしろめたい気持ちをもたれるのは、おかしいではありませんか。(征伐などという暴力沙汰に訴える前に、どうしてもっと彼らを徳で感化することを考えないのですか)昔、十個の太陽が一度に天に現れて、一切万物はその輝きに隈(くま)なく照らし出されたという話がありますが、絶対者の徳の光は、この十個の太陽を一緒にしたよりも、もっと偉大なものです。この偉大な徳の光をもつ絶対者になることこそ、あなたは心掛くべきではありませんか」と。

斉物論(26)
齧缺(ゲッケツ)が、その師匠である王倪(オウゲイ)に質問した。 「先生は、すべての存在がひとしく是(ゼ)なりと肯定されるような根源的な真理というものをご存じでしょうか」 「わしに、どうしてそれが分かろう」 「それでは先生は、ご自分の知らないところをご存じでしょうか」 「わしに、どうしてそれが分かろう」 「それでは、一切は不可知でしょうか」 「わしに、どうしてそれが分かろう。けれども折角の質問だから、試しに話してみよう。いったい人間の知るということ、すなわち判断は、全く相対的なもので、これが絶対だということはあり得ない。だから、今もしわたしが何かを知っているといっても、その知っているは、じつは知らないのであるかもしれず、逆にまた、知らないといっても、その知らないは、じつは知っているのであるかもしれないのだ」

斉物論(27)
それに、これもためしにだが、お前に聞いてみよう。 人間は湿気の多いところで寝起きすると、腰の病気や半身不随の中気(チュウキ)などをわずらうが、鰌(どじょう)はそうではあるまい。また人間は高い木の上にいると、ふるえあがってこわがるが、猿(さる)はそうではあるまい。この三者うち、果たしてどれが本当に正しい住み処(か)を知っているのであろうか。 また人間は、牛や羊や豚などの家畜を食用にし、鹿の類は野原の草を食べ、?且(むかで)は蛇をうまいと思い、鳶(とび)や鴉(からす)は鼠に舌なめずりするが、この四者のうち、果たしてどれが本当の味を知っているのであろうか。 猿(さる)は?狙(いぬざる)と雌雄の交わりを営み、麋(ビ)という姿のよいしかは、いわゆる鹿と交わり、鰌(どじょう)は魚とたわむれるが、毛?(モウショウ)や麗?(リキ)については、人間どもは絶世の美人だと騒いでいるが、魚はその姿を見ると、水底(みなそこ)深く逃げかくれ、鳥は恐れて空高く舞いあがり、麋鹿(しか)は一目散に逃げ走るであろう。この四者のうち、果たしてどれがこの世の中の本当の美を知っているのであろうか。 わしの目から見ると、(人間の判断など決して絶対的なものではなく、絶対的だと考えるのは、独断的な偏見であることが分かろう)、世俗の人間が、やれ仁義だとか、やれ是非だとか喚きたてても、その端緒(いとぐち)や道すじは樊然(ハンゼン)すなわち、ごたごたと入り乱れて、何が仁であり、何が義であるのか、またいずれが是であり、いずれが非であるのかなど、とてもちょっとやそっとでは見わけることができないのだ。

斉物論(28)
齧缺(ゲッケツ)はさらにたずねた。 「先生は人間の価値判断など相対的なもので、何が本当の利であり、何が本当の害であるかなど、とても見きわめることはできないとおっしゃいましたが、だとすると、あの至人(シジン)すなわち絶対者もまた、利害得失など全く念頭にもないのでしょうか」 すると、王倪(オウゲイ)は答えた。 「絶対者とは、一切の人間的なるものを超克した霊妙な存在だ。大きな沢が焚(や)け焦(こが)れるほどの熱さ、黄河や漢江という大きな河が凍りつくほどの寒さにも平気であり、激しい雷が山をうちくだき、飄風(つむじかぜ)が海をゆすぶり返すほどの天変地異にもびくともしない。このような絶対者は、高く世俗を飛翔して大空の雲や霧に乗り、日月に跨(また)がって、宇宙の外に逍遙するのである。彼にとっては、死もまた生と斉(ひと)しく、すべての人間が最も恐れ悲しむ死生の変化でさえ、その心を乱すことはできない。まして区々たる利害得失の分かれ目など、初めから念頭にもないのである」

