『孟子』滕文公章句と「花燃ゆ」松陰が説く学ぶ意味について!

30年の生涯を至誠で貫き通した吉田松陰ですが、その松陰にちなんだドラマ「花燃ゆ」が始まっています。
※)松陰については、以前に整理した内容も参考にしてください。
 ・吉田松陰の命日に想う

当時、幕末の尊王攘夷運動を推進し、維新を成し遂げる大きな役割を担ったのは長州藩ですが、その長州藩の青年達を導き、国家を変革する人材を数多生み出した指導者ことが、祖国の将来を憂えて最後までその魂を燃やし続けた吉田松陰です。

そんな「花燃ゆ」の第一話の放送の中で、孟子の一説が出てきましたので、引用しておきます。
吉田松陰の妹、文が暗唱する『孟子』の「滕文公章句」3章の1からです。
※)孟子については、以前に整理した内容も参考にしてください。
 ・孟子より学ぶ!性善説と王道に基づくリーダーの心得!

暗唱:
「庠序(しょうじょ)学校を設け為して、以って之を教う。
 庠は養なり、校は教なり、序は射なり。
 夏には校といい、殷には序といい、周には庠といい、学は則ち三代之を共にす。
 皆、人倫を明らかにする所以なり。
 人倫、上にて明らかにすれば、小民、下にて親しむ。
 王者起こること有らば、必ず来りて法を取らん。
 是、王者の師為るなり。」
原文:
「設爲庠序學校以教之、
 庠者養也、校者教也、序者射也、
 夏曰校、殷曰序、周曰庠、學則三代共之、
 皆所以明人倫也、
 人倫明於上、小民親於下、
 有王者起、必來取法、
 是爲王者師也」
意味:
「庠・序・学校などをつくって人民を教育しなければなりません。
 夏の時代には校といい、商の時代には序といい、周の時代には庠といい、そこで学ぶ内容はみな同じです。
 このように上に立つ者が人の道を明らかにして教え導けば、人民は感化されて大いに国は治まるものです。
 滕は小国で天下の王者となるのは難しいでしょうが、天下の者は必ず滕の政治を手本とすることでしょう。
 そうすれば、王者の師となることができます」

学校とは、そもそも人に道を教えるべき場所。
そこは、詰め込みの○×のような勉強の場ではなく、人の道としての学問を教えるところ。
現代にあって、こうしたことに警鐘を鳴らす意味でも、学問という捉え方自体にもっともっと注目が集まって貰いたいものです。

なお第一話の中では、孫子の兵法や山鹿素行の話題も挙がっていましたね。
※)孫子や山鹿素行については、以前に整理した内容も参考にしてください。
 ・武経七書 孫子から学ぶ!処世哲学の在り方
 ・聖教要録、配所残筆より学ぶ!日常の礼節・道徳の重要性!
 山鹿素行の話題では、松陰が「先知」(=先に知れ)についても触れていました。
 このあたりは、以下で整理してありますので、参考にしてください。
 ・朱子学と陽明学の違い、日本陽明学とは!
 ・近思録より学ぶ!修己治人による精神の復興!

更には第一話の中で松陰が大切なことに触れていましたので、引用しておきます。

「己の頭で考えることができるもんは(西洋人の考えに)かぶれも染まりもしません。
 (大事なことは)ただ覚えるだけでなく、考えること。」
 
「今までの学問ではもう日本国は守れん。
 本当にこの国のことを思うもんは知っとる。
 死に物狂いで学ばんにゃ、こん国は守れんと」

「皆に問いたい。
 『人は、なぜ、学ぶのか?』
 私はこう考えます。
 学ぶのは、知識を得るためでも職を得るためでも出世のためでもない。
 人にものを教えるためでも 人から尊敬されるためでもない。
 己のためだ!
 己を磨くために人は学ぶんじゃ」

「『人は、なぜ、学ぶのか?』
 お役に就くためでも、与えられた役割を果たすためでもない。
 かりそめの安泰に満足し、身の程をわきまえ、この無知で世間知らずで何の役に立たぬ己のまま生きてゆくなど御免です!
 この世の中のために、己がすべきことを知るために学ぶのです!
 私は、この長州を日本国を守りたい!
 己を磨き、この国の役に立ちたい!
 そのために学びたい!まだまだ、学びたい!」

これまでこのブログ※)で”学問”という観点で整理してきたことと重なることでしたので、引用してみました。
※)これまで触れた内容については、以下も参考にしてみてください。
 ・学問の姿勢とは?学びて思わざれば則ち罔し!
 ・明治維新からの見落とし!教育とは何かの原点回帰を始めよう!
 ・東洋史観 軍略的な観点から見た、2015年の日本人が取り組むべきこと!

