『三国志演義』第三十四回 蔡夫人屏を隔てて密語を聴き、劉皇叔馬を躍らせて檀渓を過ゆ
曹操は金色の光の立ったところから、一つの銅の雀を掘り出したので、荀攸に尋ねた。荀攸が吉祥の兆と言ったので曹操は喜んでこれを祝うために銅雀台の...
知命立命 心地よい風景 〜リベラルアーツ・知性と教養の海原〜
This is THE Shutou's SIGHT
曹操は金色の光の立ったところから、一つの銅の雀を掘り出したので、荀攸に尋ねた。荀攸が吉祥の兆と言ったので曹操は喜んでこれを祝うために銅雀台の...
曹丕は二人の女が泣いているのを見て斬ろうとしたが、突然目の前が真っ赤に輝いたので、剣を握ったまま尋ねた。二人は袁将軍の妻劉氏と次男袁煕の嫁甄...
三男の袁紹は、他の軍勢が着くのを待たずに討って出て、張遼に大敗した。これを知った袁紹は驚き、血を吐いて倒れ、世継ぎを三男の 袁紹に定めて息絶...
大敗した袁紹だが、健在であることを皆が知ると再び人が集まり出した。 しかし、獄に入れられていた田豊は忠告を聞かずに大敗したと笑ったので獄中で...
袁紹が兵をおこすと、夏侯惇は直ちに書面を持って急を告げた。 曹操は荀昱に許都の留守を委ね、兵七万で迎え撃ちに行った。 袁紹の出陣の際、...
孫策は、その後廬江を攻め取って勢力を拡大した。 曹操は、曹仁の娘と孫策の末弟ソンキョウの結婚でつながりを深めた。 しかし、大司馬の位を許し...
関羽は夏侯惇に「わしを追ったりして丞相のお志を無駄にする気か」と言うと、夏侯惇は、「丞相からのお触れもなく人を斬って行くとは無礼にもほどが...
富永仲基は、江戸時代大坂の町人学者・思想史家で、懐徳堂の学風である合理主義・無鬼神論の立場に立ち、儒教・仏教・神道を批判し、そんな中2巻から...
曹操は蔡陽が関羽を追おうとしたのを叱り、見送りに行った。 後には許拠、徐康、于禁、李典等が従った。 関羽は曹操達に見送られて北の方に立ち去...
袁紹が劉備を斬らせようとしたとき、劉備は、「天下に似た者は数あり、関羽と限りませぬ」と言い、袁紹はもっともと言って顔良の仇を討つ事を考えた...
「降伏した劉備軍の兵を逃げてきたと言って城内に入れさせ、一方で関羽を遠方に誘い出し、退路を断って説得すればよいのでございます」と、賈詡カは...
河上肇は、日本を代表するマルクス経済学者として著名な人物で、特に資本主義による産業化の中で水面下で問題となり、第一次世界大戦をきっかけに日本...
曹操は、献帝の廃止を程昱に「にわかに廃立するのは兵火をまねくもとです」と諌められて思いとどまった。 ただ、董承ら五人は一族まで打ち首に...
今回は、「京都学派」という呼称を最初に与えた人物として知られ、唯物論哲学者として西田幾多郎や田辺元などからも高い評価を得ていた戸坂潤です。 ...
孔融が、 「あの両名はもともと劉備の敵ではありません。 もし彼らを斬られば、将兵の心を失うことになりましょう」と諌めたので、劉岱と王忠は命...
西田幾多郎は、日本人として初めて包括的な西洋哲学を示し、本格的で高度な哲学真理を発見した偉人です。 そんな西田哲学の特徴は、禅の精神から編み...
陳登の計とは袁紹を加勢させることであった。 劉備は弟の袁術を滅ぼしていたが、ジョウゲンの取りなしもあって承諾された。 そして、郭図は曹操討...
董承等が誰かと尋ねると、馬騰が言うに劉備だった。 董承は劉備を訪れて事の次第を話した。 そして、劉備は連判状に名を記した。 後日劉備が...
今回は「この人無しには、国学は起こらなかった」といわれる人物、契沖についてです。 江戸時代中期、近世前期の幕末・朝廷の文事奨励や社会・経済の...
張遼を救ったのは関羽であった。 曹操は張遼が忠義の士であることを知っていたので、戯れただけと言って剣を投げ捨てた。 この後、呂布の手勢...
劉備の軍はさんざんに討ち崩されて、単騎で落ちていった。 呂布が劉備の家に駆けつけると、糜竺が出迎えて「劉備殿は曹操に迫られてやむなく加...
日本思想の本格的発見者であり、日本を思想の水準に引き上げたといわれる哲学者・三枝博音についてです。 三枝は、宗教的合理性の追究を志し、認識論...
賈詡の計は城内に伏兵を置くことであり、曹操が城内に入ると一斉に攻撃をした。 曹操は慌てて兵を退いた。 劉表は、曹操が兵を退いたのを見ると、...
