三事忠告における、前回からの続きです。
今回は、法務警察関係者・検察・裁判官に向けた忠告・アドバイスを示した風憲忠告について整理してみます。
張養浩は監察官の長官時代に、目に余る時政に対し以下の十条を上訴し、結果官界から排除され身に危険が及ぶまでの状況に追い込まれたようです。
一.温床が奢り過ぎること
二.刑罰禁令に抜かりが多すぎること
三.名誉や爵位が軽々しすぎること
四.政治の監督が弱すぎること
五.土木工事をやりすぎること
六.号令が浮薄すぎること
七.情質がひどすぎること
八.風俗がだらしなさすぎること
九.異端者が横暴すぎること
十.大臣任命がでたらめすぎること
こうした忌憚なき物言いを見ても、張養浩の信念がありありと見て取れます。
それにしても、廟堂忠告も上記上訴も、今回整理する風憲忠告も牧民忠告もすべて十か条から成っていることに気付かされます。
シンプルにして、明確に、誰がみてもわかりやすく、その上で十分な理解を求めた張養浩の思いまでが伝わってくるようです。
【風憲忠告】
第一 自律…自ら律すること
風憲(検察官と裁判官など風紀を取り仕切る職)は、悪を摘発して綱紀を粛正する責任を負っている。
自らを厳しく律しなければ人々を納得させられるわけがない。
わずかでも逸脱すればたちまち指弾を浴びるだろう。
政府が政治の粛正をはかり風憲を強化して地方巡察に力を入れているのは、混乱を解決し公正な政治を行なって一般官吏に規範を示そうとするからである。
もし次の項目の一つにでも触れる行為があれば風憲として失格だと言わざるをえない。
・「権勢を笠に着て私服を肥やす」
・「身内にえこひいきする」
・「本来の職務に身を入れない」
・「酒に溺れたり宴会で遊びまわる」
・「狩猟にふけって田畑を荒らす」
・「やたら不急の工事を興す」
風憲がこのようなことをしていれば、一般官吏はどんな規範に基づいて政治を行なえばよいのか。
人の不法行為は軽ければ風憲自身が断罪し、重ければ天子の許可を得て断罪できる。
だが、風憲の不正行為は誰からも断罪されないので不法行為に走りやすい。
風憲は自らを律しなくてはならない。
第二 示教…正しい道を示し教えること
人から教えを受けることを嫌がってはならない。
凡人は従わざるをえない相手、恐れている相手の言うことなら何でも聞くが、そうでもない相手からは聞き入れようとはしないものである。
官吏の中で風憲ほど人々から恐れられる存在はない。
風憲に就任したら部下を集めてこう訓戒してはどうだろう。
「賄賂をとり私利をはかっても、得るものは少なく失うものが多いものである。
発覚して後始末に頭を痛めるより、普段から自戒するに越したことはない」
刑罰だけ振りかざしても世の中は治まらない。
不法行為に走らないように教え導くことこそが最高の政治なのである。
第三 詢訪…広く意見をはかり訊ねること
政治家が「先に聞いた意見に引きずられる」傾向にあるのは実情に疎いからである。
実情を把握しようと思うならできるだけ広く人々に意見を求めるとよい。
どの役人が貪欲で、どの官吏が清廉で、何が人民を悩ませているか、どんな政治が人民の利益になっているか、さらには豪族の有無、人情の厚薄など、おおよその輪郭を把握しておき、後日さらに詳しく調査して事実と照らし合わせ点検するなら正確な実情を把握できるだろう。
もし清廉な官吏を見出だし優遇して推薦・抜擢すれば他の者に好ましい刺激を与えられよう。
どんなに高位の役人でも貪欲なら糾弾し排斥すれば悪をなす者へのよい見せしめとなる。
よく家を治めている者は家族や召使いに至るまでその性格や人柄の良し悪しをすべて把握している。
一家も一国も同じである。
一つでも掌握し損ねることがあればそれにつけこまれて勝手なことをなすがまま。
この状態が長く続けばやがて是非の区別もなくなり、へつらいを忠誠、貪欲を清廉、無能を有能と勘違いするようになる。
そして法令違反が続出し綱紀も地に落ちるだろう。
第四 按行…行を調べること
風憲が来ると地方官吏はみな戦々恐々として仕事が手につかなくなる。
悪事に手を染めたことが発覚して訴えられるのを恐れるからである。
そこで表沙汰にさせまいと手を回して風憲にもみ消しを頼む。
頼まれた風憲がその見返りを受け取ればどんな難題でも要求されてしまう。
風憲は自分に責任が及んで後悔しないよう、あらかじめ万全の措置を講じてそのような事態を予防しなければならない。
風憲が清廉であっても相手は執拗に食い下がってくるだろう。
誘惑に負けて金品を受け取れば救いようがない。
こうして人民からあこぎに税金を取り立てたり手当たり次第に巻き上げたりして巡察先から私財を蓄えて引き上げてくる風憲が現れる。
金品のために行く先々で自分を汚すようなことをすべきでない。
風憲の責任者が立派な人物であれば巡察する風憲もあえて勝手なことはしない。
巡察する風憲が立派な人物であれば地方官吏もあえて勝手なことはしない。
各地の役所が主催する宴会で風憲も官吏も一緒くたになって無礼講を演じ上下の区別を乱している。
こんなていたらくでは官吏が上司を思うがままに操り、好き勝手な振る舞いに及ぶようになるのも当然だろう。
官吏のデタラメは法律で厳禁するとともに断固たる態度を持って臨み、いささかでも法に触れれば直ちに厳罰に処さなければならない。
そうなれば目に余る行為を慎むだろう。