来年以降に向けて、時代が大きく移り変わろうとする今だからこそ、過去の偉人・賢人や古典に学ぶべきものは多いです。
若き松陰は、こういう言葉を残しています。

「道の精なると精ならざると、業の成ると成らざるとは、志の立つと立たざるとに在るのみ、
 故に士たる者は其の志を立てざるべからず。
 夫れ志の在る所、気も亦従ふ。」
意味:
「生き方が確固たるものになれるか、物事を為し遂げる事が出来るか否かは、全て志が立つか否かにかかっている。
 志さえ立ったならば気力は自ずと従って来るものである。」

「心はもと活きたり、活きたるものには必ず機あり。
 機なるものは触に従ひて発し、感に遇ひて動く。
 発動の機は周遊の益なり。
意味:
「人の心は元来活き活きしており、機会さえあれば大きな弾みがつく。
 機会は何物かに触れたり感じる事で生まれる。
 発動の機会を与える点で諸国遊学は大きな益をもたらす。」

きっかけはどんなものでも構いません。
今年は是非とも精神修養、練磨の機会を持ってみてはいかがでしょうか。

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参考までに、「滕文公章句」を一部抜粋しておきます。

『孟子』 滕文公章句上
【一章】
滕文公がまだ世子のとき、楚の国に行く前にまわり道をして孟子に面会した。孟子は性善説を説き、 堯・舜の道を説いた。世子は帰りにまた孟子を訪ねた。孟子は 「むかし斉の成覵という勇士は、 景公に『他の勇士も一個の男子なら、自分も一個の男子です。どうして畏れることがありましょう』といい、 顔淵は『舜も自分もやはり同じ人間なのだ。 努力しだいでは、舜のようになれない道理はないはずだ』と言ったといいます。このように大をなそうとする人の理想は、誰でもこうあるべきです。 また魯の賢人公明儀は『周公はかつて「文王こそいつも私の手本なのです」と言われたが、 まことにそのとおりであり、誰でも努力すべきだ』と言ったといいます。
お国の滕は小さいとはいえ、ざっと50里四方ぐらいはあります。もし仁政を行うなら、立派な国にすることができます」と言った。
【二章】
滕定公が薨去した。文公は然友に「父の喪の礼について孟先生に聞いてきてくれ」と言った。然友は孟子を訪ねると、 孟子は「まことに結構な質問です。私は、親の喪は3年で、 粗末な喪服を着て、3日目ではじめて粥をすするというのが喪の礼である、と聞いています」と言った。然友は復命すると、文公は3年の喪をすることに決めた。 しかし一族の重臣がみな反対して「わが先代にもこれをされた方はおられません」と言った。そこで文公はまた然友に命じて孟子の教えを請うた。 孟子は「なるほど、そうでしょう。だがこればかりは他人に頼むわけにはいきません。主君たる者が先頭に立って行えば、下のものはそれを見習うものです」と言った。
然友は帰ってこれを報告すると、文公は「なるほど、そのとおりだ」と言って孟子の言われるとおりにした。先に反対した重臣も心うたれて「世子はまことに礼を知る賢君だ」 と言うようになった。
【三章】
滕文公は孟子に国を治める道を尋ねた。孟子は「民の仕事、特に農業が何よりも大切です。そもそも人は、きまった職業や収入のある者はゆるがない道義心があります。 仁者たる仁君は人民が罪を犯さぬようにするものです。
さて夏の時代には、田地50畝ずつ与えて貢という税法を行い、商の時代には70畝ずつ与えて助という税法を行い、また周の時代には100畝ずつ与えて徹という税法を行いました。 名こそ違っておりますが、その内容はみな同じで10分の1を租税として取ったのです。
