学問の姿勢とは?学びて思わざれば則ち罔し!

このブログ上では”古典から学びましょう”ということを何度か言及させて頂いていますが、今回はその姿勢について少し触れておきたいと思います。
実は論語や孟子の言葉の中から、そのヒントとなる言葉があります。

例えば、孟子は、
「詩を説く者は、文(もじ)を以て辞(ことば)を害(そこな)わず、
 辞を以て志を害わず、意を以て志を逆(むか)う。
 これを得たりとなす」
と言っています。
これは要は、古典を読むには文字にばかりとらわれて文面が示す本意を取り損ねてはいけないし、文章の表面の意味にばかりとらわれてその意図する核の論点を取り損ねてはいけない。
また、記載されている全般の趣旨や基本的な原則をきちんと把握し、文章それぞれに書かれている根本的な真意を考え理解することが肝要であるということです。
同じく孟子は、
「尽く書を信ずれば則ち書無きに如かず、
 われ武成に於いて二三策を取りて而して已む」
と言っています。
これは要は、古典に書かれていることを真偽の判断もせず頭から信じ込んではいけないということです。
従って、そうしたものを鵜呑みにするのではなく、きちんと咀嚼し自分にとって大事なことを抽出して取り入れるような心構えが肝要だということです。

また論語の中で孔子は、
「学びて思わざれば則ち罔(くら)し、
 思いて学ばざれば則ち殆(あやう)し」
と言っています。
これは、先人の知識を読書や聴講などによって学んでも、ただ詰め込むばかりで自分の頭で考えないと、何も見えてはこない。
逆に、自分勝手に考えるばかりで先人の知識を学ぶことをしないと、偏った考え方をしてしまう危険性があるし、大事な考えが抜け落ちているかもしれない。
要は、自分に合うように志向し身につく形で取り入れないとなかなか役に立たないし、本物の活きた知識にはならないということです。
また、いくら考えてもそれを支える基盤の知識が身につけていないと独善や誤った捉え方に陥る可能性があるため、本や人などもっと外から学ぶことが必要だということです。

そもそも四書五経を初めとして行われていた学問・教育というものは、それを読み記憶し解釈することにばかり重きが置かれていた訳ではなく、あくまでも読書・知識習得は思考を助けるもの、思考を底上げするための最低限必要な知識でしか過ぎませんでした。
端的にいえば、思考が主で読書・知識習得は従であったのです。
しかし、ここ140年程の日本の教育ではその主従が逆転し、あたかも○×式の試験や勉強に見られるような知識習得に長けているものが優秀だ、という認識を前提として成り立ってきたのではないかと思う訳です。
※)これまでの教育については、先日も少し触れましたので参考にしてください。
 明治維新からの見落とし!教育とは何かの原点回帰を始めよう!

大学に入るまでを学びのゴールのように捉えると、学びは勉めることを強いる、勉強にしかなりません。
本来の学びとは、一生涯を通じて学びて問い、問うて学ぶ学問であるはずです。

自分の思考を労する作業。
これを厭わずに行える姿勢を身に付けること。

そのための自分に対する意味付けをしっかりと行って参りたいものですね。

貝原益軒

大和俗訓
1708年(宝永5)/儒教をもとに為学・心術・衣服・言語・躬行・応接・の項を持って、学問の方法論、修養法、行儀作法といった行動の規範を論じている。
和俗童子訓
1710年(宝永7)/教育論書。総論(上)・総論(下)・随年教法・読書法・手習法・女子を教える法で構成。教育理念、教育期、教育環境、教育方法などを論じる。

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