第五 審録…罪過をつまびらかにすること
普通の人々は飢えや寒さに迫られたときに心を乱さないという保証はない。
まして無知な人々ともなればなおさらである。
官吏が人民をよく教え導かなければ困窮のあまり盗賊となる者が現れたとしても止むを得ない。
だから法令を適用する際には寛容の精神で臨み、人民の窮状に同情こそすれ、その罪を憎まないことである。
そもそも官吏たる者の心得は「口は厳しく、心はやさしく」の一言に尽きる。
長く拘禁されている囚人に対してはとりわけやさしい態度で接し、獄吏に代わって自ら取り調べにあたり、あらためて事件の一部始終を聴取したうえ、獄吏の調書と照らし合わせて真実を把握しなければならない。
調書だけで真実を把握しようとすればどうしても誤った判断を下すことになろう。
地方に立派な官吏がいなければ、そこで起案された文書を信用してはならない。
いささかでも判断を誤ればただちに人の生き死にに関係してくるのである。
だから聖人も「罪が疑わしいなら軽い刑を、功績が疑わしいなら重い賞を。無実の者を殺すくらいなら、法にとらわれないほうがまし」と語っている。
人の罪を裁く際の心得はこの言葉に尽きる。
第六 薦挙…人材を勧め上げること
世間のことは一人ですべて知ることができない。
また、何事も独りで成し遂げることはできない。
多くの知識を吸収し、多くの人材を登用してこそ仕事がはかどるのである。
金持ちが財産を持っていたとする。田畑かあれば篤農家に耕作を任せるだろう。
資本があれば腕の良い商人に商売を任せ、家畜があれば牧畜に長けた者に管理を任せるだろう。
金持ちは財産を管理するのに熱心で、多くの人材へ財産の管理を託しているのである。
金持ちですらこのように人材を求めているのに、天の負託を受けた者がすぐれた人材の協力を得て国を治めることを知らないとはどうしたことか
。知恵が金持ちよりも劣っているからではない。
熱心さが及ばないのである。
清廉で有能な人物がたとえ憎き仇敵であろうと、公のためには個人感情にとらわれず推挙すべきである。
人を推挙するとき、相手から頼まれることが多いが、売り込まれなくても推挙できる人材を選ぶのが公平である。
広く人材を求めるのなら自分が認めた者よりも世間に聞いて推挙するのが望ましい。
第七 糾弾…非違を正すこと
風憲は組織の内外遠近を問わず、職責上知り得たすべてをありのままに天子に報告しなければならない。
地方で中央官吏の、中央で地方官吏の不法行為が発覚したり、天子の側にいる高官だったり、遠く離れている人物だったりしてもすべて糾弾すること。
公平無私の態度で臨むのである。
とくに高官の処罰は迅速果断に行なうこと。
そうすれば罪の軽い下っ端役人などは自ら悔い改めるだろう。
推挙するときは地位の低い者から、弾劾するときは地位の高い者からすべきである。
ふだんつまらない人物として好ましくない振る舞いをしているのなら他に長所があっても必ずしも推挙しない。
立派な人物として好ましい振る舞いをしているのなら小さな過失があろうと必ずしも指弾しない。
刑法は元々つまらない人物のために作ったものである。
すぐれた人材は得がたいので、よほどの過失がないかぎり軽い処分に留めるべきである。
何十年もかかって養成してきた人物をたった一度の過失で葬り去ってはならない。
風憲ほど困難かつ危険な職務はない。
人々が求めるものを求めてはならず、人々が楽しむものを楽しんではならず、人々が私利に走っても流されてはならないからである。
また職務上、天子と是非を争い、大臣と可否を論じ、人々の悪事を摘発して官爵を剥奪し場合によっては死に追いやらなければならない。
しかも一つでも誤りを犯せば自らが罰せられ、どこにも控訴できないのである。
第八 奏対…天子に言上すること
天子に進言するときは落ち着いた態度で事実だけを述べること。
筋が通っていれば物静かに遠まわしで述べても十分に意思を伝えられる。
筋が通っていなければ激しい口調でまくしたてても効果はない。
臣下の礼を失するばかりか自分のためにもならないし事態の改善にも寄与しないだろう。
ただし情況が切迫しているときは落ち着いた態度で義に殉ずるのは難しい。
第九 臨難…厄難に臨むこと
過失を諌める職務であることでかえって罪を得ることがある。
そんなときはジタバタせず静かに時を待ち、筋を曲げずに貫くことである。
へたに憐れみを求めたり、震え上がって自分のほうから挫けてしまったのではどうして己の正しいことを証明できようか。
そもそも職責を尽くし国のため人民のために働いて罪を得た場合、獄に捕らわれ鞭で打たれ重罪に処されようと何を恥じることがあろうか。
第十 全節…節を全うすること
あの人の言うことを聞けばポストを与えられるが聞かないとポストを失うとか、これを漏らせば身が危うくなるのでつぐんでいれば何事もないとかいうのは世間の見方であって、立派な人物はそういうことに左右されない。
節義こそ天下の大法である。
富貴だからと驕らず、貧賎だからと縮こまらず。威武にも屈せずひたすら正道を守って生きるのである。
人に取り入り、自説を曲げて相手のいいなりになっているものは、成功失敗は別として正道を踏み外しているのは確かである。
一時は栄光を勝ち得ても事態が変われば泡沫と消え、人々や歴史には奸悪しか残さない。
のちに生き恥をさらすより、正道に殉じたほうがましではないか。