徹とは実際の収穫高に応じて取り、助とは8戸の人民の労力を借りて公田を耕すことから名づけられました。貢は数年間の収穫高を量り比べて平均の収入を出し、 その10分の1を租税とするので、豊作の年には、税収が少なすぎる結果となり、一方凶作の年には、人民が苦しむことになります。
ところで滕では井田の助法が行われておりませんが、これは商から行われてきた制度であり、ぜひとも行われますように。
次には教育の政策が肝要です。庠・序・学校などをつくって人民を教育しなければなりません。夏の時代には校といい、商の時代には序といい、周の時代には庠といい、 名こそ違っておりますが、そこで学ぶ内容はみな同じです。
このように上に立つ者が人間の道を明らかにして教え導けば、人民は感化されて大いに国は治まるものです。
滕は小国で天下の王者となるのは難しいでしょうが、天下の者は必ず滕の政治を手本とすることでしょう。そうすれば、王者の師となることができます」と答えた。
文公は助法を行おうと思い、畢戦を遣わして孟子に井田法を詳しく質問させた。孟子は「郊外の遠く広いところでは助法によって9分の1の税を取り、 郊内の近いところでは、徹法によって10分の1税を納めさせるようにしたいものです。また卿以下士大夫には世禄のほかに圭田を井田とは別に50畝ずつ与えたいものです。 また士大夫の子弟で家を嗣ぐことができず庶民となった者にも圭田を25畝ずつ与えたいものです。こうすることにより、 一家の大事な働き手が死んでも遺族は流浪することがなくなります。
また一郷の田畑は8軒の家ごとに耕し、盗賊・変事などの見張りや防禦も助け合いさせ、病気の時にはお互い看護しあうようにすれば、みな睦まじくなるものです。
もう少し説明すると、一里四方の田地が一井で、その面積は900畝あります。これを井の字型に分けると100畝ずつ9つに分けたことになります。その真ん中のひとつが公田で、 周囲の8つを私田とします。8家族でまず共同に公田を耕して、めいめいの私田を耕すのです」と言った。
【四章】
神農氏の説いた道を奉じている許行という者がおり、滕にやって来た。 楚の陳相という儒者は滕に移り住んだが、許行に会ってそれまでの儒学を捨てて、神農氏の道を学んだ。
陳相はある日、孟子と会い「滕公はまことに賢君ですが、まだ神農氏の説かれた正しい道をご存知ありません。まことの賢者とは、 自分から鋤・鍬をとって人民と一緒になって田畑を耕し、自炊しながら政治を執るものです」と言った。
孟子は「いつも許子は自分で五穀を植え耕して、それを食べておるのか」と尋ねると、陳相は「そうです」と答えた。
「では、許子はいつも自分で布を織っては、それを着ておるのか」「いや、織りません。許子は毛皮の衣をきています」
「では、冠はかぶるのか」「かぶります」
「それは自分で織るのだろうか」「いや、穀物ととりかえるのです」
「なぜ、許子は自分で織らないのだろう」「そんなことをしていては耕作の邪魔になりますから」
「自分に必要なものはみな自分で作って家の中に貯えて置けばよいではないか。なんでまた他人と物を取り替えるのだろうか。よくも許子はそんな面倒臭いことを嫌がらんもんだね」
「いろいろな職人の仕事までは、とても耕しながら、片手間にできるというものではありませんから」
孟子は「では、どうして天下を治めることだけが、片手間でできるというのか。仕事にはそれぞれ分担があって、人の上に立って政治をする大人もいれば、 人の下にあっていろいろな物を作る小人もいるのだ。精神を使う人は上に立って人を治めるし、肉体を使う人は下にあって人に治められる。 治められる人は租税を治めて治める人を養い、また治める人は治められる人に養われる。これが天下にあまねく道理なのだ」と言った。