斉物論(29)
瞿鵲子、が長梧子にたずねていった。 「私は、先生(孔子のこと)に次のようなことを聞きました。 『聖人は俗事(仕事)に励むようなことはせず、利を求めようとせず、害をさけようともしない。他人が自己を求め用うるからといって喜ぶでもなく、ことさら道を意識してそれに従ってゆくでもない。沈黙していても物言わざる言葉で何かを語っており、しゃべっていてもその言葉は無心の言で、しゃべらないのと同じであり、その身は世俗のうちに在りながら、その心は遠く世俗の世界の外に逍遥している』 と。ところで、先生(孔子)は、そういった境地を否定して、とりとめのない言語の虚構だといわれるのだが、私はこれこそ霊妙な道の実践だと思う。あなたは、どう考えられるかね」

斉物論(30)
すると長梧子は答えた。 「それは、あの人類最高の智者といわれる?帝でさえ、その説明を聴いてとまどうほどの意味深長なことばだよ。まして(お前の先生の)孔子ごとき人物に理解できないのは無理もない。(彼は”未だ生を知らず、いずくんぞ死を知らんや”とうそぶく徹底した現実主義者だからね)、それにだよ、お前も早合点すぎるよ。その程度の説明で霊妙な道の実践だなどというのは、まだ鶏にもならぬ卵を見て暁を告げさせようとし、鳥を射つ弾(たま)を見て?炙(やきとり)を注文するようなものだ。 では、ひとつお前のためにでまかせを聞かせよう。お前もいいかげんに聞けばよかろう(絶対者の真の偉大さ、その真面目は言葉などでは説明し尽くせるものではないから、あくまで一つの便宜的な試みとしてだ。便宜的な試みということで真実のほどは保証できないから、お前もそのつもりで聞くがよい)。どうだね。 さて、、絶対者とは、その偉大な徳化は、あの万物を遍(あまね)く照らす太陽や月と輝きを同じうし、その偉大な包容力は、広大無辺な宇宙をも小脇に挟むほどである。彼は道(実在そのもの)とぴったり一つになり、一切の分別知を捨てて、滑(みだ)れて?(くら)き”不明の明”を自己の智恵とし、己れを奴隷の汚辱に置いて、賤しい者を尊い地位に置き価値の差別をなくし、すべての他人を尊び重んじてゆく。世俗の人間はいたずらに知を競い利を争って、馬車馬のような人生を喘(あえ)いでいるが、しかし絶対者は、是非の分別を捨て、利害得失を一つと見なし、無心忘我の境地に安らかな自己を愉楽するから、その外貌は全く愚鈍な人間のようである。彼は永劫の時間のなかに参入して時間そのものと一つとなり、その一つとなった境地で、ただひたすら自己の純粋性を全うする。彼は一切存在の対立と矛盾の相(すがた)をその対立と矛盾のまま然りとして肯定し、道と一つとなった自己の境地に万物を包摂する。(絶対者はこういった境地を自己の境地とする至高至大の人格なのだ)」

斉物論(31)
生を悦ぶことが”とらわれの心”ではないと、どうしていうことができようか。私には、世俗の人間の生を悦び死を憎む気持ちが理解できないのだよ。生を悦ぶというのは、人間の悲しい惑溺ではないのか。死とは人間が本来の自然に帰ることではないのか。幼少のころ郷里を離れた人間は、永い流浪の生活をするうちに故郷を忘れるが、彼らの死への憎悪こそ、この故郷喪失者の悲劇ではないのか。 麗姫(リキ)という美人は、艾(ガイ)という土地の防人(さきもり)の娘であったが、晋の国で始めて彼女を手に入れた時、麗姫は他国へ連れ去られる自己の悲しい運命を、さめざめと、襟もしとどに泣き濡れた。ところが、いよいよ晉の宮殿のなかに連れ込まれ、王と立派なベッドをともにし、甘(うま)いご馳走を食べるようになってからは、その幸福に随喜して、昔流した涙を後悔したということだ。 生と死の変化も、これと同じでないと誰が保障できよう。死者だって、死んだ当初に、もっと生きたいと泣き喚(わめ)いたおのれを後悔するかもしれないのだ。

