陰陽五行 男性と女性に当てはめてみると!

陰陽五行によると、一般に男性(陽)は能動的で攻撃に強く、女性(陰)は受動的で守備に強いといわれるそうです。(まあ、これにはいろいろと反論もあるでしょうが、今少しおつきあいください)

しかし(専門用語”座相変の原理”によると)、人間の本能は集団を組むとこの陰陽が逆になり、男性は受動的な質、女性は能動的な質に変化するというのです。
つまり、集団の中では男性は女性化し守備型(静)に変わり、女性は男性化し攻撃型(動)に変わるということですね。
例えば、営業を行う場合などには、男性は一人で営業活動させ、女性はグループ活動させる方が業績もあがり効果が出るというのも、攻撃力が生まれやすいこの特質を本能的に活用しているからだと言われています。
また、新規事業展開を行おうと考えて男性ばかりを集めてグループにし、現地派遣や海外進出させてもなかなか業績は上がらない傾向が出るそうです。
が、単身でなくそこに配偶者や恋人を同伴させておくと、女性が男性に攻撃力を与えてくれるので、業績や成果があがりやすいのです。
(そういった手段が取れない男性の単身者が、攻撃力を得るために別の手段で補おうとするのは、”座相変の原理”から見ても自明なんですかね。。^^)

じゃあ、集団の中で攻撃的に見える男性はどうかというと、それは本来女性的な質を持つ人なのです。
別にそれが良い、悪いという訳ではありません。
東洋史観的な軍略論でいうと、男性集団や女性集団のことを”性差集団”といいます。
人間の本能は、個人としての本能と、集団の中に身を置いた場合の本能に分けることができ、集団は個人を変化させる力を持っているのです。
従って、人間は単独でいる場合は本能の「陽」の部分が表に出て「陰」が裏側へ隠れ、集団では「陰」が表れ「陽」が裏側に回る。つまり本能の表れ方が逆になるという原理です。
ですから、単独だとおとなしい人物が、集団の一員になると雄々しい人に変貌したりする訳です。

この”性差集団”をもう少し説明しておきましょう。

男性が集団を組むと役割意識が生まれ人間関係の上下の序列が生まれますが、女性が集団を組むと対等意識が生まれ横一列的になります。
そのため、男性集団は守りに強く、目的がなく止まった状態であっても崩れにくい訳です。
また、目上が人間性に問題がある人物だったとしても、その地位に対して礼をつくす傾向にあります。
そのため、男性で目上に人間性を要求する人は、女性的な質を所有している証拠になります。
ですので、男性集団で女性的な質を持つ男性が現れると、その集団から脱落したり、集団から突出した人になっていく訳です。

反面、女性が集団を組むと常に目的を持ち、それに向かって進んで行かなければ団結が壊れてしまう傾向にあります。
また、上下関係の世界に人間性を持ち込みがちですので、目上として仰ぐ人物が人間的に尊敬できない場合、目上とは認めないという精神構造があります。
しかし、女性でも男性的な質が強い人は、人間性への要求は薄いため、目上に能力的なものを求めることになるのです。
こうしたことから、企業などで女性を多くかかえる部署では長に人間性を重視した人材を配し、男性の長には能力を重視した人材を配するのが、組織を纏める上では大事な原理となるのです。

もう少し”性差集団”について説明しておきましょうね。

人間関係がタテに連結する階層型の集団は環境変化への対応が弱く、ヨコに連結する集団は変化への対応に強みを発揮する傾向にあります。
男性のパワーは学歴や肩書き、あるいは専門分野など、持続的なものが土台になるため、それが活かせない状況になると、どう生きたらよいか分からなくなってしまいます。
反面、女性はそのような土台を必要とせず、別の世界へ平気でポンと移っていける逞しさがあります。
ですので、国が安定期にある時は土台がしっかりしている男性が強みを発揮するのですが、国が傾き始め混乱期にある時には女性の出番になっていく訳です。
ですので、企業などで集団を大きく変革させようとする指導者は、女性集団の形成に力を貸し、彼女らの理解を得ることが大切になってきます。
女性集団が最大のパワーを発揮するのは、時代が変革期にさしかかったときですので、女性の活躍が目立ったり、指導層に女性的な質を持った男性が多くなるということは、世の中なり企業が動乱期にある証拠です。
このように”性差集団”の動向は時代の特徴を判定するバロメータにもなる訳です。

『華陽国志』より学ぶ!

