翁問答より学ぶ!心学の提唱・明徳と普遍道徳・全孝について
『翁問答』は、孝行を中心とする道徳哲学を、わかりやすく問答形式で説いた全2巻の教訓書・心学書です。 先覚者「天君」とその弟子「体充」の問答...
知命立命 心地よい風景 〜リベラルアーツ・知性と教養の海原〜
This is THE Shutou's SIGHT
『翁問答』は、孝行を中心とする道徳哲学を、わかりやすく問答形式で説いた全2巻の教訓書・心学書です。 先覚者「天君」とその弟子「体充」の問答...
列子は春秋戦国時代の人、列御寇(河南鄭州人)の尊称にして道家「道」を体得した有道者。 その学問は黄帝と老子の思想にもとづき、清淡虚無、無為...
赤穂浪士らに多大な影響を与え、また後世では伊藤仁斎、荻生徂徠、吉田松陰、乃木将軍といった人物に影響を与えた思想家であり、山鹿流兵法及び古学派...
蒙求は、唐の李瀚が経史から歴史人物の逸話行跡を集約抜粋して著した、伝統的な中国の初学者向け教科書です。 日本には平安時代に伝えられ、鎌倉時...
肥前平戸の名君松浦静山侯の江戸時代後期を代表する随筆集『甲子夜話』の巻三十九に輯録されている『水雲問答』。 これは、上州安中の殿様板倉伊予...
『墨子』の著者は中国春秋末期戦国時代の思想家墨翟とされ、一切の差別が無い博愛主義(兼愛)を説いて全国を遊説した人物で、墨子として知られていま...
熊沢蕃山は、江戸前期の儒学者・陽明学者です。 元禄・享保期の思想家・儒学者の荻生徂徠にして「この百年来の大儒者は、人材では熊澤(蕃山)、学...
荀子は、姓は荀、名は況といい、孟子の晩年の頃、戦国末期に趙に生まれ、秦の始皇帝の即位直前にこの世を去った儒学者で、しばしば荀卿と称されます。...
大塩平八郎の乱は、江戸時代の天保8年(1837年)に、大坂で大坂町奉行所の元与力大塩平八郎(中斎)とその門人らが起こした江戸幕府に対する反乱...
古代中国の春秋時代の思想家である老子(B.C.5世紀頃)の唱えた『道(タオ)』の思想は、戦国時代の荘子の無為の思想と並んで老荘思想と言われま...
『宋名臣言行録』は、宋代に活躍した名臣の言行を、朱子とその弟子李幼武とががまとめた中国古典の伝記集です。 『貞観政要』と並び、帝王学の二大...
『近思録』は、朱熹と呂祖謙が周濂渓、張横渠、程明道、程伊川の著作から編纂した、14巻からなる朱子学の入門書です。 儒学では『四書』(『論語...
古代中国の春秋時代の思想家である老子の唱えた『道(タオ)』の思想は、戦国時代の荘子の無為の思想と並んで老荘思想と言われます。 老荘思想が最...
十七条憲法は、604年に聖徳太子(厩戸皇子)が作ったとされる17条からなる法文です。 中身を見ると、道徳的な訓戒のようにも見て取れるのです...
武経七書とは、北宋・元豊三年(1080年)、神宗が国士監司業の朱服、武学博士何去非らに命じて編纂させた武学の教科書です。 当時流行していた...
武経七書とは、北宋・元豊三年(1080年)、神宗が国士監司業の朱服、武学博士何去非らに命じて編纂させた武学の教科書です。 当時流行していた...
武経七書とは、北宋・元豊三年(1080年)、神宗が国士監司業の朱服、武学博士何去非らに命じて編纂させた武学の教科書です。 当時流行していた...
武経七書とは、北宋・元豊三年(1080年)、神宗が国士監司業の朱服、武学博士何去非らに命じて編纂させた武学の教科書です。 当時流行していた...
武経七書とは、北宋・元豊三年(1080年)、神宗が国士監司業の朱服、武学博士何去非らに命じて編纂させた武学の教科書です。 当時流行していた...
武経七書とは、北宋・元豊三年(1080年)、神宗が国士監司業の朱服、武学博士何去非らに命じて編纂させた武学の教科書です。 当時流行していた...
武経七書とは、北宋・元豊三年(1080年)、神宗が国士監司業の朱服、武学博士何去非らに命じて編纂させた武学の教科書です。 当時流行していた...
帝王学の書といわれていますが、立場に依らず、我が身を正す学問として名高い『貞観政要』です。 この書は、唐の史官である呉兢が編成したとされる...
南洲翁遺訓は西郷隆盛の遺訓集で「西郷南洲翁遺訓」、「西郷南洲遺訓」、「大西郷遺訓」などとも呼ばれているものです。 明治維新の最大の功労者と...
江戸時代の著名な儒学者に佐藤一斎という人がいました。 当時、3,000人を下らないといわれた門弟には、佐久間象山、山田方谷、渡辺崋山、横井...
佳書という言葉があります。 佳は、よいこと、優れていること、美しいこと、またそのさまを表す言葉ですので、文字通りよい書物ということになりま...