斉物論(32)
長梧子(チョウゴシ)の言葉は、なおつづく。 「夢の中で酒を飲み歓楽を尽くした者は、一夜あくれば、悲しい現実に声をあげて泣き、逆にまた悲しい夢を見て哭(な)き声を立てた者も、朝になればけろりとして楽しい狩猟にでかけてゆくこともある。夢みている最中には、夢が夢であることも分からず、夢の中でさらに夢占いをする場合さえあるが、目がさめて始めて、それが夢であったことに気がつくのだ。 (多くの人間はとらわれた人生を夢のごとく生き、夢のごとき人生のなかで、なお見果てぬ夢を追っている。しかしそれが夢であることに気づいている人間が果たして幾人あるであろうか ─ 福永光司) 夢が夢であることに気づくためには、大いなる覚醒がなければならない。大いなる覚醒、すなわち絶対の真理に刮目(カツモク)した者のみが、大いなる夢から解放されるのである。しかるに、愚かなる世俗の惑溺者たちは、自己の夢を覚めたりとし、こざかしげに知者をもって自ら任じ、己れの好む者を君として尊び、己れの憎む者を奴隷のごとく賤しむ愛憎好悪の偏見に得々としている。彼らの救いがたい頑迷さよ。孔子もお前も、みんな夢を見ているのだ。そして、「お前は夢を見ている」といっているこの私も、ともに夢を見ているのだ。 ところで、このように一切を夢なりと説く私の言葉を”弔詭”(チョウキ)すなわち、この上なく世俗と詭(ことな)った奇妙きわまる話というのである。しかし、この話の意味が分かる絶対者は、恐らく何十万年に一人出会えるか出会えないかぐらいであろう。何十万年に一人出会えたとしても、その遭遇は日常明け暮れに遭遇しているといってもいいほど、極めて稀なのだ」と。

斉物論(33)
長梧子(チョウゴシ)はさらに語をついだ。 「(もう少し、この判断の相対性について分析してみよう) もし私とお前とが、あるテーマについて、その是非を議論をしたとする。その場合に、もしお前が私に勝ち、私がお前に負けたとすれば、お前が是であり私が非であるということになるのであろうか。もし私がお前に勝ち、お前が私に負けたとすれば、私が正しくてお前が間違っているということになるのであろうか。 お前と私とのどちらか一方が正しくて、どちらか一方が間違っているということになるのであろうか。あるいは両方とも正しいか、もしくは両方とも間違っているということになるのであろうか。しかし、これは議論の当事者であるお前と私には決定をくだすことができない問題である。 ところで、当事者であるお前と私とに決定できないとすれば、第三者の判定を待つということになるが、第三者の立場にある人間も、真っ暗闇のわけのわからぬ事態を引き受けることになるだろう。 それでは、どのような人間に正しい判断を頼めばよいのであろうか。お前と私との是非を誰か第三者に判定させようとしても、それは不可能で、もし判定させようとする第三者が、お前と同じ意見であれば、お前と同じ意見の人間なのだから、公正な判定ができるはずがない。私と同じ意見であれば、私と同じ意見の人間なのだから、公正な判断ができるはずがない。 かといってまた、私とお前とのどちらとも意見を異にする人間に判定させれば、どちらとも意見を異にするから、やはり公正な判定ができるはずがない。逆にまた、私とお前とのどちらとも意見を同じくする人間に判定させるとしても、これは私ともお前とも同じなのだから、やはり公正な判定ができるはずがない。 とするならば、私にも、お前にも、第三者にも、是非を判定することはできないのだ。これ以上誰に判定を期待することができようか