華陽国志 常璩 西晋王朝~東晋王朝

『華陽国志』は華陽地方を限定とした歴史書です。
後漢までは『史記』から続く全中国の歴史書が書かれていましたが、後漢末の群雄割拠以後、地方に対する意識が高くなりました。 魏の九品官人法の施行により、地方の輿論に基づく人材登用がなされると、その地方の文化・地理・歴史・人材の有無に関心がいく ようになったのです。
こうした背景から、いわゆる地方史のブームがおこりました。
そしてこのような時期に『華陽国志』は生まれたのです。

さて『華陽国志』の概要は「華陽」つまり巴・蜀・漢中を中心として、古代からの歴史が簡単に書かれており、さらに地理の沿革・物産の状況 を付け加えて、編年体形式で書いています。
歴史といってもはっきりとした年代や人物名は不明で、主に楚や秦といった隣国と関連したときのエピソードを記録したといった感じです。 前漢王朝以後は、中央の権威が届いたので、やや詳しい記述になっており、『漢書』や『後漢書』『三国志』と重複するように書かれています。
『華陽国志』の資料的価値は、記録があまり残っていない西南地方の古代史の記述があることでしょう。小生も西南地方の古代史はまったく無知であったので、 結構勉強になりました。

著者の常璩(ジョウキョ)は蜀に勢力を持つ常氏に生まれ、西晋末の混乱で蜀に割拠した李氏政権に仕えて、散騎常侍になります。 しかし347年、東晋の桓温の討伐軍の前に、主君に降伏を勧め、東晋に仕えました。 そして桓温の安西将軍府の参軍となりました。
常璩の著作には『華陽国志』『漢之書(李蜀書)』があります。

第一 巴志
  堯時代の洪水から禹の治世、以後周武王から後漢献帝までの古代史を記録。
  そのあとに5郡23県の名を列挙し、各県の物産や大姓名を記す。

第二 漢中志
  周の戦国時代から、後漢献帝までの古代史を記録。
  そのあとに7郡40県の名を列挙し、各県の物産や大姓名を記す。

第三 蜀志
  古代蜀王の伝説を述べ、以後周顕王から後漢献帝までの古代史を記録。
  そのあとに7郡36県の名を列挙し、各県の物産や大姓名を記す。

第四 南中志
  周末から東晋成帝までの古代史と西南少数部族の動向を記録。
  そのあとに14郡73県の名を列挙し、各県の物産や大姓名を記す。

第五 公孫述劉二牧志
  前漢末の公孫述政権の興亡を述べ、後漢末の劉鄢・劉漳父子の治世を記録。

第六 劉先主志
  蜀漢王朝を樹立した劉備の一生を記録。

第七 劉後主志
  蜀漢王朝2代目の劉禅の即位から蜀漢滅亡まで記録。

第八 大同志
  蜀漢王朝滅亡の次年から西晋愍帝の建興元年に至る50年間の益州の政治的動向を記録。

第九 李特雄期寿勢志
  李特から李勢までの李氏政権(6世47年)の興亡を記録。

第十 先賢士女総讃
  前漢初期から三国末までに至る間の益州出身の士女194人の略伝を記録。
  蜀郡の士女55(男43・女12)人  広漢郡の士女57(男46・女11)人  犍為郡の士女30(男20・女9)人
  漢中郡の士女34(男25・女9)人  梓潼郡の士女18(男15・女3)人

第十一 後賢志
  西晋時代の著名な益州の士20人を記録。

第十二 序志
  常璩の序文と、士女の目録を記録。

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