むかし、堯のときには、天下はまだ穏かではなかった。そこで堯は舜を用いて天下の政治を執らせ、舜はまず益を挙げて火を司る役人とした。 次に禹に命じて治水のことを司らせた。このようにしてはじめて中国の地は安心して生活ができるようになったのである。
禹は治水に苦心すること8年、その間に三度ほど門の前を通ったが、忙しくて立ち寄ることもできなかったということである。このような有様では、 どうして田を耕すことなどできようか。そこで舜はまた棄を后稷という官にして、五穀を植えつけさせた。 また契を司徒の官につけて、人民に人間としての道を教えさせた。
また堯は日ごとに人民をよくいわり励ましてやり、民に恵みをかけては救ってやった。聖人はかくまで人民のことをいろいろと心配されるのだから、 どうして自分で耕す暇などあろうか。
堯や舜は良い人材を見つけ出して天下をよく治めたいと、それが心配のたねであり、自分の田畑がよくできたかと心配する農夫とは違うのである。 そもそも人に財物をやることを恵といい、人に善を教えることを忠といい、立派な人材を得ることを仁という。この仁こそ最も尊くて難しいのである。
君の先生の陳良は楚の生まれでありながら、周公・孔子の道を慕い、 はるばる北のかた中国にやってきて聖人の学を学んだもので、 中国の学者でさえも、陳良に勝る者はいないくらいになった。君ら兄弟はこの立派な先生に何十年も師事しながら、先生が亡くなると、すぐに許行の門下に走ってしまうとは。 孔子が亡くなられた時には、門人たちは3年の喪に服したし、子貢だけはただ独りでさらに3年墓守をしてから郷里へ帰ったという。 また子夏・子張・ 子游などは有若の容貌や言葉が孔子によく似ているというので、 有若を孔子に見立ててこれに仕えようとした。曾子はこれをはねつけたが、師を慕う気持ちはこれほどであった。
ところが今、南方の野蛮人で、変な方言を使うあの許行などの邪説を信じるとは。どう見ても、善くない変わり方だね」と言った。陳相は「もし許子の説に従えば、 市場の物価は一定して掛け値がなくなりましょう。なぜなら、布でも絹でも長ささえ同じなら、その値段は同じ。目方さえ同じなら、その値段は同じ。五穀も升目さえ同じなら、 その値段は同じです」と言った。孟子は「いや、それはいけない。物はみな品質に相違があるのが物の持ち前なのだ。だから値段がちがうのが常である。 もしも粗末なものと上等なものを同じ値段にしたなら、誰も苦心して上等なものをつくろうとはすまい。要するに、その説に従うと、 天下の人々がこぞって悪い物がかりをつくろうとする。そんなことでどうして国家がうまく治めていけよう」と答えた。
【五章】
墨子の説を奉じている夷之が、 孟子の弟子徐辟の紹介で孟子に面会を求めた。孟子は「聞けば、夷子は墨翟の説を信じているそうだ。 あの学派では薄葬主義というが、夷子は自分の親を葬った時には、たいそう手厚くしたとのことだ。おかしな話ではないか」と言った。徐辟はこれをそのまま夷子に伝えた。 夷子は「私の考えでは愛には差別はありません。ただ実際に愛してゆくには身近の親族から始めよとのことで、別に墨子の博愛と違わないのです」と言った。
孟子はこれを聞いて「いったい天が物を生ずる時には、その根本は必ずただひとつなのだ。人間もわが身の根本は父母で、ただひとつだけである。ところが、 夷子は自分の父母も他人の父母も全く同じで変わりないというのは、根本を2つにするようなことだ。太古には親を葬らない時代があったが、 自分の親や野で獣たちに食われているのを見て、土をかけて見えないようにしたのが、埋葬のおこりである。見えないようにするのが、道理にかなった善いことだとすれば、 後世の親を手厚く葬ることもまた、当然の道理であろう」と言った。
夷之はこれを伝え聞いて「孟先生に実によく教えて下さった」と感服して言った。