さて、献策したのは張松であった。 「それがしが許都に行って曹操に漢中を滅ぼすように説得して参ります。」 劉璋は大いに喜んで張松を使者に立てた...
この夜の戦いは明け方までもみ合いになった。 その後、曹操は土城を築こうとするが、城壁を作ろうとすると馬超が攻めかけ、その上、土がやわらかくで...
さて、策を献じた男は治書侍御史陳羣。陳羣が言うに、 「劉備が西川を狙っているうちに呉を滅ぼしましょう。」 曹操もこれに同意して30万の兵を起...
周瑜は、大将達に手当されながら船を出して逃げ去った。 知らせを聞いた孫権が荊州に攻め込もうとしたが、張松は諌めて、 「曹操と劉備を噛み合わせ...
侍女達が薙刀を持っているのを見て驚いていると、 「お殿さま、奥方様は幼いころより武術をお好みで常に侍女達に撃剣をさせてはお楽しみ遊ばれていた...
さて諸葛亮は、魯粛に 「我が君は劉表の兄上。兄の跡を弟が継ぐのは当然ではござらぬか。ましてや劉氏でもない孫子が荊州を預かるのはおかしいとは思...
さて諸葛亮は張飛に、 「趙雲殿と同じく誓紙をしたためてもらいたい。」 と言った。張飛はその場で誓紙をしたため三千で武陵に攻め入った。 従事の...
周瑜は諸葛亮に南郡を目の前で奪われ、荊州、襄陽も取られたとあっては腹を立てずにいられなかった。かっとなった拍子に矢傷が裂け気を失い、半時余り...
諸葛亮が関羽を斬らせようとしたとき、劉備が、 「昔、我ら3人生死をともにせんと誓い合ったゆえ、後日に功をもって償わせて下さらぬか。」 と言っ...
張遼は黄蓋を矢で射落とし、曹操を助けて岸に上がった。黄蓋は韓当の船に助けられた。 甘寧は蔡中に命じて曹操の陣中深く案内させると、彼を斬り殺し...
周瑜はすぐさま本陣にかつぎこまれ諸侯がこぞって見舞いに現れていた。 諸葛亮は魯粛から周瑜の容態を聞いて、 「それならば私がその病、治してみせ...
龐統が仰天して振り向くと、そこには徐庶がいた。龐統は知り合いでもあったのでほっとして、 「まさかわしの計略をあばくつもりか。江南八十一州民草...
闞沢は黄蓋の書面を受け取ると、その夜に曹操の陣屋に向けて船を漕いだ。 曹操は黄蓋の書面を受け取り苦肉の計を見抜いたが、闞沢の能弁により偽りの...
さて魯粛は周瑜に言われて諸葛亮の様子を探りに舟を訪ねた。すると諸葛亮は、 「蒋幹を手玉に取った計略と毛玠と于禁が新たな水軍都督となったことで...
さて周瑜は諸葛瑾の言葉を聞いて諸葛亮を憎み、生かしてはおけぬと決意した。 魏軍の糧道を諸葛亮に襲わせることで敵に殺させようとしたが、逆に諸葛...
呉夫人は孫権の決断に迷いがあるのを見て、 「決めがたい国内の事は張松に国外のことは周瑜に聞く事が良い。 と兄上が臨終の際に残したではありませ...
諸葛亮は魯粛から 「魏に降伏をするよう勧める者がいるので魏の強い事は口にしないように。」 と言われた。 そして、諸葛亮は、降伏派の張松、虞翻...
趙雲は大斧を振るう鍾進を槍で突き倒し、画戟をかわして弟の鐘紳を青釭の剣で真っ二つに斬った。 長坂坡まで戻ると張飛が橋の上に馬を止めており、大...
さて張飛は関羽が水攻めをしたとみると軍勢を率いて下流に討って出て曹仁の退路に立ちふさがった。そこで許褚に出会い打ってかかった。しかし、許褚は...
諸葛亮の計とは劉表が病のために代わりに荊州を治めることであった。しかし、劉備は義に背くを言って受け入れなかった。 曹操は夏侯惇の敗戦で自ら...
孫権の軍勢に攻めたてられて将兵を失った黄祖は江夏を捨てて荊州へ逃れようとした。それを先読みした甘寧は黄祖を討ち取り孫権のもとに帰った。孫権は...
関羽は 「兄者が二度も出向かれたという事だけでも度が過ぎます。本当は名ばかりで何の学もないのでわざと逃げかくれしているのでございましょう。」...
徐庶は曹操のもとに行き母に会った。すると、 「不孝者。偽りの手紙に目がくらみ明君を捨て暗君につき自ら悪名を招くような事をするとはなんたること...
激怒して向かって来る曹仁に単福は、 「もし敵が全軍をあげて来れば樊城の備えが手薄になります。それを奪い取るの がよろしいと存じます。」 と計...
蔡瑁が城に引き返そうとすると趙雲の軍勢に出会った。趙雲は蔡瑁に 「わが君わどこか。」 と訪ねると、蔡瑁は 「使君は席を立たれたがどこに行かれ...