経世論は、主として江戸中期以降に形成された「経世済民」「治国平天下」のために立案された諸論策、もしくはその背景にある思想で、「経世思想」「経...
袁術は、孫策から玉璽を得て、自らを天子の位を名乗って年号を仲氏と定めた。 呂布は袁術の軍に慌てて協議をした。 陳矯は、陳珪、陳登父子が...
今回は、江戸時代後期の松代藩士、兵学者・朱子学者・思想家にして、幕末の志士に大きな影響を与えた天才学者・佐久間象山です。 1842年、主君...
長楊大将史楊大将の計とは、徐州の呂布に兵糧を送って恩を与え劉備に加勢させずにおいて、劉備を討ってから呂布を討つというものであった。 袁...
人君・人臣の職責から始め、君主として行うべき「仁政」を具体的に展開した経世済民論の書といわれる、熊沢蕃山の2巻から成る政策論『大学或問』につ...
劉備玄徳は、「義兄弟の契りを交わし、死ぬときは同じと誓ったではないか」と言って、張飛のあやまちを許した。 そして、軍を引き払って広陵を...
以前、法家について触れましたが、今回は全29編のうち24編が現存する、戦国秦の法家・商鞅の『商君書』(商子)という書についてです。 韓非子...
楊奉は徐康に迎え撃つように命じ、李楽もそれを見て自ら討って出た。 しかし、徐康に一合で斬られ、残兵はけちらされた。 かくして、帝は洛陽に戻...
呂布は劉備を頼って除州へ行った。 劉備は、除州を曹操から救ったのは呂布が背後を突いたからだと言って快く受け入れた。 そして、小沛に駐留する...
呂布の前に夏侯惇が立ちはだかり、その隙に曹操は逃げ帰った。 今度は劉邕の策で、呂布の城を三手に分けて攻撃したが破れてしまう。 しかも...
策を献じたのは糜竺である。 その策は、北海の孔融と青州の田楷に援軍を要請することであった。 陶謙は早速書状を書き、田楷に陳登を、孔融...
司馬遼太郎がその存在を知らず、一読して『福翁自伝』にひけをとらぬ内容、と驚嘆した自伝『A Daughter of the Samurai(武...
李傕、郭嘉は、献帝を殺そうとしたが、張済、范疆に諌められ官位を貰って引き下がった。 大権を手にした李傕、郭嘉の手によって再び暴政が始まり...
今回は、『論語』に漏れた孔子一門の説話を蒐集したとされる古書『孔子家語』について、触れておきます。 論語より学ぶ!人としての「徳」と「命」!...
董卓を突き倒した男は軍師李儒であり、呂布を殺そうとしているのをなだめに来た時にぶつかってしまったのである。 董卓は李儒に説得されて思いと...
『三国志(正史)』を元にして施耐庵あるいは羅貫中によって描かれた『三国志演義』を日々お届けしているところですが、改めてここ三国時代に至るまで...
カイリョウの進言に劉表は、義が立たぬと言ってカンカイを送り返して孫権の屍と黄祖の交換を約束した。 孫策は父と手厚く葬った。 董卓は長...
程普、黄蓋、韓当の三人の活躍によって劉表の追撃の危機を脱した孫権だが、この一件以降、劉表とは多々対峙することになる。 袁術は韓馥の領土...
先の鎌田柳泓のところでも触れた心学について、少し整理を深めてみたいと思います。 『心学奥の桟』と『心学五則』より学ぶ!日本にはダーウィンより...
張飛は関の下まで迫ったが、矢石が雨のように降り注ぎやむなく引き返した。 諸侯は三人の勲功をたたえて、袁術に勝利を報じる使者をたてた。 ...
曹操を殺そうとした陳宮だが、ここで彼を殺せば義が立たなくなると思い直しその場を去った。 曹操が気が付いた時には彼の姿はなく、急いで陳留の...
「大事が決まっていないのに、みだりに人を殺してはなりませぬ。」と、またも董卓を諌めたのは軍師李儒。 袁術は宝刀をひっさげたまま落ちて行っ...
「宦官が国の大事をあやまったことは今に始まった事ではない。 その元凶を除けばよく、諸国の兵を集めるに及ばぬ。」と曹操は言った。 しか...
董卓を殺そうとした張飛をあわてて劉備と関羽が引き止めた。 「我らは生死を誓った仲。役人を斬って追われよりここを去ろう。」と言い、張飛も 「...
江戸時代中期にしてはあまりに先進的なその思想は現在にも通じる、農本思想家・安藤昌益という人物がいました。 昌益は、生産活動を自然、社会、人体...
漢朝は高祖が白蛇を斬って義兵を興し、天下統一をしたのに始まり、後に光武帝の中興があって、以来献帝まで伝わり、ついに三国に分かれた。 この...
『三国志演義』、正式には『三国演義』は四大奇書の一つで、明の時代に施耐庵あるいは羅貫中によって書かれた中国の通俗歴史小説です。 ※)三大奇書...