『孟子』 滕文公章句下
【一章】
弟子の陳代が「先生はご自分からすすんで諸侯にお会いになられないのは、少々狭量のように思います。 古書にも『たとえ一尺をまげても、八尺をまっすぐにできればよい』 とありますから、このようにされたらどうでしょう」と言った。孟子は「むかし、斉の景公が狩をしたとき、 狩場係りの役人を旗をふって呼んだが、その役人は呼ぶ方が礼にかなっていないので、行かなかったという。狩場の役人でさえそうであるのに、私がこちらから出向くのは、 いったい何事であろうか。それからお前が引用した言葉は利益を目的とした言葉である。お前は多少自分をまげてもというが、自分をまげるような正しくないものでは、 とても他人を正しくすることなどできはしない」と言った。
【二章】
景春は「公孫衍や張儀こそ、 まことの大丈夫ではないでしょうか。この2人が怒ると戦争を巻き起こし、 反対に2人が落ち着いておれば、天下は平穏なものですから」と言った。孟子は「それがまことの大丈夫といえようか。公孫衍も張儀も諸侯にこびへつらって奔走しているに過ぎない。 いわば婦女子の生き方と変わりがない。
まことの大丈夫とは、仁という天下に広い住居におり、礼という天下の正しい位置に立ち、義という天下の大道を行う者のことを言うのだ」と答えた。
【三章】
周霄は「先生、古の君子は仕官したものでしょうか」と尋ねた。孟子は「もちろん仕官しました。古の人は3ヶ月も浪人していると、 他人がみな慰問したものである」と答えた。 周霄は「たった3ヶ月ぐらいで慰問するとは、あまりにせっかちではありませんか」と尋ねると、孟子は「士が地位を失うのは、諸侯が国を失うのと同じようなものだ。 士も仕えないと祖先の祭りもできず、一族や知人を集める宴会もできなくなるから、皆が慰問するのも当然であろう」と答えた。周霄は 「それではなぜ先生のような君子が仕官を渋っておられるのですか」と尋ねた。孟子は「子が父母の許しなく自分勝手に、垣根を乗り越えて密会したりすれば、 世間の人はみな軽蔑するだろう。古来君子は仕官を希望しないものはないが、ただ仕官するのに正しいやり方によらないのを悪みきらったのである」と答えた。
【四章】
彭更が「先生が何十台という車を列ね、何百人という従者を引き連れて諸国の禄を食んで歩かれるのは、 分を過ぎた奢りではありますまいか」と言った。孟子は 「もっともな理由がなければ、たとえ一膳の飯でも貰ってはならないし、また理由があるなら天下を受け取っても分を過ぎたといえない。 それともお前はこれを分を過ぎたことだとでも思っているのか」と言った。彭更は「いや、そうは思っていません。ただ士たるものが、なんの仕事らしい仕事もしないで禄を貰うのは、 よくないことだと思うのです」と言うと、孟子は「今ここに人があって、この人は家では親に孝、社会では目上によく仕え、先王の正しい教えをよく守って、 後世の学者にそれを伝え残そうと努めていて、その者が衣食を求めたら、お前はこれを分を過ぎているとみなすのか」と言った。
彭更は「しかし先生、大工など職人はもともと衣食のために働くのですが、君子が道を行うのもやはり衣食が目的なのでしょうか」と尋ねた。孟子は 「お前はどうしてそう目的目的というのか。誰でもよい成果があがればそれに応じて報酬を上げるのがよい。お前は報酬を目的に対してあげるのか、その成果に対してあげるのか」 と逆に尋ねると、彭更は「目的に対してです」と答えた。孟子は「では、下手くそな職人が、うまく物をつくれなくても、衣食の糧を求めるのが目的だといったら、 報酬をあげるのか」と尋ねると、彭更は「いいえ」と答えた。すると孟子は「それなら、報酬はやはり成果に対してあげるというものだ」と言った。
【五章】