斉物論(34)
是非の対立は、その解決が言論心知の立場で求められる限り、当事者にも第三者にも不可能であって、そこでは対立はさらに対立を生み、ただ無限の喧噪が精神の果てしない消耗を強要するだけである。だからもし、人間がこのような精神の果てしない消耗を本来の安らぎに全うしようと思えば、言論心知による解決の立場を捨てて、是非の対立を天倪(テンゲイ)によって和解させるほかない。(福永光司) 「天倪(テンゲイ)とは既に述べた天鈞(テンキン)と同じ意味であるが、この天倪(テンゲイ)すなわち絶対の一によって是非の対立を和解させるとはいかなる意味か。 常識の立場では是は不是と対立し、不是は是と対立する。しかし彼らの是とするものがもし絶対の是であるならば、それは不是とは相容れないものであるから、不是とする議論は起こるはずがない。にもかかわらず、一方に是を否定する不是の立場が存在し得るということは、その是が絶対でないことを示すものではないか。また世俗の立場では「然り」はこれを否定する「然らず」と対立させられるが、彼らの「然り」とするものが絶対に「然る」のであれば、その絶対の「然り」は、「然らず」と否定する立場とは相容れないものであるから、「然らず」とする議論は起こるはずがないのである。そして「然らず」と否定される「然り」は絶対の「然り」であるとはいえなくなる。 このように、是と不是、然と不然は、その相互否定のなかで、限りない循環を空(から)回りする。(福永光司) ”化声”すなわち、この限りない循環(変化)を繰り返す是非の議論は、全く相対的なものであり、それが相対的なものである限り、その対立は”相い待たざるが若(ごと)し”、つまり初めから存在しないのと同じであるといわなければならない。 こうして歳月を忘れ(死生にとらわれず)、是非の対立を忘れ、無限の世界に逍遥することができる。これゆえにこそ、いっさいを限界のない世界、対立のない境地におくのである」と。 絶対者とは、この限りなき世界を自己の住みかとする存在 ─「無竟(ムキョウ)に身を寓(お)く者」 ─ にほかならない。(福永光司) 長梧子はこういって彼の長い説明を結んだ。

斉物論(35)
ある時、影をふちどる 罔両(モウリョウ・うすかげ)が影に質問した。 「君は、さっきまで行(ある)いていたのに今は立ち止まり、さっきまで坐っていたのに今は起ち上がっている。どうしてそんなに主体性のない動き方をするのだ。あんまり節操がなさすぎるではないか(もっとしっかりしてくれないと、僕まで迷惑するじゃないか)」と。 すると影が答えた。 「なるほど、わしは頼るところ、つまり形(人間の肉体)につき従い、それが動くままに動いているのかもしれない。だが、わしがつき従っている形そのものも、また別に頼るところがあり、その何ものかに従って動いている動いているのではあるまいか。わしは、蛇(へび)の腹のうろこや蝉(せみ)の羽のようなはかないものを頼りにしていることになるのだろうか。 自然の変化のままに従っているわしにとっては、なぜそうなるのかも分からないし、なぜそうならないのかも分からない」と。

斉物論(36)
いつのことだったか、荘周(ソウシュウ)は夢のなかで一匹の胡蝶(コチョウ)となっていた。ひらひらと飛びまわる蝶になりきって、楽しく心ゆくままに空を舞っていた。そして自分が荘周であることに気づかなかった。 ところが、ふと目がさめてみると、まぎれもなく自分は荘周である。いったい、この荘周が胡蝶となった夢を見ていたのか、それとも、今までひらひらと舞っていた胡蝶が夢のなかで今、荘周となっているのであろうか。自分にはさっぱりわからない。 けれども、世間の常識では、荘周と胡蝶とでは、確かに区別があるだろう。それにもかかわらず、その区別がつかないのはなぜだろうか。 ほかでもない、これが万物の変化というものだからである。