万章が「この宋の国は小国です。それが今や、王者の政治を行おうとしているのです。もし斉・楚の大国がそれを嫉んで攻めてきたら、どうしたらよろしいでしょうか」と尋ねた。 孟子は「むかし、湯王がまだ小さな諸侯で、亳におられたときのこと、葛という国と隣り合っていた。その葛伯はわがままで、 湯王が犠牲の牛や羊を送っても、 それを食べてしまうし、お供え品を渡してもそれを奪い取ってしまい、それを渡さぬ者は殺してしまうほどであった。さすがの湯王も立腹して葛を討伐した。人々はこれを批評して 『天下の富ほしさのいくさではない。罪なく殺された庶民のためである』と言った。湯王は無道の諸侯を征討していったが、これは民が湯王の来るのを待ち望んでいたためである。
今、宋がビクビクと斉と楚を恐れているのは、むしろ王者の政治を行わないからだ。もし湯王・武王のような政治を行ったなら、 必ず天下の人民はみな宋王が来るのを待ち望み、 主君に推し戴こうと願うようになるだろう。どうして斉・楚を恐れることがあろうか」と言った。
【六章】
孟子は宋の大夫戴不勝に「今もし楚の大夫が、自分の子に上品な斉の言葉を話させたいと思ったら、斉の人を守役としますか、 楚の人を守役としますか」と尋ねた。戴不勝は 「もちろん斉の人にするでしょう」と答えた。孟子は「そうでしょう。しかし、斉の人がたったひとり守役となっても、おおぜいの楚人がその子にうるさく楚の言葉で話しかけたら、 いくら斉の言葉で話させようと責め立てても、とても無理なことです。ところが斉のにぎやかな街に、その子を何年間かおくと、逆に楚の言葉で話させようと責め立てても、 また駄目でしょう。
それと同じで、あなたは薛居州を王のお傍におくのは結構だが、王のお傍にいるものが誰もがみな薛居州のような人でないとすれば、 王は善をしようにも誰ひとり力づけるものとていないでしょう。たったひとりの薛居州の力では、宋王をどうすることもできないでしょう」と言った。
【七章】
公孫丑は「先生は諸侯に面会を求めないのは、どういうわけなのでしょうか」と尋ねた。孟子は「むかしは仕えて臣下とならないかぎり、こちらから進んで諸侯に面会しないのが、 礼とされていた。段干木や泄柳は諸侯がわざわざ会いに来たのに会わなかったというが、私はお目にかかるつもりだ」と答えた。
【八章】
戴不勝は「先生のおっしゃるように10分の1税をとって関税や商品税は廃止しようと思いますが、今年はそうもいかないので、来年になったらすっかり廃止しようと思います」と言った。 孟子は「今、隣から入り込んでくる鶏を毎日盗み取る人があるとします。ある人が注意すると『それでは、少し減らして一ヶ月に一羽ずつ盗むことにして、 来年になったら全部やめることにしよう』といったら、どうでしょう。もし悪いと気づいたら、すぐさまやめるまでのこと。なにも来年を待つには及びますまい」と言った。
【九章】
公都子が「世間の人たちは、先生をたいへん議論好きだと申していますが」と尋ねた。 孟子は「自分とて、なにも議論が好きなのではないが、黙ってばかりもおられず、 やむをえず議論しているまでだ。禹や湯王や武王のときには道が行われていたが、周の世も末になると、先王の道もだんだん行われなくなり、間違った学説や行為が起こってきた。 そこで、孔子は行く末を案じられて春秋を作られた。
孔子の没後は聖王はあらわれず、楊朱や墨翟の説が広く天下に満ち溢れ、楊朱に賛成しなければ、墨翟の説に賛成するというありさま。 自分はそれが心配だからこそ、古の聖人の道を固く守り抜いて、楊朱・墨翟の説を攻撃し、でたらめな言論を追放し、間違った学説を唱える者が二度とは現れぬようにと、 懸命に努力しているのだ。だから決して議論が好きだというわけではない」と答えた。
【十章】
匡章が「あの陳仲子こそは、まことの清廉潔白な人物でしょう」と言うと、孟子は「なるほど、私も仲子を優れた人物だと思う。しかし彼は、 みみずのような水や土を飲食する者にならなければその道を行えまい。彼の家はもともと斉の禄を食んでいる譜代の家柄の生まれであるが、それを不義の禄として食わず、 その家を不義の家だとして住まないで、兄や母を離れて別居している。そのくせ、妻の作る料理や住んでいる住居の由来すら知らない。 それで同じ節操をあくまでも徹底させているといえようか」と答えた。